第三十二話 夢観
白い霧のようなベールが辺りを包んでいる。
鼻を突く香りが漂うと、眠られた意識が試運転を始め出す。 先端にかけて徐々に感覚が起き上がっていく。 数秒後にはすべての躯の形が手に取るようにわかった。 体性感覚が呼び起こされると次に呼吸を意識する。 低く、間隔の狭い息を鼻からしている。 そこだけに集中して胸の起伏を激しくさせる。 だんだんと呼吸をゆっくり大きく整えさせると意識がより鮮明になりはじめた。 心臓の鼓動が伝わると同時に瞼の擦れる感触も覚える。
テープを剥がすように瞼を開く。
薄暗い部屋の天井が微かに見える。 色彩のある光から空間的情報を得られた。
指先に力をいれようとしても、すぐに動作反応しない。 毎秒三秒間一定のリズムで呼吸を繰り返していると指先の人差し指の第一関節が動き始めた。 指の動作と起伏の動作を一定に保たせた瞬間、首の裏に力を入れて持ち上げさせる。 すぐには起き上がらない。 視界は起動しているが、それ以外の動態保存された肉体を必死に呼び起こそうと躍起になる。 躯を揺り動かす。 指と指、指と床の布を擦る線維の感触が実体的になりだした。 もう一度首を動かす、口から生暖かい息が漏れる。 石のように固い躯を横に動かし上体を捩じ曲げる。
辺りを見回すが誰もいない。 どんぐりほど溶けたロウソクの火が揺らめいた。 簡素な板張りの部屋。 欠けた陶器が床に置いてある以外は抽き出しぐらいしかない。 奥にも部屋がある。 ゆっくりと起き上がり、奥へ進むと臭いの正体がわかった。 抽き出しがいくつもあるほか木製の低いテーブルがあり、イスはない。 何語かの記述された羊皮紙がテーブルの木目を埋めるように乱雑に敷かれ、籠の中には薬草と乾燥させた昆虫や爬虫類の死骸があり、壁側のテーブルには瓶に入った粉末と液体が並んでいる。 そこかしこに薬品の異臭を放っている。 瓶の一つを取って傾けてみると粘性の液体が傾斜し、別の瓶を取ってみると
外へ出てみると、水溜りが足許を濡らした。 空を見上げると灰色に濁っていた。 何層もの雲の奥で陽の光が薄くぼけて見える。 見回しても人っ子一人いない。 向こう側に建物が見える。 布で覆われたテントが周囲のそこかしこに立てられ、それを縫うように進む。 テントの集まりを抜け出すと傾斜した土壌の向こうに木造建築や、石造りの建物がたくさん並んでいた。 手をつきながら駆け込むと、見覚えのある城壁が端に見えた。
「そうだ、えっと……。 スキヤキだ」
壁に沿って進んでいくと、城門近くに一人の女性が立っていた。 それ以外に誰もいない。 女性は挙動不審のようにおろおろと辺りを窺っている。 不思議な容姿をしていた。 グレーのスーツスカートを着ている。 すらっと長い背に細い躯、日に焼けていない白い肌。 眉まで伸びた黒い髪はきれいに撫でつけられ肩の辺りまで届いている。 細い顔に彫刻品のように整った鼻、目許にほくろのある女性はふとこちらに気付くと、はっと驚いた顔で急ぎ足で歩み寄ってきたが、なぜか途中でその足を止めてそれ以上近づこうとはしなかった。
「——ああ、やっぱり違うわよね……」 女性は少し落胆した顔を浮かべて観察するように首を動かして周りを見ていた。 「あの、ここは〈トリマ国—王都スキヤキ〉ですか?」
「ここは……。 ええそうです。 トリマ国の王都スキヤキです」
「ああ、そう……。 そうよね」 彼女は妙に納得した顔付きになると、安心したのか細い手を膝元に重ね、姿勢を正した。 「失礼ですが、あなたは?」
「俺ですか? えっと……、えっと……。 ちょっと待ってくださいね」 男は考えこむ。 「ああ、そうだ。 ましろです」
「ふふっ。 ご自分のお名前をお忘れですか?」
「むしろ、どうして皆覚えているのか不思議なくらいです」
「ましろ……。 ましろというのはご苗字なのですか?」
「苗字は
「わざわざご丁寧にありがとう」 女性は微笑んだ。 「お名前はどういった漢字を書くのかしら?」
「ましろは平仮名のままです」
「四月一日ましろさん、ですね。 とてもいい名前ですね……。 あぁ、失礼しました。
二人は手を離す。
「どうって……、それは」 掌を一瞥したましろは考える。 感覚はある。 「どうだったかな。 この世界に来てから書いたことありませんでしたし」
「未来的には書くという行為がなくなるでしょうね」 紅棕櫚も掌を見ながら微笑む。 「ご出身は?」
「日本です」
「お住まいも?」
「……ええ」
「日本のどこかしら」 紅棕櫚は矢継ぎ早に尋ねる。
「日本の……」 ましろは考える。 「あれ? ど忘れしてるのかな……」
「ええ、まあ夢ですものね……」
「え?」
「どうですか、ここでの暮らしは。 退屈? それとも熱中?」
「平凡ですかね。 まだなにも起こっていないので」
「食べ物は美味しい? 空気は新鮮かしら?」
「味はしません。 味覚がないので。 嗅覚はありますが、空気が新鮮と感じたことはありませんから、なんとも言えませんね」
「あまり有益な意見とも言えませんね」 紅棕櫚は上品に微笑んだ。「クリーチャーと戦ったご経験は?」
「クリーチャー? モンスターのことですか?」
「ええ、そうです」
「何度か」
「迫力あったかしら」 紅棕櫚は両腕を横に伸ばして掌を広げ、首を傾げた。 「私やあなたみたいに」
「そりゃまあ——」
「生きているから?」
「……ええ、まあ。 俺からも一つ質問していいですか?」
「どうぞ」
「あなたは何者ですか?」
「ふふっ。 ……と言うと」 紅棕櫚の微笑んだ表情や人間じみた態度が煙のように消え去った。
「あなたは何者ですか。 ——どうも最近そればっかり言っている気がするなぁ」 ましろは溜め息をついて呟く。 「この世界へ来ていくつか不思議なことはありますが、とりあえず今はそれは置いておきます。 差し迫っての不思議なことにあなたが関連しています。 まず俺とあなたを除いて誰もいません。 俺の周りには黒猫と女子高生のストーカーがいるんですがそいつらがいないのはどうもおかしい。 だから今これを夢と仮定しますが、残念なことに俺はこの世界に来てからというもの睡眠を一切していませんからこれはおかしい。 だからこれを現実と仮定すると、これまたおかしい。 今さっき言った俺とあなた以外誰もいない問題が解決していないからだ。 物事には常に原因があるから結果がある」
「それが私?」
「なので質問しています」
「でしたら、その質問はやや的を得ていません。 私は紅棕櫚唯一。 どこにでもいるただのニンゲンです」
「ここは夢ですか?」
「さあ。 どうかしら? もしかしたらあなたは胡蝶かもしれない。 私も胡蝶かもしれない。 世界を覆いつくす宇宙そのものが蛹なのかもしれない」
「なにか知っているのでしょう」
「かもしれません。 ですが質問は一つだけだったのでしょう?」
「うーん」 ましろは考える。 「誰が蛹と認識しているのですか?」
紅棕櫚はまた表情を変えて微笑んだ。
「ふふっ。 ましろさん、お会いできて光栄でした」 紅棕櫚は丁寧なお辞儀をした。
「もう行かれるのですか?」 ましろは眉根を顰める。 「どこへ」
「どこへも行きません。 人は初めからどこへも行けはしません。 同じ場所にずっといて、ずっと死んでいるだけです。 ただ蝶になるだけ。 それが、私たち人にできるたった一つのこと」
もうお暇させていただきましょう、と紅棕櫚は左手を差し出した。
「実は私、左利きなんです」
「はあ」 ましろは左手を差し出して握手をしようとした。
しかしその手は空を切った。
ましろはこの世界へ来て何度か驚いたが、紅棕櫚の手をすり抜けたことほど驚き、慄然を覚えたことはない。 掌を見る。 指を擦る。 確かに感触はある。
「失礼します」 ましろは右手で紅棕櫚の左腕、胴体の順に撫でようと試みた。 その全ては流れるように通り過ぎたが、唯一右腕のところで手があたった。 右腕を掴み、手首や指先に触れる。 体温はない。 ましろは鋭い眼差しを見上げる。
紅棕櫚は後ろへ下がってその手を離す。
「あなたは何者なんですか?」 ましろは同じ質問を尋ねた。
「あなたは何者なんですか?」 紅棕櫚は反問した。
ましろは返す言葉もなく呆然と立ち尽くす。
「俺は何者なんですか?」 ましろはまた尋ねる。
「そう。 それが正しい質問でした」 紅棕櫚は首肯して微笑んだ。
紅棕櫚の周囲に白い霧状の光が煌めき出した。 否、目の——角膜が霞みはじめたのだ。
「ごきげんよう——」
「待ってください。 あなたはなぜここに来たんですか」
「ここからあなたが学ぶべき教訓は、相手をよく知った上でかつ質問の内容をもっと明確にすべきであるということです」 紅棕櫚はましろに顔を向けたまま一歩、また一歩と後退していった。
「紅棕櫚さん」 ましろが彼女の方へ近づこうとすると、踏み込んだ足を思わず止めてしまった。 伸ばした腕が切断されたように透明に消えていたのだ。 ましろは見えない手を覗く。 指を擦る感覚はあるのに、目には見えない。 紅棕櫚を見ると、品をつくって微笑していた。 「……どういうことです」
「答えは明白です」 紅棕櫚のガラスのような瞳はじっとましろを見つめている。 「私はあなたに興味があります。 あなたは
「どういう意味ですか? あなたの目の前にいる男は小学二年生と思って下さい」
「一人の人間の魂は神そのもので、体から体へと移行する。 すべての魂は宇宙の魂を構成しすべての存在は最後の一つになる。 一人ひとりの魂は知の太陽に至るための翼となる炎によって命を与えられる」
「え、宇宙……? 知の、なんですか?」
「ジョルダーノ・プルーノ。 イタリアの修道僧にして哲学者、錬金術に魔術、カバラに傾斜した宇宙の永遠性を説く神秘主義者の言葉です」 紅棕櫚の足許が、風に靡いた砂のように細かく分解し始めた。 「これで本当のさようならです……。 願わくば、女神のご加護を……」
●
真っ暗闇のその中で、自分の躯だけが仄かに微光を放っている。
いつのまにか違うところにいた。 そう、目覚めたときにはそこにいた。 いつもそうだ。 気付いたときに、目覚めている。
(また夢か……)
自分の意思に反して、白い画用紙に左手に持った赤い色鉛筆で絵を描いている。 手を止めることができない。 客観してその過程を見ている。
躯の自由はないが、思考する行為そのものは独立しているようだ。
頭の中は目の前で描かれる未完成な絵ではなく、紅棕櫚という女性のことで埋められていた。
なんてことはない。 なにも思い付かない。 考え出す知恵がなければ答えを導けない。 小学二年生並みの頭に浮かぶのは、水と氷である。
固体はその物質の原子・分子の結合が強く、ガラスと違ってほぼ秩序的に定まった配列の体積と形をもつ。
液体は定まった形のない流動体のため分子の位置を自由に変化でき、体積はほぼ一定である。
氷の入った容器にある一定の氷を入れても一つひとつ固体として独立している。
水の入った容器に同じく一定の水を入れると液体のため容器に合わせて形を変え浸透する。
全体で見れば、それは一つのもの、形となる。 液体の容器の中に固体を入れると固体は融解され混ざり合い、その逆は凝固される。
(いやだめだ。 まったくわからない)
ふと気付くと、先ほどとは違って輪郭のはっきりした絵が完成されていた。
それは赤いドラゴンだった。 真っ白な背景に、一匹の首の長いドラゴンが傲然と火を吐いている。 人間の鎖骨のようにS字に曲がった両角に鋭い牙、鱗のある大きな四本脚の体の背中に同じぐらい大きい双翼が生えている。
我ながら上手いなと自画自賛したくなるほど要点を捉えていた。 紅棕櫚との邂逅の詮無き思考を諦め、目の前の光景に目を配った。 画用紙は数枚散らばっており、赤いドラゴン以外も描かれていた。
茶色い頭部の牛のヒトの形をした怪物が斧を持っている。 ミノタウロスに似ているし、おそらくそうだろう。
黄色い鱗粉を鏤める緑色の大きな四枚の翅に真っ直ぐ伸びた触覚の蝶々。
白い雲のようにもこもこした羽毛に足されたように肌色の頭があり、丸い瞳に小さな口、足許には丸みを帯びた四本脚の羊。
黄土色に統一された口を大きく広げて威嚇している四本脚の動物。 顔の周りに覆われているのは太陽の周りで波のように揺らめくコロナのような
画用紙を埋めるほど大きな青色の鯨が背中から潮を噴いている絵や、水色の四本脚の馬の頭部に黄色い角が生えており、よく見るとそのほかにも、犬、亀、兎、象、猿、カンガルー、孔雀や土竜など、たくさんの動物が一枚いちまい色も要点も捉えて描かれていた。 一目で見て、それがなんであるかわかるほどに。
絵を眺めているうちに、これは子供が描くような絵に似ていると思った。 靄に包まれた自分の記憶の中の一部を反芻しているのかもしれない。 なるほどこんなかわいい時代もあったのだなと思っていると、なにか既視感を覚える絵が端の方に見えた。
黄色い両角は珊瑚のように隆起して龍の爪のように鋭い。 輪郭が黒いから白い鹿の絵である。
そう、カノープスである。
ほかにも見覚えのある狼、
(記憶した映像を絵に起こしているのか——?)
いまいち纏まらず考え倦ねていると、視界の隅で動く物体が映った。 それに反応するように視線はそちらへ向けられる。 あくまで遠隔操作のように勝手に。
視界に入った
(これが仮神か——?)
しかし、凛が言っていた情報と随分齟齬がある。 周囲に瑠璃色の膜はなく、人形は神々しく発光していない。 むしろ真逆で、この暗闇にマッチした禍々しい不気味さがある。 弾性体の人形は前屈みになり、頭部の赤い球体が数センチ動かして数十枚あるうちの絵を眺めているのだろうか、そもそも目があるのだろうか。 すると、屈み込んだ姿勢を維持したまま頭部にある赤い球体から卵の黄身を針で突き刺したように真っ赤な液体が零れはじめた。 粘性の頭部に浸透せずに油のように分離して表面を破り、蜜のように滴る赤い液体が真っ白な画用紙を赤く染め上げると、赤い蜜は意思をもったように重力を無視して逆再生のように吸引しだし、何十枚もある画用紙を表面の奥の赤い球体に一度に取り込んでいった。
弾性体の人形は元の直立姿勢に戻るとその動作でまた弾性が働いた。
突然泣き声が聞こえた。 大根役者のように泣く大人と違って、無秩序な子供のように泣きじゃくる、少女の声。
どこからだろうと考える。 すぐにわかった。
自分からだ。
どうしてだろうと考える隙もなく、泣き声に反応して弾性体の人形がバッと顔を向けた。
少女は泣きじゃくる。
弾性体の人形はじっとそれを見ている。
少女は泣きじゃくる。
弾性体の人形はじっとそれを見ている。
●
湿った土と雨の香り、それに混じって植物の青臭さに目を覚ます。
暗い天井に仄かな明かりが灯っている。
身体は重く、罅が入ったように鈍痛が駆け巡り思わず顔を顰める。 情けない声を抑えることができない。 なにもしていないのに息があがる。
折れている肩の方の手がなにかを握っている。
凛の手だった。
彼女はそっと手を握りながら自分の膝を枕に寝息を立てている。
もう一度眠ろうとしたが、すでに眠気は吹き飛んでいた。 無理を押して片手で立ち上がろうとすると膝元にいた凛が目を覚ます。
「……ましろ」 凛は驚いた顔を浮かべている。
「よぉ、凛」 ましろは微笑む。 「これは夢か?」
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