第三十一話 異変


 王都—スキヤキ外郭南部中央広場付近にて買い物中であったましろたちは突然謎の空間に閉じ込められる。 陰湿な女性店主の扱う商品を購入したせいで持ち金が銀貨一枚ずつになったため、霧雨の降る翌日、濃密な湿り気を帯びたうるちの森にてフリーハントに勤しんでいた。

 「見ろ……、凛」 草叢の影に隠れたましろはその隣の凛に顎で差した。

 袈裟のように肩から下半身を襤褸切れで申し訳なさ程度に包んだものもいれば、下半身のみ包んだ褐色の巨体数体が疣つきの背骨を浮かび上がらせながら木の幹に這いつくばっていた薄緑色の蠕動虫キャタピラを喰い千切っていた。

 「うわっ、キッモ……」 凛は口に手をあて眉根を顰め、目を極薄にした。 「なにをしているのかしら」

 「そりゃ昨日の晩にパンを齧っていたお前が一番知っているだろう」

 「やめて聴きたくない」 凛は耳を塞いだ。 「で、どうする、やる?」

 「モチのロン。 俺の武器は相変わらずだが……」 ましろは今日も今日とて頭の上で眠りについている黒猫のピャンを一瞥する。 頭部にのっているので見えないが、気持ちの問題である。 「凛が買った魔道具マジックアイテムを試すのに丁度いい」

 「これね」 凛は右手の人差し指に濡れて輝く銀の環状の爪と台座に嵌められた青い金剛石ブルー・ダイヤモンドを見つめる。 「そこだけ切り取ると、あたしたち、結構残忍よね」

 「金のために、生きるために命を奪ってるんだから、否定はしないし、しちゃいけない。 それに、生きるっていうのは近からず遠からず誰しも生命を奪うことに加担しているんだ。 だから俺たちは残忍であることに間違いない」

 「え、なにもう一回言って」

 「あはん俺の名言が。 暇だから考えてたのに……」

 凛はさらにその隣のしゃがみ込んだカノープスの柔毛な白い背中を撫でていた。 こうして撫でたり触れられるのは王都など——いわゆるセーフハウスでは出来ないため、凛は暇があると入念とばかりに撫でるし、当のカノープスも口に出さないもののわざと凛の目の前を歩いたり、手許に触れるように歩いてこれみよがしに歩いている。 可愛らしい動物の外見にぎりぎりの範疇当て嵌まる白い鹿のカノープスの甘え、デレのようなものだ。

 (でもなんでだろう。 全然可愛くない) ましろは白けた目で蔑視する。

 ましろが先行して疾走し、褐色の巨体がその足音に緩慢な動作で反応した直後、そのうち一体の膝に内側から棍棒を叩き付けた。

 巨体の汚れた口許から、重い悲鳴が辺り一帯に轟いた。 連れの巨体のモンスターは木陰に隠れていた枝葉のない木の幹を両手に持ち、緑色の液体を濡らした茶色い歯は下顎の第二大臼歯辺りから太く発達した切歯を生やし、眉のないむき出しの大きな双眸でましろを睨みつける。 ましろは地面を見る。 影は正面のましろの方へ長く影を引いていた。

 「ねえ、言葉わかる?」 ましろはモンスターに尋ねた。

 目尻を鋭く持ち上げたモンスターはましろの言葉など意に介さず、痰の絡んだ粘っこい怒号で大きな幹を振り下ろした。

 ましろは棍棒を盾にそれを防御をした——。

 が、予想もしなかった事態がましろを襲った。

 盾である棍棒はモンスターの目一杯の打撃に堪えることができずに圧し折られたのだ。

 「——ガッ……」

 痛んだ棍棒はその真下にあるましろの肩甲骨と同じくあっさりと粉々に砕けた。 肩の骨が折れる音、思わぬ激痛が全身を駆け巡り鼻の奥がつんと叩き付けられた感覚が遅蒔きに襲ってきたましろは思わず口を開け、片膝を地面につけて項垂れた。

 「ましろっ!!」 悲愴に滲んだ顔の凛は悲鳴の声をあげながら草叢から飛び出し、共に駆け出すカノープスを見る。 「カノープス!」

 「わかっている! 私が囮になる、そのうちにましろをっ!」

 漆黒の大鎌を水平に持つ凛の横を素早い四本脚で移動するカノープスは追い討ちをかけるモンスターの前で縮こまるましろの背中を通り越し、その珊瑚のような枝分かれした鋭い両角を巨体のモンスターの腹目掛けて突き刺した。

 モンスターは叫声をあげ、両腕を回転させながら尻餅をついて地を揺らす。 二体目のモンスターが木の幹を肩に掛け、空いた手をカノープスに伸ばすが鋭い刃物のような両角を腹から素早く抜いてそれを振り回し、大きな掌を擦り傷だらけにする。

 背後にいた三体目が肉薄する最中、凛はましろの折れた方の腰に手を伸ばし、大鎌を持った手で後ろから手首をまわし後退しようとするが、濡れた地面に足を滑らせ膝をついた。 凛は瞠目した顔を見上げてモンスターと対峙する。 ハッと彼女は装着した〈影の狩人シャドゥハンターの指輪〉を一瞥して目前の影を鋭利な大鎌の刃で土ごと削る。

 すると、モンスターの脇の下が突然切り裂かれ、血飛沫を飛ばしながら悲鳴をあげた。

 「やった!」 凛は解放された安堵感に浸りかけた瞬間、その顔が凍り付いた。

 血を流した箇所を手で押さえながら、もう片方の手に持った木の幹を振り上げたのだ。

 「凛っ!!」 カノープスが交戦するモンスターを横目に叫ぶ。

 しかしカノープスの必殺の固有スキル【突進ラッシュ】は使用できない。 発動条件に問題があるわけではない。 発動ならびにそのタイミングは全て〈異界獣ペット〉であるカノープスに委ねられている。 問題は、【突進ラッシュ】の射程範囲に凛とましろがいるということである。 いかに再生能力の高い〈異邦人ストレンジャー〉であろうとも、その破壊の陣風の前では無事では済まない。 そもそも固有スキルの本質は〈異邦人ストレンジャー〉を屠るための対人対物能力である。 ではモンスターをその射程範囲ぎりぎりに固定させれば可能ではないか。 それは可能である。 しかし、それは経験に依存するところが大きい。 カノープスがこれまで使用した固有スキルの回数はましろが出会う前を含めてたったの四回。 強力な能力である分、精神労力の消費が激しいために使用回数が限られた経験の浅さがここに出た。

 下手に外せばモンスターに致命傷を与えられず、死に物狂いの上段からの大振りが凛を襲う。 逆にモンスターを射程範囲中央に寄せてしまえば、その光の如き早さの暴力の突風が凛の華奢な躯を容赦なく傷つける。

 カノープスはましろと初めて出会った際のことを思い出した。 あの時、昏倒した凛のそばにいるましろを倒すことができなかった。 あの時は結果的になにもせずにいたことが逆に良かったと思えてしまうほど幸運だった。 だがいまは完全に違う。 相手はモンスターである。 〈異邦人ストレンジャー〉の命令を除いてモンスターから攻撃を受け、対象を破壊できる状態であれば破壊する。 それが〈異界獣ペット〉に課された規律の一つである。

 カノープスは脳裏に浮かぶ逡巡を振り払い、背後で今にでも凛に振り下ろそうとするモンスターに躯の向きを変え、たった四回の射程距離の経験から端の端に当てるつもりで膝を折り曲げ、弾くように土を蹴った。

 「【突進ラッシュ】!!」

 一瞬にして木立を破壊する突進の衝撃、濡れた土や枝葉、残存する蠕動虫キャタピラが風塵によって踊り狂い周囲に吹き飛んだ。

 カノープスは生い茂る木立と草叢から後ろを振り返った。 モンスターに致命傷ともいえるダメージを与えていれば、凛は無傷であり、逆転の可能性がある。 しかしモンスターの姿が存在しなかった場合、決定的な致命傷を与えていることにはならず、凛が襲われてしまう。

 答えは前者だった。 確かにモンスターは、生きていた。

 ——しかし、無傷であった。

 「そんな……」 カノープスは絶望の声を漏らした。

 失敗したのだ。

 モンスターの肉のかたまりのような豪腕が凛目掛けて振り下ろされた。

 「——凛っ!!」

 頭部に向って木の幹が直撃する刹那、凛は目を閉じた。


 悲鳴が聞こえた。

 痰が咽喉に絡んだような重低音。

 凛は片目だけを開けて、目の前に映った光景にしばし時が止まったかのように動くことができなかった。

 有り体にいえば凛を襲おうとしたモンスターは額に突き刺さった弓によって死んでいた。

 「今のうちに引けっ!」 どこから聞こえる男の大声。

 凛はその声に現に帰り、急いで後退する。

 「——り、凛……、凛」

 「ましろ!?」 肩に預けられたましろの衰弱した声に、凛は安堵を浮かべる一方、その今にでも消え去りそうな弱り切った声に流れる泪を抑えることができなかった。 「ねえ、ねえ大丈夫……」

 「お、おかしいん、だ……」 ましろは息を吐くのも辛そうな声で囁いた。 「躯が、変、だ……」

 「安心して、もう大丈夫だから」 凛はましろを引き摺りながら無理に笑う。 「ったくあんたが痩せてて助かったわよ……」

 「凛!」 カノープスが凛の許へ駆けつける。 その頭には黒い布を捲いていた。 ピャンだった。 「ましろを背中に乗せてピャンを持ってくれ」

 凛はそのとおりに瀕死のましろをカノープスの背中に仰向けに乗せると、ましろは呻き声をあげた。 白い鹿の足許で地面に赤い色が混じるのを見た凛は瞠目した顔を背けずにはいられなかった。

 凛とカノープスは急いでその場から離脱した。

 「ピャンはどこにいたの?」

 「草叢に倒れていた」

 「こんのっ」 凛は腕の中で抱かれたピャンを一度揺らす。 「〈異界獣ペット〉のくせしてなにやってんのよ!」

 「凛」 カノープスは隣を走りながら顔を向けた。 「あまり揺らさない方がいい」

 「どうして?」

 「そいつもましろ同様衰弱している」

 「え……?」 凛は改めてピャンを見下ろす。 カノープスの言うとおり、いつも超然しきった、時に高圧的で、時に人を小馬鹿にした態度でいたあのピャンが今は見る影もなく、黒く艶やかに濡れた毛先に葉や土を絡ませた野良猫が目を閉じ口を開けて苦しそうに呻いていた。 「なんで、どうして……」

 「すまない……、小娘」 ピャンは無理に唇を歪ませた。 「雨に……、嫌われてのう」

 「とにかく、警戒しながらこの森を脱出しよう。 守りながらじゃ一方的に不利だ」

 「あの声は誰?」 凛はカノープスの意見を無視して口早に尋ねる。

 「声……、矢か?」

 「そう。 男の声、見た?」

 「いいや。 誰だろうか」

 「それだけじゃない」 凛はカノープスに乗ったましろの背中の姿と腕の中で苦しむピャンを交互に見合う。 「それだけじゃないよ。 いったいどうなってるの……」



                  ●



 凛とカノープスはそれぞれに衰弱した仲間を抱えながら〈トリマ国〉の市門へ向っていた。

 「凛、もうすぐだ」 カノープスが門を見ながら呟いた。

 「ええ、そうね。 もうすぐよ、ましろ、ピャン」

 「凛、あの門を潜る前に、私は消える……。 すまない」

 「そうか……。 ねえ、この後どうすればいいの? ……そうだ、回復魔法。 ゲームとかでよくある回復魔法があれば」

 「凛——」

 「そうだ、病院、病院はどこにあるの?」

 「凛——」

 「近くにいる魔法使いでもいい、一人でもいれば——」

 「凛!」 カノープスはパニックになった凛を諌める。 「よく聴くんだ。 この世界に、回復魔法を扱える者はほとんどいない」

 「いないって、どういうこと……」

 「いないんだ。 人を傷つける魔法はあっても、人を癒す魔法は数少なく、それを扱える者は極わずかなんだ」

 「で、でも、あ、あのお店で、女の店主のお店で〈僧正ビショップの駒〉の効果は回復だった」

 「そもそもあの店に置いてある物がどれも珍しい物ばかりなんだ。 それと病院はない。 外郭内にある病院らしい施設といえば、それは聖統救済教団だ。 だが、どこにあるか……」

 「そんな……」

 次第に雨は強くなり、凛の前髪が額に張り付いた。 服と靴に濡れた水が全身を冷やす。

 「凛、よく聴くんだ」 カノープスは立ち止まる。 「私はもうすぐ消える。 ここからはキミ一人で二人を担がなくちゃいけない。 いいね?」

 「カノープス、私どうすれば……」 凛は濡れた前髪を払い、カノープスに救いを求める。 「どうしたらいいの?」

 「大丈夫だ凛。 二人は大丈夫だよ。 キミだって知っているだろう? 二人はこのぐらいでは死なない。 風邪みたいなものさ。 それに消えはするが私はずっとキミの傍にいる。 だから安心するんだ凛。 門前にいる兵士に助けを求めて、指示を仰ぎ、一緒に教団に行くんだ。 いいね?」

 「……わかったわ」

 「キミならできる。 自信を持って」



                  ●



 灰色の空に沈みかける陽の下で、強雨の中で市門を警備している城兵の男は、門を隔てた同じ班の仲間に声をかけられて目を覚ました。

 「……呼んだか?」

 「ふん、呼んだよ馬鹿」 城兵は呆れ返ってつい鼻で笑った。 「ここいらでお前ぐらいなもんだよ。 立ったまま寝られるヤツなんて。 うちの死んだ婆ちゃんが言ってたよ。 どっかの僻地の森で生活している部族は何時間もかけて狩りをする間、立ったまま寝るらしい。 お前、もしかしてその部族の血をどっかからもらってんじゃないのか?」

 「馬鹿はお前だよ、馬鹿」 シンウェルは欠伸をした。 「まともなことも言えねえのかよ」

 「こう一日なーんもねえと話すこともないんだよ。 立ったまま寝れるお前が羨ましいよ」

 「こうな、自然と一体化になるイメージを育むんだよ、頭にさ。 突っ立っている退屈さとさ、眠る安らかさを何度も重ねるんだ。 そうすると——」 自分の言葉に耳を傾けているのかと思った城兵の仲間は前屈みになって前方をじっと見つめていた。 「どしたー。 イメージできたか?」

 「いや、見ろよ、あれ……」

 仲間が指差した方向をシンウェルも揃って見てみると、地面を激しい豪雨の雨脚で毛羽立つ濃霧の中、一人の小さな女の子が同じぐらいの背格好の人間の手を肩にまわし、引き摺るように城まで近づいていた。

 「おい、大丈夫か?」 シンウェルが大声をかけた。

 「怪我してるんじゃないのか?」 仲間が怪訝な声をあげた。

 「じゃないか、じゃなくて怪我してるんだよ。 大方冒険者だろう。 昼前に門を出るのを見た。 可哀想に」

 女は数分かけてから門の前に辿り着いた。 髪は水を含み、躯中濡れそぼっていた。 よく見ると、男の腰にまわした手には黒い猫がぐったりと折れ曲がっている。

 「大丈夫か?」

 「あの……、ビョウイン……」

 「ん?」 城兵は聞き返した。

 「仲間が怪我をして……、どこへ行けばいい、ですか?」

 「軽傷なら薬師のいるとこだな、毒とかもそこに行けば治るかもしれない。 金は掛かるが。 教団へ行けば治療してくれるかもしれないが……。 金はあるのか?」

 「銀貨二枚なら……」

 「ああ、残念だけど、それだけじゃあだめだな」 城兵は答えながら少女よりもっと後ろの方で人影を見つけたが、霧のせいでいまいち判然としなかった。 「それだけじゃあどこも掛け合っちゃくれない。 教団に行っても、ベッドと傷を塞ぐ布っ切れを貸すぐらいじゃないかな? それよりうるちの森で傷に効く薬草があるって聞いたことがある。 そっちを採りにいった方がいい」

 「そんな……」 少女は顔を伏した男の横顔を見つめ、希望が失われた声を漏らす。 「どうにかならないんですか?」

 「悪いけどほかに思い付かないな」

 「残念だけど」 城兵も賛同する。

 「お願いします。 仲間が……、仲間が、危ないんです」

 「悪いな。 俺たちにはどうしようもないんだよ」 城兵は面倒な顔でぞんざいに返した

 「いや、ほんと悪いな」 シンウェルもへらへら愛想笑いを浮かべる。

 「そんな、お願いします。 お願いします。 助けてください」 少女は雨滴を弾く子鹿のような長い睫毛で城兵を見つめ、雨音で掻き消えそうな震えた声で懇願する。

 「悪いな、嬢ちゃん。 どっかほかの——」

 「——おいおいおいおい。 大の大人が子供にそんな情けねえこと言ってんじゃねえよ」

 先ほど城兵が認めていた人影がいつのまにか少女の真後ろに立って声をかけていた。

 長身の男は草木や葉、苔を貼付けた濃緑色のフード付きギリースーツを羽織り、緑のチェニックの上に革鎧ソフトレザーアーマーを装着し膝下にかけて縄で括った深緑の太めのズボン、足許は黒のウッズマンズブーツを履き、腰のベルトには短剣ダガーと精巧ながらの彫られたつかのラム・ダオ、反対側には三つの膨らんだ皮袋を佩いている。 背中には迷彩の合成弩弓銃コンパウンド・クロスボウ、腰の裏には色違いのシャフトとヴェインが多数覗けている。 薄い黒髪に焼けた肌、口と頬の周り砂鉄ほどの髭を生やし、青い瞳の片方は布製の黒い眼帯を耳に掛けている。

 「あんた……、どっかで見たな……」 シンウェルは目を薄めて男を見る。 「そうだ森の監視者フォレスト・ウォッチャーか」

 「監視者ウォッチャー!? 厭世家が一体全体なんでこんなところに?」

 「俺が監視者ウォッチャーだろうがなんだろうがそんなもんはどうだっていい。 ——おい、そいつ大丈夫か?」

 「わからない、でもモンスターに肩をやられて……」 少女は首を振る。

 「……こいつは酷えな。 中が出てる」 眉根を寄せる男は二人の首筋に黒く輝く黒果実ブラックオパールを一瞥する。 「ビギナーか。 まあそれじゃあ獠牙の巨人オークにやられるのも頷けるな」

 「えっ——」

 「とにかく」

 男は有無を言わさず少女から怪我人を剥がそうとすると、少女は華奢な見てくれとは裏腹の馬鹿力で勢いよく男の胸ぐらを掴んでこれ以上ないほど冷静さの欠けた目を男の顔まで接近させた。

 「……はは、担ぐんだよ、担ぐ。 殺しゃあしねえって。 こいつを急いで運ばなくちゃな。 だから俺をそんな目で見ないでくれ」

 男は無言で睨みつける少女に穏やかな声で説く。 少女の目に映る顔は曇ってよく見えなかった。

 「運ぶって、どこへ?」 少女は掴んだ手を離した。 「あたしたち、お金をあまり持っていない」

 「銀貨二枚だと」 外野のシンウェルが横槍を入れた。

 「わーかったから」 男は外野に手の甲を向けて振り、黙れと示す。 「とりあえず俺を信じてついて来い」

 「まだあんたのことを知らない。 助けてくれるのは感謝する。 でも、変なことをしたら、あたしはあんたを許さない」

 「嬢ちゃん、そいつのこと知らないらしいな……」 外野のシンウェルが出しゃばりだす。

 「そうだ。 それでいい」 外野を完全無視する男は雨の中、少女に向って微笑んだ。 「俺の鉄則その三、見ず知らずの善意には警戒せよ」

 「——鉄則?」

 「そうだ。 生きる上で必要な鉄則だ。 その考えは決して間違っていない。 だから死んでも絶対に警戒を解くなよ? その武器は持ってろ。 自分の行動には最後まで責任をもて」

 「それも鉄則?」

 「ああそうだ。 鉄則その十二だ。 ……行くぞ」

 漆黒の大鎌を持つもう一方の手で黒い猫を胸に抱く少女は頷いた。

 「そいつも怪我か……」

 「あんた——」

 「まずお嬢さん。 俺はあんたじゃない。 立派な名前がある」

 「ごめんなさい。 あたしは凛」 凛は黒猫を手を傘代わりにして降雨を防ぐ。 「お嬢さんじゃ……、ありません」

 「凛か、いい名前だ。 俺はハイオイド。 しっかし、銀貨二枚じゃ足りねえな。 今日が初めてかよ」

 「いいえ、これで……六、七回目」

 「それを初めてって言うんだよ」 ハイオイドは口元を歪めて微笑んだ。



                  ●



 雨の勢いは止むことを知らず降り続いている。 市門を潜った凛たちは入ってすぐを右折した。 そのまま十分以上歩く。

 「ねえ、さっきっからどこへ向っているの?」 凛は遠くに覗ける背後の城兵駐屯所と換金所を振り返りながら、意識のないましろを背負うハイオイドに尋ねた。 「この先は危険だってましろが言ってた……」

 「ましろ——?」 ハイオイドは一拍置いて、ああと呟いた。 「こいつかぁ。 ……その猫にはあるのか、名前」

 「ピャン。 ピャンって言ってた」

 「へえ、ピャンねえ。 言ってたって、誰が」

 「あ、いいえ、なんでもない——、なんでもありません」

 「確かに礼儀のない子供は嫌いだ。 でも無理に固くなることはない。 それが子供だ」

 「それも鉄則?」

 「いんやっ、これは単なる俺の持論」

 「違う、そうじゃなくて、この先は危険なの」

 「なにが危険なんだい?」

 「それは……」 凛は返答に窮し、顎を下げる。

 「鉄則その七、目で見るもの以外信じるな。 目で見たものでも信じるな。 これだから子供と黒果実ブラックパールは教え甲斐がある。 つまりキミたちだ」

 「ねえ話ぐらいは聴いてよ。 隠し事なんかしないで!」

 「悪い悪い。 そんなつもりはなかったんだ。 信用してって言っただろう」

 「鉄則その三。 それにあたしも言ったはず。 変なことをしたら、あたしは——」

 「——あなたを許さない。 わかってる。 これから向うのはキミの言うとおりトリマ国内危険区域を受けているアオノリだ。 そしてそこにいるカジャって専業術師の許へ連れて行くつもりだ」

 「専業術師……」 凛は言葉の意味はわからないが、ハッとする。 「回復魔法?」

 「——凛」 透明化のカノープスが凛の隣で顔を向ける。

 「凛、この世界に回復魔法を扱える者はほとんどいない。 もちろん今から向うところにいるカジャも回復魔法は扱えない。 あの爺さんヤブだから」

 「じゃあどうするのよ!」

 「落ち着けって。 回復魔法扱えないが、別の方法で傷を癒すことが出来る」

 「……薬草?」

 「そうだよ」

 ハイオイドに連れ立って、凛はさらに奥へと足を進める。 市門近くの駐屯所、換金所、コウロの宿といった最外郭周辺はトリマ国の王都であろうと、決して整備が万全に整った土地ではない。 外内郭の重要的観測からして当然堅城壁の最奥にあるトウイ城近辺、そこから四つある市門までの往来の道は石畳できちんと補整されている。 王族や貴族、政府・軍官僚、そのほか国にとって重要とされる人物・建造物内郭の地面も石畳で補整されている。 だが外郭内はそうではない。 『中央』であるのにも拘わらず数多くある広場の付近は石畳で覆われているが、そこから広がる往来の地表面はそのほとんどが土に固められ、それも等しく均されているわけではないため雨の日には水たまりがそこかしこに溜まり、金魚とメダカもしばらく遊泳できるほどである。 しかし、それでもまだまともな方である。 凛たちが向っている最外郭南東にある危険区域アオノリは王都の中でありながら衛生的、治安的に酷く問題があり、街に詳しい者は不用意には近づかないほどである。 しかもアオノリ内はクレーターのように地面が抉られた円形の窪地であるため、地面を打つ雨滴衝撃によって土壌侵食がおこる。 その侵食によって目詰まりを起こした雨水の浸透は妨げられ、地表面を土砂が流下されるため水溜りがそこかしこに形成される。 そこに住まう人々の住居は基礎のない地表面から大引き、それもなく土台から住居を築く者がほんの一部だけおり、それ以外のアオノリの住人のほとんどはどこからかくすねて手に入れた長い木材と天井代わりに継ぎ接ぎだらけの布で住居を作って生活している。 雨の日は降雨に濡れた地面が床を伝って染み込み、一歩出ればそこいら中に浅い池が広がっている。

 凛はその惨状をまざまざと痛感し、言葉を失う。 あんみつ村の困窮より酷い。 窪地を滑って下りた凛を物珍しそうに見つめる人々の顔は例外なく太陽に焼けた顔でくすみ、瞳に生気はなく、痩せこけ、元の色素が想像できないほど色褪せた衣類を着ていた。

 「案内する身ではあるが、用心しろ。 善人もいるが、悪人だって当然いる。 俺はまだしも、凛、キミの身形は彼らからしたら裕福すぎる格好だ。 気をつけろ」

 「わかった」 凛は息を呑む。 傷を負ってもすぐさま再生していたましろが獠牙の巨人オークの大振りの一撃を喰らった今でも再生されずにハイオイドの背中で意識を失っている。 つまり再生能力は完全ではないことを証明している。 漆黒の大鎌とピャンを抱く手に力が籠もる。

 (ましろが再生していない、再生できないということは同じ〈異邦人ストレンジャー〉にだってその可能性がある……、いや確実にあるはず)

 アオノリの住人は、ハイオイドたちの進行上を路傍のように左右に人垣をつくりだすだけで手を出そうとはせず、ただじっと物珍しそうに見つめる者や、値踏みする視線が凛を突き刺した。

 凸凹する水溜りを避けられる箇所などなく、靴の中に水と砂利で凛の不快が最高潮に達しながら中程を歩いていると、前方から屈強な男性が近づいてきた。 彼もあまり身形がいい方ではないが、それでもどの住人よりも目に生気が宿るばかりか険難な凄みがあった。 茶色く日に焼けたチェニックに黒いズボン、赤毛のショートの筋骨隆々の大男は無言でハイオイドに近づき、殴り合える近距離まで接近すると、二人は同時に足を止めた。

 「……なんの用だ」

 「見てわからないか?」 ハイオイドは首を傾いで背中の男を見せる。 「重傷らしい。 助けてやってくれ」

 「……カジャさんか」 男は後ろの凛を一瞥する。 「後ろの子供もか」

 「あの子はこいつの連れだよ。 ラカ・ラパ」

 「……なにが違う」

 「なにがって、なにが?」

 「……これまでの奴らと、こいつらと」 ラカ・ラパはハイオイドをじっと睨む。 元々そういう顔なので、威圧しているようにしか見えないが大抵の人間は無言で後退する迫力がある。

 「なあいいだろ、そんなこと。 それより早くカジャのいるところへ行ってもいいか?」

 「……ついて来い」

 ラカ・ラパは踵を返し進み出した。 ハイオイドは後ろを振り返って凛に微笑み、その背中を追う。 凛もそれに続いた。


 カジャのいる住宅は布で覆われた住居の奥にあり、アオノリのなかで一番まともな造りをしていた。 一階建ての狭い家ではあるが最低限基礎はしっかりしている。 しかし室内は非常に暗く、ロウソクの灯りが板に敷かれた柔らかい布の上で虫の息をしている青白い顔のましろを、その前に座す何重の皺の層を刻ませた顔の老人を仄かに照らしていた。 老人は紫と緑の四角形の刺繍が首元に連なる茶色いロープを羽織り、樫の木の杖をつきながらましろを見つめていた。

 肩には緑色の泥状民族薬を塗られ、その上を布で覆われていた。 ましろを挟んで凛、カノープスがその様子を黙ってみていた。 ピャンは凛の膝の上で眠っていた。 いくらか冷静に帰っていた顔をしている。

 「骨は……、薬ではどうしようもない」 カジャは目を伏しながらか細い声で呟いた。 「あくまで奥ではなく、その上だけじゃわ」

 「ましろは、大丈夫なんですか」

 「死にはしない。 じゃが腕はもう治らないよ」

 「そんな……」 頭に鉄の粒子が入り込み、痺れているような感覚が襲った。 指先が凍ったように冷たくなり、極線状の意識を繋ぎ止めていなければ引力が前へ前へと頭を押し付けかねなかった。 凛は口許に手をあてる。 目頭は熱くなり、焼けるような泪が流れ落ちた。

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