吸血妃ミラーカの憂鬱
ニニム
0-差し出された手
0-1
――私があなたに望むのは一つだけ。それは、あなたが私を裏切らないこと。
私は知っている。
これは夢だ。
何度も何度も日々の夢の中で繰り返される私の過去だ。
これは、私と彼女の出会いの夢。
はじまりの夢。
――曇り空。通り過ぎたばかりのにわか雨が痕跡を残す芝生。濡れた草花のかおり。制服越しの背中や露出した太ももの裏などで感じた土のひんやりとした感触。そして、期待と焦燥、そういうどっちつかずの感情。持て余す情動。私の外にあるものと、私のなかにあるもの。それら二つの境界で、ふわふわとした熱に駆り立てられるようになんだか浮ついた私の身体。
そんな全てが、頭の中からすっぽりと消えた。
彼女のことしか意識できなくなった。
朝露のように輝く粒子が、彼女の周囲をキラキラと舞っているように見える。
偶然ではない。
彼女から漏れ出した膨大な魔力が、彼女の周囲の空間に干渉し、光を散乱させている。
それは、彼女が何者なのかを考えれば、ごく当たり前の現象だった。
それでも、私はその輝きに、その美しさに、何か運命的なものを予感した。
私の中で、心臓が、ドキドキと痛いくらい脈打つ。とまらない手汗を、膝頭に手のひらをごしごしとこすりつけて拭う。
彼女が、私をじっと見つめていた。
無言の彼女は、私から五、六歩ほど離れたところで、こちらに身体ごと顔を向けて、姿勢よく静止していた。芸術作品みたいだと思った。絵になる立ち姿だった。
翻って絵にならないのは私の格好。
仰向けで地べたに寝転び、手足をだらんと投げ出していた状態から、さきほど上半身だけを起こして、今、そのまま彼女を見上げている。
こんな格好で彼女の目に映るなんて、途轍もない無礼を働いているのではないか。
遅まきながら、私は思った。不意の恐怖に襲われた。大慌ててで立ち上がろうとしたそのとき、
「決めたわ。あなたにしましょう」
と彼女が言った。
「え?」
私は間抜けな声を出す。立ち上がることもできずに。
言い直したかった。だが、何を言い直すというのか。わからない。でも、やり直したい。もっと何か、何か、気の利いた言葉を。はじめての言葉。私と彼女、はじめてのやり取り。しかし、え、という音を口から発したのは、はたしてやり取りと言えるのだろうか。こんなはずでは。私は、私は――
そんな私の狼狽に頓着することなどなく、彼女は微笑んで、
「一つ、お願いがあるのだけれど」
と私に言った。
私は黙って頷いた。
たとえ彼女にこれから何を言われようとも、自分がそれを断るなんて、全く考えられない。
だって、彼女の相貌が、彼女の笑顔が、あまりにも美しかったから。
彼女は、私に鷹揚と頷きを返した。そして、今日の晩御飯は何かなあ、と尋ねるような軽い調子であっけなく、
「あなたに、私のモノになって欲しいの」
と言った。
冷たい目だった。
モノを見下ろす目つきだった。
私が、彼女の要求を断ると考えなかったのと同じくらい、彼女は私がその要求を断るとは考えていない。
そういう目だった。
私が何か言葉を発するよりも素早く、彼女は私のすぐそばまで歩み寄ってきて、こちらへ無造作に手を伸ばした。その手をおずおずと掴み、私は引き上げられた。二人、真正面に向かい合った。彼女は、私の身体に全身を預けてきた。服越しに伝わる彼女の体温は、ひんやりとした土の温度だった。今も私の手を掴んでいる手とは反対側の彼女の手のひらが、突然私の首元に当てられて、人さし指が、私の首筋をさりげなく這った。まるでその奥の血管を求めて、皮膚に潜り込もうとするかのように、貪欲な冷たい指は、表面の皮膚の上を滑らかにすべってゆく。
私は震えた。
喜びの震えだった。
喜びの波紋は、私の奥深くまで静かに伝播し、徹底的に刻み込まれた。痕跡は消えない。何度も、何度も夢に見て、それでもまだ反復し足りないほどに。
喜びは、私の中で、とめどなく溢れ、どんどん大きくなり、やがて私の全てを飲み込んでしまう。
夢の中で、私は落ちてゆく。自らの喜びの底へ。
その先にあるものは――
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