第二十五話 巨樹


 疾風のように現れ、疾風のように退却した世界の観察者、鴉の着ぐるみを着たような人型ひとがたの悪魔——カイムに出会したましろたちは全知神のような彼の一言一句に驚き、大いに惑わされた。

 カイムは告げる。 巨人樹ジャイアントトレントを炭木とさせたのはヒトの皮を被った悪魔の中の悪魔、【炎姫えんき】であると——。

 「なんだったんだ……、あれは」 ましろはカイムが飛びだった空を枝葉の重なった隙間から仰ぎ見上げた。 彼は目に見えないほどの上空に飛び立ったのか、既に方向を変えて移動しはじめたのか、夕暮れの空に黒い点も残さずに消え去っていた。 「サラ、あいつが言っていたのは間違いなかったのか?」

 「わ、わかりません」 サラは動揺しながらも首を振った。 「けれど、相手が悪魔である以上、古来より奸佞邪智を得意としているという記述が文献にも記載されています。 奴ら悪魔は言葉巧みに私たちを翻弄させ、本来ある道から踏み外させようと、嘘と虚実をただ羅列させているだけに過ぎません」

 「ああ、そう……」 ましろは、落ち着かない様子で胸を押さえているサラを一瞥して話を逸らした。 「しっかし、初めて見たよ。 あれが悪魔なのか……。 なんというか、ヒトにすごく似ているな」

 「ええ。 ですが、悪魔が総じてヒトの姿に似ているというわけではありません。 ヒトの姿に化けるものもいれば、一目見ただけで悪魔と言い切れる邪悪な存在もいます」 サラは手に持った槍斧ハルバートを胸に当てた。 「奴を、奴らを滅ぼすのが私たちの本道であるのにも拘わらず、私は討ち滅ぼせなかった……。 ハイネさんたちに、聖統救済教団になんと申し上げれば……」

 「そこまで気落ちしなくてもいいんじゃないの?」 カイムの宣言どおり、ましろから見てもどっちみちサラ一人では到底倒せそうに思えない、という科白は彼の胸の中で霧散霧消させた。 「あれは、きっとまた現れそうな雰囲気してたし」

 「そうですが……。 あれはどちらかというと私ではなくましろさん、あなたに会いたがっているように思えましたが……。 それと、ピャンちゃんにも。 だからこの場に現れたのではないかと思われてしまいます」 サラの瞼に哀愁がこもる。 「私はあくまでおまけに過ぎません」

 「どうだか」 ましろは先ほどから足許でずっと黙り込んでいるピャンを見下ろした。 「ピャン、お前、あいつに会ってなにか思い出したことはないのか? 明らかに、あいつはお前のことを知っていたようだけど」

 「……いいや、儂は、知らん」 ピャンは硬直していた小さな躯を解くと、溜め息をついて傾いだ首筋を後ろ足で掻いた。 「それより、陽が完全に沈み込む前にとっとと帰りたいのじゃが……、これからどうするんじゃ?」

 「……確認は終わりました」 サラは沈んだ表情で俯きながら呟いた。 「巨人樹ジャイアントトレントは死んだと報告します」



                  ●



 ましろとピャン、サラの三人が再びあんみつ村へ戻ってきたのは宵闇の雨が降り出していたころだった。

 「あっ、ましろたちだ。 おーい」

 ましろたちが村長の住居へ向っていると、軒下で凛とツバキが三人の帰りを待っていた。

 「ツバキ、お待たせしました」 濡れた前髪を横に流しながら、サラは隣に立つ凛を無視してツバキの頭に手を当てる。 「状況は?」

 「依然変化はありません。 応援隊が明日の夕方過ぎには到着するであろうとハイネさんが言ってましたぁ」

 「村長と婦人は?」

 「二人とも別の部屋にいます。 私たちが交代で外と中を監視しています」 ツバキは微笑む。 「まだ二人とも生きています」

 「そ、そう」 サラは笑みを浮かべた表情を一瞬凍らせたが、それを顔に出さずに無邪気に微笑む頭を撫でた。 「早く着くと良いわね」

 「ハイッ!」 ツバキはにっこりと笑みの光度を増し、唇を吊り上げてから、鼻をくんくんとサラの胸許、ましろの鼻先を突然嗅ぎだした。 「——苦淒粉の匂い、雨で取れて良かったですね」

 「う、ううう、うんっ」 ましろは危うくファーストキスを奪われるのかと顔を真っ赤に染め上げたことを誤摩化そうと必死に平常心を取り戻そうとした。 「緊張した、いや違う!」

 「マシロサン、ナニヲイッテイルンデスカ?」

 サラは生気の抜けた眼差しを横にいるましろに向けた。

 「いや、なにも言ってないよ! めっちゃいい香りだったとか思ってないしぃ!」

 「はあ〜。 まったく」 蚊帳の外になっていた凛は溜め息をつく。 「何言ってんだか……」

 「ところで凛、カノープスは?」

 「雨が降ってきたから馬小屋にいるわ。 馬丁さんが道具置き場に使っているところを貸してくれたの。 臭くないよ? 〈異界獣ペット〉は風邪なんか引かないってカノープスが駄々こねてたけど、心情的に見てられなくて」

 「そうか……、雨か」 ましろは薄闇に染まる雨雲を見上げてからサラとツバキに訊ねた。 「皆さんは今晩村長の家に泊まるんですか?」

 「ええ、村長の奥さんの部屋と台所でそれぞれ泊まらさせていただこうと思います。 お二人はどうされますか?」

 「俺たちは白玉の森の手前にある馬小屋にでも泊まろうかと」

 「えっ、ふ、二人っきりですか!?」 サラは面食らったように戸惑いを隠しきれない様子で声をあげる。

 「猫と鹿もいるので正しくは二人と一匹と一頭ですねー」 ツバキが笑顔で答える。

 「わ、私もそこに泊まります」 サラは一歩進んで声を上げた。 「あくまで監視です」

 「いや、別にどっちでもいいけど、なぁ凛?」

 「ま、あんたがそれでいいなら……」 凛は呆れたように目を反らした。

 「だそうで」

 「ハイネさんとアスナさんに伝えてきます。 ああ、ご飯は私たちのを一緒に召し上がりましょう。 そうしましょう。 ちょっと待っててください」 サラはツバキを連れて村長の家に急いで入っていった。

 「ところで凛」 ましろは疲れた声で凛に訊ねた。 「俺たちがいない間——」

 「デートしてる間ぁ?」

 「ちげぇよ」 ましろは片方の眉を歪める。 「その間、ハイネさんとアスナさんにいろいろ詮索されなかったか?」

 「されそうになったからカノープスを言い訳に逃げに徹したわ」

 「さすが。 わかってらっしゃる」

 「お待たせしました」 扉を開けたサラは暗い天気とは打って変わって晴れ晴れとした快活な笑顔で両手に果物と黒パンを携え小走りで近づいていった。 「さあ、行きましょう」



                  ●


 

 鼻先を掠める水を孕んだ土の匂い。 夜の道を歩く音。 鈴のように啼く虫の混声に耳を傾けながら、ましろは寝息を立てる馬小屋からあんみつ村の中央までゆっくり進んだ。 水気を含んだ土がじゃりじゃりと音を立てる。 ついさっき、といっても正確な時間帯を把握していないから正しいことを言えないが、気付いたときには馬小屋にいたはずの一人が姿を消していたのだ。 初めは白玉の森の奥にいる可能性が不意に浮かんだが、よくよく考えると、氷のように冴え切った真夜中、光を遮られた森ほど危険な場所はないので、もう一つの場所に当たりをつけていた結果——。

 それはいた。

 「なにやっているんだ、どら猫」 ましろが声をかけた先には、闇夜に蠢く小さな猫、ピャンがいた。

 「なんじゃ、お主か。 ふん」 黒猫のピャンは気怠そうな目で鉄屑を砕くような咀嚼音を洩らしながら鼻息を洩らした。

 「なにをやってんだって訊いているんだけど?」

 「ふむ……。 暇つぶし、かのう?」

 「暇つぶしで」 ましろはピャンの周りで横たわる、三つ目の大百足のむき出しになった胴体を眺めながら無表情で答える。 「ゲテモノ喰ってるのか? ハイネさんに怒られんぞー。 俺が」

 「安心せい。 これもすべてお主のためじゃわい」

 「——俺のため?」

 「凛といい、他の〈異邦人ストレンジャー〉の瑠璃子といい、あやつらとお前の明確な戦力差を今回目の当たりにしてな、今、こうしてお主が生き長らえておるのは、ひとえに仲間の協力と幸運の女神が気まぐれにお主の横を通り過ぎたからに過ぎん」

 「そうかな?」

 「あほんだら。 たまには儂の話を真面目に聴かぬか」 ピャンは硬いゲテモノを一通り食べ終えたのか、その死骸を踏み越えながらましろの前をとぼとぼ歩く。 「決定的な差というのは『武器』じゃ。 しかも、強靭な力を誇る武器がじゃ。 お主も自ら痛感したじゃろう? 敵さんから奪った武器で、この——ラコヴァと名乗っていた三つ目の大百足の触手を斬ろうとした時を」

 「……ああ、それか」

 ましろは自分の手を見つめながら思い返した。 ノックドッグスの一人から奪取した片手剣ショートソードがほんの数撃で真っ二つに圧し折れた時を。 それに対して、凛の持つ漆黒の大鎌は何度斬ろうと刃毀れ一つなく、切れ味を維持したまま連戦をやり遂げていた。 確かに、ピャンのいうことは正鵠を射ている。 ましろもそれを痛感していた。 これからの戦闘は日ごとにその激しさを増すことに違いない。 それなのに、今のましろは無手。 初めから無手という前提で幾千もの死闘を繰り広げているのならまだしも、これまでの戦闘、そのほとんどを味方の力に頼っていたり、敵から奪った不慣れな武器で一時凌ぎのような戦闘をただ行ってきたばかり。 それも、たまたま相手と自分の戦闘力に差が開いていたからこそ、勝利を勝ち得た偶然の結果に過ぎなかった。 今後、そういったサイコロを振るような博打めいた戦闘という賭け事で勝ち残る保証はどこにもないどころか、無知無策による敗北=死を招く結果になり兼ねない。 一端は凛以外の〈異邦人ストレンジャー〉から専用の武器を奪おうと考えなくもなかったが、話を聴くに、〈異邦人ストレンジャー〉から奪っても、元の所持者の意思次第で即座に手許へ転移してしまうらしく、だからといって、〈異邦人ストレンジャー〉を殺害した後、その武器を奪おうとしても、元の所持者が死亡したと同時に武器も消滅してしまうため、この考えも却下となる。 今後の生存率を上げるには、身を守るための武器が必要不可欠、必然となる。 ピャンに言われずとも頭の隅っこで考えていた不安をピャンもまたその小さな頭の中で考えていたことにましろ少し感心していた。

 「まあ確かにな。 ずっと考えてはいたんだが、そんな余裕も金もないから、お金に関しては本気でないから、律儀に冒険者ギルドで日銭を蓄えてから買おうか、冒険者か武器商人を殺して奪うか換金するかで悩んでいたんだ」

 「ふんっ。 既に出回っておる既製品ではあの奪い取った剣とそう大差ない。 靭性がどの程度か儂にはわからぬが……、差し当たってその問題を解消できるものが、近くにある」

 「まさかお前……サラたちから奪うのか?」

 「ああ〜、それは当面ではなく、長い目を見て考えておこう。 正直、その考えはなかった」 ピャンは怯えた顔でましろを見つめる。 「さすがというか、頭おかしいというか……。 そうではなく、この大百足の硬い装甲を利用して、お主特製の武器を造るんじゃ」

 「ラコヴァの……、大百足の外骨格を、武器に?」 ましろはピャンの言わんとすることがいまいち判然としなかった。 「どうしたどうしたどらねこん。 ついに頭がおかしくなったのか?」

 「あほんだら」 ピャンは自分の柔らかいお腹を柔らかそうな肉球でぽんぽんと叩いた。 「今、この中で精製中じゃ。 いずれできるまで、しばらく我慢せい」

 「〈異界獣ペット〉にそんな力があるなんてカノープスから聞いてなかったけどなあ」

 「え? あ、まああれじゃ、お、おそらく儂の中のスキルが一つ開花したんじゃろう。 そうじゃな、【精製】でいいだろう。 といっても完成するまで時間を要するものじゃから使用は限られるがの」 

 「なあお前、それ本当に言ってんのか? 半分疑ってるんだけど」

 「だとしたら、その残りの半分だけ信じて今は待つがよい。 いずれその時が訪れるまで、せいぜい死なないよう祈るんじゃな」 ピャンは陰湿な微笑を口角に漂わせて呟いた。 「神にでも」

 「神、ねえ……」 ましろは雲間に隠れた月を見上げた。

 「小娘どもはどうしている」

 「皆疲れているからね。 俺たちは立て続けの戦闘だし、サラたちもここへ来るまでに急いで来てからの参戦だったし。 ぐっすり寝ているよ」

 「そうさな。 儂も疲れた。 オーバーワークというやつじゃ。 腹が膨れれば儂もとっとと眠るとしよう。 猫は惰性に眠る生き物じゃからな。 お主も早く眠りにつけ」

 「それなんだがな」 ましろは暗い夜空を眺めたまま思い詰めた様子で呟いた。 「昨日の夜もそうだったが……、俺はこの世界で目を覚ましてからまだ一度も眠っていなんだ。 眠気が、ないんだ」

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