第二十九話 宿泊


 待合室に数人の男女がお金の使い道について話し合ったり、過去遭遇したモンスターの能力や性能について討伐方法の意見を出し合ったりするなか、奥からましろを呼ぶ男性の間延びした声が聞こえた。


 凛とピャンとカノープスを残して受付の奥へ進んだましろの前に屈強な男性二名がカウンター越しにいた。 四方形の平たい籠の中に銀銅の鋳貨が数枚有り、それが醜悪な小人ゴブリン討伐の換金額であった。


 「銀貨が10枚と銅貨9枚だ。 マシロとリン……、だったか? 新規の客はあらかじめ登録手数料を引かれているからな」


 「へいへーい」


 「姉さんから聴いたが、この金って全部醜悪な小人ゴブリンなんだろ?」


 男の一人が訊いてきた。 中年であるが背は小さく、短く刈り上げた頭に灰色が混ざっている。 逆に口回りは鬱蒼とした密林のように黒々と髭が生い茂り、落ち窪んだ目許の下は微笑んでいるが、目付きと口許の密林が合わさって不気味に微笑んでいるようにしか見えない。 月の下で出会したら十人中八人が逃走し、残りの一人は剣を抜き、最後の一人は失神するだろう。


 「何人でやったんだ?」

 「あー、二人ですね。 あと猫と鹿と狼に協力してもらいました」

 「すげえな。 そんなに若えのに」 男は初めて生気のある表情を映した。

 「運が良かったんですよ。 ビギナーズラックです」 ましろは鋳貨をポケットに入れながら答える。

 「初陣でこれなら上上だろ」 男は腕を組んで機嫌良く笑った。

 「この金で数日間泊まりたいんですけど、どこか安全な宿屋はありませんか? ご飯の味には特に拘らないんですけど」

 「ああ、だったらうちのかみさんがやってるところなんかどうだ? ここから近いし治安もいい方だ。 なにより飯が美味い。 もし来るんだったら少しまけておくぜ」

 「お、本当ですか。 それじゃあお願いします」

 「そうか、俺はランドームっていうんだ。 よろしくな」

 「改めまして、ましろです。 連れの女が一人と猫が一匹いるんですが平気ですか?」

 「空いてる部屋の数は知らねえから直接訊いてみな。 猫は小便しないよう気をつけてくれよ」

 「はい。 伝えておきます」

 「ん? まあいいわ。 コウロの宿ってところだ。 ここを出て、左に真っ直ぐ進んで四つ目を右に、しばらく進むと暖炉の看板の二階建て建物があるから、そこへ行きな。 俺よりでけぇ女がいるからそいつに俺の紹介だって言えば安くなる」

 「わかりました。 ありがとうございます」

 ランドームが差し出した手をましろは握る。

 「いいか、左だぞ、絶対に右に行くな。 右をずっと進んだ先は治安が悪い。 お前みたいなガキなんか、すぐ殺されちまうぞ」

 「ランドームさん、またオーバーなこと言う。 殺されなんかしませんよ」 ランドームの隣にいたもう一人の男が苦笑いを浮かべてましろに空を叩くように手を振る。 「この人、この都市の自警団だから」


 中世の時代というのは警察といった組織が確立されていないから、税さえ納めていればこういった大きな都市では自由自立、ある程度拘束のない状態が許されているが、半面、自分の身は自分で守れという主義の元成り立ってしまっているせいで自警団を組まざるを得ない。


 「お前はいいんだよ」 ランドームは隣の金髪の男を睨む。 「ここへ来たばかりの奴らは興味本位で〈アオノリ〉へ行っちまって身ぐるみ全部剥がされたって話よく聞くんだ。 こんなガキじゃあひとたまりもねえ」

 「え、今なんと? ア、アオノリ……」

 「アオノリだよアオノリ。 危険区域の場所の名だ」

 「ああ、もう……」 ましろは頭を抱え込む。 「そこへは行かないようにしますよ。 忠告ありがとうございます」


 ましろが待合室へ戻ると、凛が席に座ったまま両足をぶらぶらさせ尋ねてきた。

 「どうだった?」

 「アオノリへは行くなと」

 「は?」

 「右手の先のアオノリって危険区域があるから近づくなと。 ああそれと、宿の確保ができた。 コウロの宿ってところだ」

 「へえ、気が利くじゃない」 凛はアオノリ……、アオノリ?と呟いてから席を立った。 「とりあえずそこへ向うんでしょう? それならとっととそこへ行きましょう。 もう疲れちゃった」


 四人が換金所を出ると、外は夕闇に染まっていた。 点在する街灯などあるわけもなく、家々の明かりだけが街をほのかに照らしていた。 ランドームに言われたとおりに左に曲がり進んでいくと、夜も更けはじめたのを頃合いに食事処や酒場が色濃い豊かな賑わいを見せていた。 エールの入ったグラスを掲げ、互いの腕を組んで呵呵とする殿様が店の中に大勢いた。 そんな盛んな風情を横に流しながら四つ目の曲がり道を右折する。 さっきの通りと比べ人通りは少なく薄明かりが目立ち始めた路地を進むと、住居に混じって店先に看板を掲げた建物が目についた。


 「たしかなんか暖炉か火鉢かそんなマークが目印とか言ってたけど……」

 「じゃあ、これね」


 凛が先に入った。 ましろたちも後へ続く。

 店内は大声で呵々大笑と叫び合ったり、赤く染めた男同士が下らぬ口火で乱闘騒ぎが勃発するといった退廃的且つ激情的な様子などではなく、穏やかな、そこはかとない談笑のなか、まるで自分の家に帰ってきたような温かいムードに包まれていた。


 「どうもー、二名様?」 ましろたちと歳近い背の高い女性が入り口近くでエールの入ったグラスをいくつも持ちながら口早に尋ねてきた。 女性はピャンを見つめると、首を傾げた。 「——三名、様?」

 

 「換金所のランドームさんからこの宿を紹介されたんですけど」

 「ああ、パパから? ママー! パパのお友達さんだよー」

 「はあーい」 カウンター奥で大きな鍋を振るう赤茶色の髪の上を布巾で括った柔らかい笑顔の女性が呼びかけに応じた。 「空いてる席に座ってなさい……、ってないわね。 カウンターで良ければどうぞ。 こんばんは、私はシドニー。 ここの店主よ」

 

 「お言葉に甘えます。 ましろと言います」

 「凛です。 この男の頭で寝ている猫はピャンです」

 「あらあら、よろしくね、ピャンちゃん」 シドニーはころころ笑った。


 ましろたちが席を付き、適当なものを頼む。 ましろにとって、もはやなんの魅力もない食べ物や飲み物が並んだ。 ましろは水と炒めた実を頼むと、女性店主は心配そうに眉を顰めた。


 「育ち盛りでしょうに、そんなんでお腹膨れないでしょう」

 「いいえ、マメ好きなんですよ。 それにさっき肉をたらふく食べたのでこれで平気です」 ましろはあははと空笑いする。 「俺たち冒険者なんですけど、換金所でランドームさんに相談したら、ここがいいと勧めてくれたんです。 急で申し訳ないんですけど、二部屋空いていますか?」


 「そうだったのねえ、でもごめんなさい。 二部屋はないのよねえ」 シドニーはましろと凛を見て微笑む。 「一部屋だったら空いているけど……」

 「ひ、一部屋って——」 凛は顔を赤らめる。 「い、一緒の部屋に泊まるってことですか!?」

 「そんあ驚くことはないだろう」 ましろは水を含む。 「いままでそうしてきたし」

 「ああ、あれとこれとは話が別よ。 密閉空間なんてなかったでしょう! 

 「それに忘れがちだがカノープスやピャンも常に一緒にいるんだから平気だろう?」

 「カノープス?」 シドニーは出来上がった炒め物を先ほどの若い女性に引き渡していた。 「それってお友達?」

 「ああ、いや……」 ましろは透明化になったカノープスを見つめ当惑する。

 「ああごめんなさいね。 ……なにか悪いことを訊いてしまったかしら」

 優しそうなシドニーはなにかを勘違いしたようで哀しい顔を浮かべていた。 たとえば冒険者の仲間がモンスターとの交戦中あえなく命を落としてしまうのだが、死んでも常に心のなかにはその仲間がいる精神の人物たちと受け取られたのだろうか。

 「まあそんなところですね、はい」 ましろは隣の凛を見る。 「いいだろ? 文句言うなって」

 「なにもしないでしょうね?」

 「俺にも選ぶ権利がある」

 「ベッドはわたしのものよ」

 「いいだろう。 その条件呑んでやろう」


  この世の、否、どの世界の宿泊施設にも新品な布団やベットなんてない。 全て汚れたリサイクル品なんだ。 だとしたら自分が身につけている布の上で寝た方がいい、と睡眠を必要としないましろは受け止める。 眠りはしないけど、固い床の下でじっと横になるのはそれでいて苦痛ではあるが。


 「本当になにもしないでしょうね? 手ぇ出したらわかってんでしょうね?」

 「わかってるって! もうどんだけ信用がないんだよ!」

 「信用の問題じゃないわよ。 高潔さの問題よ。 あんたみたいな野蛮な男から微塵も感じられないのよ」

 「男に高潔さとか求めてるんじゃないよ! 男は元々野蛮人なの! そうですよねえ!?」

 「あらあら私に訊かれても……」 シドニーは困り顔で苦笑いをする。 「それで、どうします?」

 「くぅ、嫌で嫌で仕方がないけれど……」 凛はましろを睨みつける。 「お、お願いします。 あの、数日間お願いしたいのですが、部屋が空いたら別々にしてもらうこと可能ですか?」

 「ええ、構わないわ。 構わないけど……」 シドニーはましろの頭の上の猫を見つめる。 「ピャンちゃんは——」

 「ああ、大丈夫です大丈夫です。 粗相はしません。 粗相しない魔物なんです!」


 ましろたち、というか凛がご飯を食べ終えると頃合い良く店内のテーブルの空きが多くなった。 そろそろ部屋へ移ろうと凛がシドニーに呼びかけると、はいはーいと腰掛けで手を拭きながらホールを見渡した。


 「リシュカー」 シドニーはホールに出ている女性を呼んだ。

 「はいはーい」 先ほど入り口で出迎えた背の高い女性——リシュカが近づいた。 赤茶色の巻き髪を束ねた溌剌とした女性で動きやすい格好の上に染みの付いたエプロンを羽織っていた。 


 「こちらの方々が上の宿に泊まりたいそうだから、案内してくれる?」

 「はいはーい」 リシュカは肩に掛けていたエプロンを脱ぐと、ベルトのところに短剣ダガーが差してあった。 ましろがそこに注視していると、リシュカが短剣ダガーに手をあてて苦笑いを浮かべた。 「ああ、これですか? ほら、こうやって部屋に送るときにたまにお尻とか触ろうとするからそのときのための護衛用にパパがくれたの」


 「ああなるほど」 凛がうんうんと頷いた。 「わたしも買おうかなー」

 「頼むから俺に刺さないでくれよ。 冗談でザクリとかなしだからな」

 「はいはーい」 凛はリシュカの口癖を真似て微笑んだ。


 リシュカに案内されて、端にある階段を上がり、暗い廊下を進もうと曲がり切った時、黒い影にましろがぶつかりかけた。

 「あっ、ゼニー」 一番後ろでまだ階段を上がっていたリシュカがましろの肩越しで呟く。 「また散歩? 近頃物騒だってパパが言ってたよ。 人が失踪してるって……」

 「うん」 ゼニーと呼ばれた赤茶色の髪を首まで垂らした若い男性が小さく頷いた。 明かりのない廊下で影のように浮き立ち、色素の薄い瞳に暗い顔立ちをしている。 「すぐ、戻るから……」

 ゼーニはましろたちの横を通り過ぎ、幽霊のようにすぅっと足音を立てずに一階へ下りていった。


 足音は終始無かった。


 「兄です……」 リシュカは引け目を感じた声音でましろたちに説明した。


 両親や娘の明るさとは真逆の存在感のない印象を抱かせるゼーニはいつの間にか消えていた。 ましろはなにも言えず、ただリシュカに無意識で記憶にさえ残らない適当な返ししかできなかった。


 二階の部屋は鎧戸にベッド、抽き出しがあるだけのなんてことのない簡素な造りだった。


 「こんな部屋ですけど、どうします?」

 「これで充分です」 凛はベッドだけを見て判断した。


 ましろが寝る床のことなんて露も思わない即決振りにましろは呆れつつも、確かにこの世界で初めてきちんとした部屋で過ごせる誘惑に抗えず、不承不承納得せざるを得なかった。


 「一晩銅貨2枚と青貨せいか5枚の夕食付きです」 リシュカは抽き出し上のランプに火を点けると、赤々と部屋が明るくなった。


  ましろは凛とその場で相談する。

 「えっとどうする? とりあえず一週間ほど住んで、それからまた考えるか」

 「そうね。 その時までにお金をたくさん稼いでまた相談しましょう。 まあ部屋に泊まれればどこでもいいわ」

 「俺は自分の部屋が欲しいけどね」 ましろはリシュカの方を見る。 「えっととりあえず銀貨一枚で払える分だけお願いしたいんですけど、途中部屋が空いたらその部屋もお願いします」

 「お、お客さん持ってるねえ。 二人部屋が空いたらそこに移りますか? こっちは銅貨5枚に青貨8枚ですけど」

 「一人部屋で結構です!」 ベッドに腰を下ろした凛が強めに叫ぶ。

 「ええー、二人ともそういう関係じゃないんですかあ?」 リシュカはましろと凛を不敵な笑みを口許に浮かべながら見合わす。 「お兄さんなんか異国の木みたいで結構かっこいいのにー」

 「異国の木が褒め言葉かどうかはさて置いて、嘘マジですか!」 ましろは目を大きく開いてリシュカを見る。

 「うん。 なんか背も小さくて黒い髪なんか珍しいし」 リシュカはましろの髪をぞんざいに撫でる。 「人形さんみたい」

 「いや、ますます褒めては……」

 「良かったわねえましろ」 凛は凍てついた眼差しを放つ。 「モテモテじゃない」

 「ふん。 なんとでも言え。 とてつもなくまんざらでもない!」

 「なにかあったら下にいるので呼んでください」 母親のようにころころ笑うリシュカはましろから銅貨を六枚貰い、おつりをサービスされると喜んで踵を返してスキップしていった。 ましろはそんな後ろ姿に微笑ましく鼻息を洩らしドアを閉める。


 「なによ、今のサービス」 凛はレジーナの女性のようにベッドに肩肘を付いて頬にのせてましろを睨みつけていた。 「あんたその分自分の指折りなさいよ」

 「急にヤバい女になるのやめて。 冷めるから。 疲れてるのはわかるけど……」 ましろは頭の上で寝息を立てるピャンを抽き出しの上に乗せるとその下に腰を下ろした。 「あれ、カノープスは?」

 「もう中にいる」 ランプの周囲の床や壁が揺らぎ、目が慣れるとそこにカノープスがいた。 「そんなに見えないか?」

 「悪いな」 ましろは眉根を顰めて頭を掻く。 不手際に頭を掻きむしっているのではなく、単純にピャンのノミがついているのが頭皮を通して伝わってくるからだ。 「夜目が利かないとお前を判断するのはちょっと一苦労しそうだ」

 「まあ、そんなことはどうでもいいとして」 凛は無視する。 「ひとまずこれで衣食住が揃ってやっと人間らしい生活ができそうね」


 「今後の活動はどうする?」

 「うーん。 やることはたくさんあるけれど……。 ひとまずは就寝。 眠たくて眠たくて仕方がないわ。 それに少し固いけど羽毛で練れるなんて久方ぶりだし……」 凛がベッドに倒れ込むと、すぐに寝息を立ててそのまま動かなかった。

 「疲れていたんだな」 カノープスが心配そうな声で凛を見つめる。 「この世界に落とされて今の今まで大変だったからな……。 よく眠るといい」


 「カノープス。 落ち着いたところ悪いが、いくつかいいか?」

 「またか? お前はあんみつ村の時もそういったな。 他にもなにかあるのか」


 「この戦いの目的についてはもう訊かないよ。 さっき食事処でも言ったけど、〈異界獣ペット〉の【索敵】のスキルの範囲は力に比例している、ってことがわかった。 だから今いる範囲を離れたらその都度【索敵】をしてほしいんだ」

 「なるほど。 少し過剰に思えるが、後手に回るよりかはマシだろう」

 「それと、さっきも少し話に出てきたが、もし〈異邦人ストレンジャー〉が戦闘を放棄して、この世界で暮らす、といった仮神の制定したルールを逸脱する行為を断行した場合、どうなるんだ」

 「それはわからない。 ただ……」

 「——ただ、なんなんだ?」

 「この世界での戦闘を放棄した場合、あまりよくないことが起こる気がするのだ。」


 「よくないこと——?」

 それは不吉な予告だった。


 「そうだろう? 生死を賭けた、——命を賭けるようルールを課することが可能な、超越した力を持った仮神がそんな抜け道を見過ごすようには思えない。 いくら元いた世界へ戻るためとはいえ、同じ子供同士で戦えと言って、はいそうですかと遵守するほどヒトは従順ではない。 それは誰でもわかることだ。 しかしそれを実行している……。 特製の武器と私たち〈異界獣ペット〉を与えたそんな仮神が、子供たちが戦闘を放棄する可能性を見過ごしているとは思えない」


 ましろ自身、言葉として思考として物事を咀嚼するには頭の中の解析のようなもの常人と比べ劣っている事は本人が重々承知していることではあるが、ましろの中では、目の前にいる白鹿のカノープスの頭の中が一番気がかりで仕方がなかった。 凛はましろと同じ馬鹿。 ピャンはましろと同じ記憶喪失。 この中でカノープスだけが、この生存競争を生き抜く上での歩くハウツーガイドブックなのだ。 それだのに断片的な情報、欠落でもしているのか遅蒔きに出される知識。 こちらが質疑し熟慮してから応答される手際の悪さにましろは一番腹を立てていた。 半分は悪気はないと思う。 思うと願いたいとましろは思う。 恐らく、それは仮神の本意による精神操作であると推測されるからだ。 そしてましろが苛立っているのはもう半分の役割としてのカノープス本来の資質である。


 「それじゃあ最後に、麻衣子を倒した時、虹の架橋が現れた。 その橋に乗って魂が運ばれた。 だったらその魂はどこへ運ばれる?」

 「すまない。 それもわからない」 カノープスは首を振る。 「そんなこと、考えたこともなかった」


 おそらくそれは知らされていないという言葉が正しいだろう。 しかし、とましろは相変わらずこの問答に苛立った。 幾ら投げても帰ってくる玉がない。 鳴かず飛ばずの閑古鳥のようなものだ。 いいかげん、まともな回答が欲しい。

 これでは動物の形をした人語を喋る戦闘ツール程度の役割しかない。 彼ら〈異界獣ペット〉を通してこの戦い、延いては仮神についてなんらかの情報を得たかったのだが、思っていたほど、ではなく正直使い物にもならない。 人形と同じ価値なのだろうかとましろは白鹿を数秒見つめた。


 「わかったよ」 ましろは鎧戸から覗く宵闇に浮かんだ月明かりを眺めて溜め息をつく。 「今後の方針としてはお金を稼ぎながらこの世界のことを知りつつ、強化に努めよう。 先は長い。 見えないぐらい……」



                  ●



 「——くそっ!」


 暗い路地の酒場に並べられた空き瓶を蹴り飛ばす男の荒げた声。 瓶が数メートル先で地面を打ち付けころころ転がっていった。 男はこの国の平均年齢に比べてがたいがよく、長い橙色の髪を後ろに束ねていた。 片方の手を薄い布で巻き付けられている。 男は未だ痛む手が目につく度に怒りが収まることなく天井破りに涌き上がっていく。


 「くそっ!」 長髪の男はまた悪態をついた。 黙っているとあのときの子供の馬鹿にした表情が浮かんでくるようだった。 「あのガキ……、ガキどもがっ!」


 「落ち着けって、どうすりゃ良かったんだ。 あんな、あんな化物相手に太刀打ちできるわけねえだろう」


 「うるせえよ!!」 長髪の男は細身の男の胸ぐらを掴む。 「おめえの武器は飾りか? あぁ!? あん時とっととヤリゃあ良かったんだよその剣で、馬鹿力を持ってようがガキはガキなんだ。 武器さえ出して脅せば簡単に済んだんだ。 この俺が、あんなガキなんかに逃げずに済んだんだ! なのにてめえは……」


 「そんなことしちまったら俺らは組み合いから追放されちまう! わかってんだろう。 この歳で簡単に稼げる仕事なんてもうねえって」


 「だったらこの手はどうすりゃいいんだよ! こんな手じゃあてめえの言う仕事も間々ならねえじゃねえか」 長髪の男は掴んだ手を離す。 「あのくそガキ、今度あったら必ず、必ず痛い目見せてやる。 両方だ……。 両方の指を粉々にして、殺さないでおいてやる。 惨めな一生を見せてやる……」


 「ガキ相手になにムキになってやがるんだ。 やりすぎだろう?」


 「うるせえんだよお前はさっきから!」 長髪の男は仲間を睨みつける。 「そうだ、やってやる。 あのガキを見つけて、屈辱を味合わせた後、あの小娘を痛めつけてやる……」


 「ああ、そいつはいい……」 仲間は長髪の男が狂った笑みを浮かべているというのにその意見に賛同し、男と同じ歪んだ笑みをした。 「そうだ。 明日からさっそく捜そう。 あいつらも俺たちと同じ冒険者だったよな。 しかもまだ鼻っ垂れのガキどもだ。 経験も浅いに決まっている。 組合で張ってたらすぐ見つかるはずだ」

 

「ああ、そうだ……。 覚えてやがれ。 ああ楽しみだ。 楽しみで仕方がないぜ……」


 歩く負け犬の遠吠えたちが月明かりの下で哄笑していると、遠くの方から一人の少女が男たちの前をゆっくりと、気怠げに歩きだす。


 男の仲間がそれに目敏く気付いた。


 「お嬢ちゃん、こんな遅くにどうしたの……?」


 「お前……」 長髪の男は仲間の切り替えの早さに呆然するも、しかし勢いづけるための享楽嗜虐としては悪くないほどの上質な素材が目の前にいた。


 暗闇に黒く光る小紫色と竜胆りんどう色のメッシュが顎の辺りまで伸びている。 服装は紫色に黒いラインの入った薄手のブラウスの上から刺繍の施されたボディシェイパーを着て、さらに腰元にヴィクトリア朝風のコルセットを後ろの紐で結び、膝が露になるほど短いフリルのスカートを着こなし、足許は蛇革の黒のブーツに白い紐、蛇革の白いブーツに黒い紐、それぞれ色の異なる履物の踵の当たりに髑髏が描かれている。


 背は小さく、口許は花緑青色に塗られ、長い睫毛の下の大きな瞳の虹彩は濃紺で瞳孔は灰色。 右の目の下に掛けて紫色のラインが大人の女性に彩らせ、左側は長く伸びた前髪で隠れている。


 長髪の男は怒りで理性といえるものが著しく低下し、疑心暗鬼が緩慢としていた。 油断していた。

 男は仲間の前にいる女の際立った麗質な相貌に人間とは思えない磨かれた美しさを感じた。 妖艶とは満たないまでも魔性のような、魔的のような美しさに気味の悪ささえ感じていた。 形容するなら不気味な美しさといえるのだろうか。 そうとも知らずに、いや知った上で男の仲間は目の前の女をどうこうしようと考えているのだろうか……。 長髪の男はなにか嫌な予感が遅蒔きに芽吹きはじめた。


 「どうした……?」 少女は男の言葉の意味を理解するように咀嚼し、反芻した。 「女を……、女を捜している」


 「女? どんな女だい? もしかしたら俺が知ってる女かもしれない……」


 「黒髪で……」 少女は自分の髪に触れた。 「このぐらいの長さの女。 服は白いかもしれないし、違うかもしれない」


 「ああ、何人か知っている。 もしかしたらその中にお嬢ちゃんの知っている顔がいるかもしれない。 逢いたいか?」


 「逢いたい」 少女は男の仲間を見上げる。 「知っているなら案内してほしい」

 「ああ、いいとも」 男の仲間はにんまり微笑んだ。 「この近くで一人、知っている。 この奥にいる。 今ならタダで案内してもいい。 急いだ方がいいかもしれない。 いつまでもそこにいるとは限らないからね」


 男の仲間は長髪の男を見て下卑た笑みを浮かべ、その横を通り過ぎた。


 来た道を引き返した男たちは短剣の男を先頭に、その横を少女が歩き、その後ろを長髪の男が着いてくように歩いている。 自分の指を圧し折ったガキを思い出すと苛立つ自分を押さえ込むことができない。 怒りを暴力によって消費せねば収まらないほど。 しかし目の前の少女を見ると、その気が引けてしまう自分が信じられなかった。 理解できなかった。 路地は徐々に明かりのない場所に進み、影のないひと気のない倉庫の裏側に辿り着いたところで、先頭の男が立ち止まった。


 「女は……?」


 「女って?」 


 「黒髪の」 少女は先ほどと同じ動作をした。 「このぐらいの髪の女」


 「ああ、いるよ」 男はひと気のない場所でくくくと笑い出した。 「お前だよお前。 なあわからないのか? わかってないのか? 教えてやるよ……、いるわけねえだろそんなヤツ! どれだけ世間をわかってねえんだお嬢ちゃん。 こんな真夜中に見ず知らずの男の言うことにほいほい着いてきてさ。 知ってるかい? 騙される方が悪いって言葉を」 男は腰に佩いた短剣を素早く引き抜いて少女の細い毛先を先端で下から撫でた。 「自業自得って言葉を……」


 「その言葉は知っている」 危険な立場であるにも拘わらず、少女の気怠げな姿勢が崩れる気配は一切なく、平然とした様子で男を見上げる。 「私も言いたいことがある。 忠告がある」


 「なんだい?」


 「私に……、触れるな」


 「ああ、そいつは」 男の腕が伸びて顔に触れる。 「残念。 無理な相談だ——」


 男が少女のきめ細かい顔に触れた途端、少女の冷たい肌を通して指先から青い火が燃え上がった。


 「え——」


 「なっ——」 少し離れたところで様子を見ていた長髪の男が仲間の腕が突如燃え出す光景に目を奪われていた。


 なにが起こった。


 「あ、ああ、ああああああああああ!!!」 指先の炎がまるで生きているのように腕から上半身の左側に移り、その範囲を広げ、瞬く間に全身を巡って燃え出した。 少女から離れた男は躯を捻り、腕を振り、脚をばたつかせながら全身に燃え盛る青い炎から逃れようと一心不乱に蠢いていた。


 長髪の男は、怖気付いて地面に尻餅をつけた拍子に片腕に激痛が走った。 男は布に捲かれた手を一瞥するが、すぐさま目の前の惨状に顔を蒼褪めがたがた躯を震わせていた。


 「——触れるなって言ったのに」 少女は狂ったように踊る青い炎の人影に向って呟いた。 「でもそうか……。 仕方がないよね。 騙される方が悪い、自業自得……、だからね」


 「う、うああああああああああ!! ば、化物ぉぉ!」


 長髪の男は厚くて倒れ込みながらのたうち回る仲間を見捨てて走り出した。 背筋が凍り付いたように冷たく、手の痛みなどどこかに飛んでいったように吹き飛んでしまえたほど恐怖に犯されていた。 男の仲間の悲鳴が途絶えた途端に頭の警鐘が鳴り響く。 少女と出会った道を通り過ぎ、別の路地に入り、何度も角を曲がって少女が追ってこられないよう必死に逃げる。 どこかの塀を乗り越え、木箱を使って建物の屋上へ登る。 男はそこでダンゴムシのように丸くなり怯えて強張る躯を押さえ込む。 心悸の高鳴りが耳許で聞こえた。 だいぶ距離を稼いだ。 追われた気配はなかったから、恐らく追っ手はもう来ないはず。 そうでなければ困る。


 「困る……。 困るんだ」


 男は布で覆われた右手を望む。 不意に恐怖に混じって怒りがまたふつふつと涌き上がってきた。 全部あいつのせいだ……。 あいつに会わなければこんなことにならなかったはずだ……。 殺してやる。 絶対殺してやる。 あいつを殺して、その仲間も全員殺して、そしてあの女も必ず殺してやる。 仲間の仇討ちなんかじゃない。 この怒りが、この恐怖が消え去る方法がそれしかないからだ。 咽喉が渇いて痛みさえある。 張り裂けるほど叫んだのかもしれない。  恐怖がある程度収まると、怒りが男の躯を熱くさせ、月夜の下で立ち上がらせた。 男が恐怖に打ち勝ち、怒りの矛先を改めて決め込んだ瞬間、声が聞こえた。


 「——なにがそんなに困る?」


 長髪の男の背筋から流れる冷たい水さえ気付かずに男は半ば観念したように後ろを振り向いた。 一瞬先ほどの女と思って反応したが、もはや男の声も女の声も判別できないほど混乱していた。 目が合うと、泪で視界が滲んだ。


 少女だった。


 ヒトをヒトと認識していない生気の抜けたような瞳に男を映しながら、少女の周りでは青い炎が盛んに踊り狂っている。


 「——なにがそんなに困る?」


 「……なにも……」 男は何度も首を振る。 情けない声で、情けない顔で哀願するように。 「なにも困ったことはありません」


 「じゃあなぜ泣く?」 少女の目がわずかに歪んだ。 困惑しながらも男を凝視しているようだった。 「ワタシがお前の仲間を殺したからか?」


 「いいえ。 違います。 泣いてません、困ってません。 許してください。 殺さないでください」


 「ワタシがお前を殺す——? 頼まれてもいないのにか? 理由は?」


 「え——? 殺さないんですか?」


 「それは頼んでいるのか?」 少女は掌に青い炎を灯した。


 「いいえ、ち、違います!」 男は首が捩じ切れるくらい首を振った。


 「ならもう行け。 ……厭きた」 少女が言い終えると同時に掌と周囲に煌めく青い炎が一瞬にして掻き消えた。


 男は突然の暗闇に瞼を閉じ、数秒後恐いもの見たさで瞼を開いた。


 「……な、なんだったんだ……。 いったい」


 暗闇の路地にいるのは恐怖に怯えすくむ一人の男だけだった。

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