第二十四話 皆無
森の奥に進むにつれ、少し湿った空気がましろたちの肌に纏わり付く。
白玉の森はトリマ国南部の一画にある、辺疆地あんみつ村東側に位置し、その規模はかなり広い範囲を占める植物群落である。 約二千五百種の植物が自生する森には動物とモンスターが五つのエリアの中でさらに細かな縄張りを張って活動している。 数で攻めれば重量のある動物でもモンスターに対抗できるが、根本的な力の差は火を見るよりも明らかであり、また、動物の数が極端に減った場合、将来的に森自体が死滅してしまう可能性を危惧した森の主——
森の中にはそれに適した『森の法』というものが確立している。
これが、約百年前の本に記録されている史実と教団が知り得た情報であるとサラは森を歩きながら語り、さらに
案内なしでは
故に先頭を歩く彼女が右に数歩行ったかと思えば、すぐさま左に足を向けたりするのは一見迷っているかのようにみえるが、その実きちんとした針路を目指して進んでいる。
——かのように思えたのだが……。
突然、彼女はがくんと地面に膝を崩し、両手で顔を覆い隠しては小声で「迷った……」 と呟いた瞬間、ましろは、おいマジかっ! と驚愕の眼差しをぐりんと打ち崩された刺激臭を放つ背中に突き刺した。
不意に、ましろの肩で干された蒲団のようにぺたりとダウンしていたピャンがぴくりと動き出し、鞠のような顔をむくりと持ち上げた。
「……なにか、おる。 ものすごい気が奥から流れ込んできておるぞ……」
「サラ、うちのどら猫がこの先でなにか感じ取ったらしい。 行ってみよう」
「あっ、もしかしたら
「これは嗅覚というよりか、第六感のようなものじゃ。 シックスセンスじゃな。 儂はたまにこれを言い間違えてセッ——」
「——今この場でセクハラトーク繰り出した暁にはお前でダシをとったラーメンを売り出してしばらく生計を立ててやんぞ?」
「まあ冗談はさておいて、ようは感覚じゃよ。 感じるんじゃ」
「なるほど。 参考になります!」
「参考にすなすな。 こうなるぞ」 ましろはピャンの柔らかい背中の肉を摘んで地面に降ろす。 「案内してくれ」
「よいのか。 これは……うーん」 ピャンは目を薄めて、唇を伸ばした。 「ちと異常じゃぞ?」
「ここに来てからというもの、異常じゃなかった時分なんて一度もなかったよ。 大丈夫だから、案内してくれ」
「ふむ……。 まあよい。 いざとなったら——」 ピャンは横に並ぶサラを盗み見るように一瞥してはまた正面に向き直る。 「時間を稼いでもらおうか……」
三人が白玉の森の乱立する木々をピャンの察知した尋常でない
「この粉は」 ましろは苦凄粉が付着した白いシャツの袖を摘む。 「知性の低いモンスターを一時的に退けさせる効果があるんだよね」
「ええ、そうですよ」 サラは笑みを浮かべて答える。
「じゃあ、逆に……知性のあるモンスターには効果がない、ということになるの?」
「いいえ、絶対ではありません。 知性がないモンスターの場合、強烈な刺激臭にひるんで敬遠しますが、これが知性のあるモンスター場合、刺激臭に対し、敬遠するものとそうでないものの二種類に分かれるそうです。 これは実際使用した回数が少ないので正確な割合をお教えできないのですが、個人としては知性のあるものにはあまり効果が発揮されないと思います」
「そうなると、さらにその場合」 ましろは刺激臭が肌に纏わり付いたような気色悪い感覚のなか、頭を働かせた。 「知性のあるものは強い匂いを放つものが近づいている、というのも認識しているわけだ」
「これは……」 サラは身近の樹木の幹を上から下へなぞると、焼けて黒くなった表面の外樹皮がぼろぼろ剥がれ落ち、すぐ内側の内樹皮までもが焦げていた。 「木が燃焼していた後のようです。 ここから……この先ずっと続いています」
「ピャン。 この先にいるのか?」
「うむ。 おそらく、いや、きっとおる。 気をつけろ。 もうすでに相手さんこちらの存在を確実に感づいておるくせしてちっとも動こうとせん。 動向を窺っておるか、罠を張っておるか、堂々と待ち構えておるか……、どちらにせよこの時点で只者でないのは明白じゃ」
燃え枯れた枝が軽快な音を立てて折れるのをましろは靴底越しに感じながらさらに進んでくると、妙な悪寒が彼の身体中を押し止めるように流れ出し、肌が粟立つのだった。
「——見て下さい」
サラは十数メートル先の一帯を焦土と化した木々——その中でも数羽の小鳥が枝に止まって休息している一番突出した巨大で幅の太い樹木を指差した。 なぜその巨大な樹木であると確認もせずに理解できたかというと、その樹木の幹に目鼻口という凹凸の形があり、あたかもヒトの表情に似たものが浮き上がっていたからだった。 しかしその表情は、今は瞼も唇を線のように閉じ、眠ったような、死した人のような顔をしていた
「
「——待て、その巨木の前になにかおるぞ!」
遅蒔きに察知したピャンの忠告も虚しく、その
「ふむ。 少年の夏シャツ右肩裂けにけり」
開口一番、不敵な笑みで昼の挨拶を交わした者はなんとも異様な出で立ちをしていた。
黒く濡れた羽に艶やかな
そう——鴉である。 等身大の。
加えてその鴉は完全な直立姿勢で、かつヒトと同じ骨格を形成し、細からず、太からずのちょうど良い体付きをしていた。 その濡れ羽色の鴉の顔面は、太く長い眉に長い睫毛の下に流す瞳、筋の長い鼻先に黒ひげをした西洋風の端正な男の顔をしていたのだった。 大きな翼の内側には隠れるように両腕が伸び、手首まで黒い毛先で覆われた先に肌色の手がきちんとあった。 腰回りには二本の剣を|
鳥類の鴉元々の顔は男の顔のすぐ上に被さるように乗り、まるで、
しかし、そうなると、足首の尋常でない細さがヒトの足首のサイズと一致しないどころか、実寸大の重量に対し、支えられないほど細い足首であるのにこうも泰然としているという事実から、眼の前にいる四十代の紳士的な男性はヒトではなく、鴉の着ぐるみを被ったヒトの顔をした化物でもなく、ヒトと同じ高さの直立した鴉の咽喉元に、紳士的な男性のヒトの顔がぬっと出てきた、と表現するのが正しい。
「シャツ?」 ましろは自分の裂けたシャツの肩を一瞥してから訊ねる。 「え、なに?」
「中村草田男さ」 燃え尽きて一部炭となった
「ああ、そう」 ましろは溜め息をついた。 「なんだろう、最悪だ」
「貴公は……そうか、ましろ——と、言われているのだな」
鴉の男の不意の一言に一行は慄然と身を固めた。 なかでもピャンは慄然を飛び越え、殺気に似た臨戦態勢の構えで眼前の正体不明を凄みのある目付きで睨んでいた。
「……落ち着け。 ピャンとやら」 鴉の男はなにがおかしかったのか、滑稽と笑い出した。 「ハッハッハ——。 失礼失礼、紛い物の猫よ。 いや、そもそも貴様は猫か? ……まあよい。 遥か彼方に浮かぶ星から見下ろせば、我々など有象無象のちっぽけな存在の一つに過ぎない。 貴様がなにであれ、貴様が貴様であることになんら変わりないのだろう。 たとえそれが紛い物であろうがなんであろうが
「悪魔、カイムですって……?」 サラは 背中の
「質問の多い聖女だ。 仰る通り某があんみつ村の村長に創意工夫の知恵を施した張本人である。 だが誤解なさらぬように、檸檬色の瞳の修道士、三大聖樹の一本——サラよ。 某がここへ到着した時点でこの
「誰が、誰がそんな詭弁を信じるものですか!」
「詭弁結構。 しかし、なんともまあ滑稽ですな。 この世の中でただ唯一詭弁でしか交流できない哀れな生き物、あなた達人間に詭弁を弄するななど罵倒を受けようとはよもや思いもしなかった」
「ましろ……、間違っても戦闘を起こすなどと無謀なことを考えるんでないぞ。 彼我の差は明確にかけ離れている」
「わかってるって……」 ましろはピャンを一瞥した。 「カイム。 あんたが何者かはひとまずおいといて、誰がそいつを燃やしたか知っているのか?」
「もちろん。 某本人は事後ここへ降り立ったために目撃していなんだが」 カイムは後ろの
「それは、誰だ?」
「マシロさん! 貴方はあの悪魔の戯れ言を信じるというのですか?」
「ハッハッハ。 戯れ言だと修道士? 妄言を吐く宗教組織の歯車がなにを
「……なんですって?」
サラの双眸に殺意という仄暗く濁りはじめた色が混ざり出したところで、ましろはそれを止めようと二人の間に立った。
「ちょっと落ち着けって……。 それで、誰なんだ。 ここを焦土にさせたのは?」
「ふふん。 ましろとピャンは知らなくとも、そこの宗教というイカレた妄言組織に身を置く修道士のお仲間——ムネモシュネが既に知り得ているかもしれないが——」
「なぜあなたがその名称を——」
「まあそれはさておいて。 一応その者のあだ名を教えておいても損はないだろう。 その者、一見してヒトの子の形をしているが、その実、中身は悪魔を凌ぐ悪魔、真性の悪魔の子、名を『
「散々持ち上げといてなんてありきたりなあだ名だ」
「——その名前はこちらでも把握しています」 サラは微動だにせずカイムを警戒しながら話を続ける。 「私やマシロさんに近い歳でありながら、膨大な魔力を蓄え、炎の魔法に特化した人間だとか。 その威力は強力でありながら精神が不安定らしく、周りから疎まれ、今はお金で雇われた傭兵扱いとして各地を点々として戦地に参加しているとか」
「……他には?」 首を傾げるカイムの見透かそうとする黒い瞳がサラを捉えた。 「トリマ国でも一、二位を争うほどの情報収集力に長けたムネモシュネの調べ上げた炎姫に関する結集がまさかその程度などとは言わせないぞ?」
「ほ、他には、顔に火傷のような痕があるとか……。 ところでなぜそのようなことを聞くのです?」
「いや、別に……」 カイムは堪えきれずにサラに向って上品でありながら露骨な嘲笑を浴びせた。 「いやいや、失礼。 その程度の情報量でよくもまあ〈ムネモシュネ〉などと神の名を騙る過大宣伝を堂々と遣ってのけたものだな、とね。 騙す
カイムの言下が言い終えるより先に、ましろの横を素早く抜けて風の如き速度で真っ向切って飛んだサラの、渾身の右切り上げが、多弁な鴉に向けて振り下ろされた。
森の中で、戛然たる
「——っ!!」 サラはハッと目を見張りカイムを睨む。
「……ふむ」 カイムは腰に佩いた剣のうちの一振りを完全に抜剣せず鞘に剣の先端を入れ残した状態で彼女の鋭い一撃を受け止めながら、冷静な顔付きでサラ——ではなく、サラの持つ
「……速い」 ピャンは警戒する鋭い目つきで呟いた。 「お互い本気を出しているようには見えないが、それでもこの速度にこの威勢、カイムというやつも当然ながら、やはりあのサラという女、只者ではないの」
「あのカイムとかいう奴、サラの一撃を軽々と剣で受け止めやがった。 それも片腕で……」 ましろは二人の光景に愕然としていた。
「……なるほど」 カイムは顎に手を当てた。 「これがあの誉高き——
ゾッとしたサラは後方へ跳躍し、カイムの反撃に備えようとする一方で彼の持つ得体の知れない剣に注意を注ぐ。
対する人型の鴉はというと、平然とした面持ちで溜息をついては抜きかけた手持ちの武器をするりと納めていた。
「——ああ、これかい?」 カイムはサラに注がれる視線の先、腰に佩いた黒塗りの剣を納めた鞘に手を当てた。 「これは『汚剣—アルバドーン』。 元は聖剣であったこの剣を、年がら年中食べ物を摂取している〈暴食王アバドン〉のお尻に一突きした瞬間、あれま聖なる剣が邪悪さ纏う魔剣に早変わり、とね。 武器にはきちんと名前を付けた方が良い。 せめて刺された主に敬意を表してこの名を付けたというわけさ。 知っているかい? あの無限の胃袋の男を。 誰もが彼に会うとき、決まって彼は常になにかを食べている。 食べて食べて食べ続けて、食べ終える、空腹を満たされる、お腹いっぱいという言葉が彼の頭にはないと言っていいほど彼は食べることを止めない大食漢なんだよ。 もはや呆れを通り越してもはや関心するほどに彼は食欲の権化なのさ。 彼は小さい頃からモグラのように食べ続けていないと死ぬという強迫観念から、いついかなる状況であっても、たとえそれが睡眠中であろうとも配下を使って食べ続けているほどなんだ。 しかもたまに間違ってその配下を一緒くたに食べてしまうらしい。 ふふ、面白いだろう? 生き物は生きるために食べるけど、彼の場合、食べるために生きているんだよ」
「ケツにぶっ刺した聖剣をよく手元に置いとけるな」
「あなたは……」 サラは武器を握りしめながら柳眉を逆立てカイムを睨み。 「あなたはどこまで私たちを侮辱し続ければ気が済むのですか……」
「人間じゃああるまいし、女性を侮辱するなど恐れ多い。 それと、拍子抜けさせるようで申し訳ないがサラ。 あなた方と争う気などこれっぽっちも、寸毫も、微塵もないことご理解願いたい。 元々この世界を観察するだけの役割だった某だが、そういった——アウトサイダー的立ち位置にもいいかげん飽き飽きしていたのでね、試しにキミたちとの歓談に興じようかと考えただけなんだよ。 微弱な好奇心と軽微な興味本位の不純な気まぐれ、ただそれだけの大人げない考えだったんだよ」
「待ってください、今、なんて——」
サラがカイムの言葉の意味を問いかけた刹那、カイムは今まで折り畳んでいた濡れ羽色の気高い両翼を豪快な音を立てて左右へ広げた。 数枚の黒い羽が風に乗って宙に舞い上がる。
「骨になるまで語り明かしたいところだが、そろそろお
「勝手に現れて、言いたいことだけ言って立ち去られるとでも?」
「ふむ。 今のあなた方とではそれも
「——くっ……」
カイムの不吉な予言は先ほどの剣戟同士の衝突で悟るところがあったのだろう。
「そうだ」 カイムは冷徹な眼差しで睨む。 「力の差を知るのは実に有益なことばかりだ、サラよ。 そう、あなたは実に有益な女性なのだ。 今でも強いがそれもまだ発展途上、これから先、雲を突き抜くほどの充分な伸び代がある。 そしてましろよ、これは貴公にもいえる訓示と受け取ってほしい。 そうだ、貴公たちは強くなるのだ。 いや、ならざるを得ないのだ。 この先訪れる、運命というの名の抗争のために」
「え、なにそのフラグ……」 ましろは唖然と口を呆ける。
「ちょっと立ててみました」 カイムは不敵に微笑んだ。
「いいかげんあなたの虚実虚構には聞き飽きました……。 まるであなたという存在を物語るかのように、あなたの口から飛び出す言葉を私は悩ませ悪道へと引き摺る文言であるに過ぎません」 凛とした瞳が真っ正面から人型の鴉を捉える。 「悪魔カイム、あなたは本当に何者なのですか——?」
「だから言ったであろう。 某はカイム。 この世界を観察する者なり」
カイムは大きく広げた翼を羽ばたかせ、膝を折るや否や勢いよく林立する高木の枝葉と枝葉の間を吹き飛ばしながら天高く飛び立った。
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