第十七話 白黒
瑠璃子は姉、麻衣子のはちきれんばかりの悲鳴に全身の体温を奪われた心地で必死に森を駆けていた。
その後を、影のようにぴたりと追う一人の小さな〈
二人は無言のなか、乱立する木々と草叢を駆け抜けていくと柔らかい風に乗って漂う血の匂いに思わず鼻を詰まらせる。
姉がその局地で悲鳴をあげていたと想像するだけで、瑠璃子は目頭が熱くなった。 この異世界で、右も左も分からない土地での信頼できる人、友だちであり、姉であり、家族であり、今では戦友といって差し支えない麻衣子の身にもしものことがあったら……。 瑠璃子は胸が詰まる思いで手に持った青い槍をぎゅっと握り、息を荒げながら姉のもとへ急ぐと、進行方向先に立つ一匹の黒い猫が背を竹のように伸ばしてこちらを怪しい眼差しで見つめていた。
「瑠璃子、止まりなさい!」
瑠璃子の〈
はたと瑠璃子は両足の踵を地面に食い込ませるような勢いでなんなく踏みとどまると、二十メートルほど先の黒い猫に向けて青い槍を構えた。
「アンバー……、あのこはモンスターなの? ただの猫にしか見えないけど」
「い、いいえ……」 アンバーという名の〈
「だったら……え、〈
「そんな、同じ存在だわ。 でも……、そうだとしたら、なおさらおかしい」
「おかしいって、なにが?」 これほど動揺を隠しきれないアンバーを見たことがなかった瑠璃子は、その恐怖が伝播したのか急に背筋を寒くさせた。 初めて出会ったとき、異世界の地に孤独に立ち尽くす瑠璃子を温かく迎えてくれたアンバーの優しい顔が彼女の不安で圧し潰されそうだった心を融解してくれたことを瑠璃子は忘れなかった。 同じ女性として親しみやすく、どんな情況でも凛としていたアンバーの支えがなければ、いまの自分はいないと言っても過言ではないほどに。 その凛々しかったアンバーが掻き乱れた様子を露呈する。 目の前に現れた黒い猫はそれほど異常を
「おかしいわ。 だって、あいつが私たちと同じ〈
瑠璃子の握る槍が小刻みに音を鳴らして震えだす。
「どういうこと、ねえ、アンバー!」
森森と緑を盛り上げる天蓋の日差しに照らされ、白銀のように輝く美しい毛先の白い猫——、アンバーは突如現れた色違いの謎の存在に慄然とする。
黒い猫は尻尾を左右に振りながら、なにがおもしろいのか楽しげに微笑んでいる。
「なるほど……、それは本当に良いことを聞いた。 たまたま似たような気配に惹かれて死地を抜け出してみたら、これは僥倖。 まさに、神に感謝じゃのう」
「お前はっ! お前はなにものなんだ!」
アンバーは困惑を滲ませた敵意の眼差しを黒い猫に向け、小さな歯をカッと剥き出した。
「
「瑠璃子、先に行きなさい」 瑠璃子の隣に立ったアンバーは頭を低く下げ、毛を逆立てた胴体を伸ばしながら黒い猫を睨みつける。 「さっきの悲鳴は余程窮境に陥った情況に違いない。 あの麻衣子が、瑠璃子と似ても似つかないあの麻衣子とは思えないほどの悲鳴だったわ。 彼女の身に差し迫った危機が迫っているはずよ。 麻衣子の〈
「でも、アンバーはどうするの……」 瑠璃子は不安に駆られた。 まだ会って間もないのに、瑠璃子はすぐにアンバーのひだまりのような優しさに心を許し、アンバーは瑠璃子の自分を心から信頼する温かい眼差しと気持ちに感謝と愛情で応えた。 瑠璃子は自分の身と同じぐらい、強い関係で結ばれていたアンバーを心配していた。
「私のことは気にしなくていい。 あなたはあなたの姉さんの心配をしなさい」
隣に立つアンバーは瑠璃子にとってこれ以上ないほどの優しい笑みを浮かべた。 仏のような慈愛の籠もった温かい眼差しであった。
瑠璃子は小さな白い猫を泪でぼやける瞳でじっと見つめ、それから首を振って了解の意を示した。 ポツンと猫の置物のようにその場を動かない黒い猫から、半径十メートルほど距離を保った状態を維持したまま、両手に持った青い槍の柄を胸に抱き込むと、回り込むように全速力で走り出した。
「——そうは、させん」
ゆらりと小声でそう呟いた黒猫の躯から、突如濃密な紫紺の煙が湯気のようにゆらゆら吹き出し、深く鋭い邪気の混じった底知れぬ力の奔流が、その小さな躯を中心に際限なく放出された。
まるで韜晦していた能力を解放したようなその圧倒的なまでの彼我の差を目の当たりにしたアンバーは身の毛もよだつ畏怖を覚え、足許が凍ったように身動きが取れなかった。 あからさまでデタラメな力に心臓を鷲掴みにされる心地だった。 なぜ、どうしてこんな化物が鹿の〈
「理不尽だ、あまりにも理不尽だ……」
躯の部分に、ある変化が生じ始めた。 先ほどまで柳のように左右に揺らめいていた十数センチ程度の尻尾が、なんの脈絡もなく縄の如く伸長し、十メートルも離れた瑠璃子の元へ目にも留まらぬ速度で水平切りのように襲いかかってきたのだ。
「瑠璃子っ、気をつけてっ!!」
「——っ!」
瑠璃子が反応した時には、すでに目の前まで尻尾は接近してきた。 しかし、標的は瑠璃子ではなく、彼女の持つ青い槍であった。 黒い尻尾は目当ての武器に柄を蛇が這うように一巻きしてから強引に掠め取っていった。 それはまるで尻尾が独立した一個の生き物のような俊敏性のある軽快な動きであった。 継いで黒い猫本体を支点に、時計回りに円を描く長い長い尻尾は猛然と滑らして奪取した青い槍の切っ先をアンバーに向け突き立てた。
「甘いっ!!」
重い足許から熱のようなものが伝わってくるのをアンバーは感じた。 自分はなにをやっているんだ、瑠璃子はあんなにも努力しているのに……。 眦を鋭くして奮い立つアンバーは、襲いかかる青い槍の切っ先を素早く読んで、地を弾くように跳躍し、射程範囲から逃れるように綽然とした身の
「ああ、たしかに甘い……」 黒い猫はまるで、アンバーの行動を既知していたかのように落ち着き払った態度で囁くように嘲笑し、一天の真っ暗闇に淡然と浮かぶ、三日月の如き弓なりの瞳をより一層禍禍しく歪ませた。 「お前がな……」
底知れぬ邪悪さを滲ませた黒い猫の科白にアンバーが眉間に皺を寄せると同時に血肉を貫く生々しい音が聞こえ、慄然とした光景がアンバーを捉えて離さなかった。
「え……」
瑠璃子はそれがなにか数秒間理解できなかった。 その身になにが起こったかまったく理解できなかった。 視線を前に向け一心不乱に走っていたところ、なんの前触れもなく突然胸許が突き抜けるような熱さを覚えた刹那、地面から足が勝手に離れて宙に浮いている浮遊感をスローモーションで感じた。 着地した足先が地に躓き、二の足目にはバランスを崩し、三の足はついに靴底を付けずに下草に膝を滑らせた。 その時、彼女から膝の痛みは抜け飛んでいた。 なぜならそれを凌駕する激痛が彼女の目と鼻の先に映り込んで見えたからだ。
瑠璃子の胴体に、背中から青い槍を貫通されていたのだ。
「がぁっ——、ごほ——」
「瑠璃子っ!!!」
アンバーの絶望を滲ませた張り裂けるような悲鳴が静閑とした白玉の森に轟めく。
アンバーはその瞬息の間に起こった光景を視界の隅で目撃していた。 それは躯が反応するよりも素早く始まり、息を呑むよりも一瞬間に終わる惨劇の場面であった。
黒い蛇のように尻尾に巻き付いた槍は、まずアンバーへ向けて襲いかかった。 アンバーはその風を切るような刺突を跳躍を以てこれを回避したが、尻尾の速度は落とすどころか、遠心力を利かせたまま黒猫の元へ還るように時計回りを続け、その先にいた瑠璃子の無防備な背中に深々と突き刺したのだった。
「がほっ……」 両膝を地面に着いて吐血する瑠璃子の胸の下——肝臓あたりからは貫通した真っ赤に濡れる槍の切っ先が微細な肉片を付着しながら天蓋の葉の隙間から差し込む日差しに揺れて妖艶と輝いていた。
「わざと心臓を外しておいたが……、しかしこういう場合、いささか不謹慎ではあるが、再生医学的興味というものが湧くのう」 黒い猫は瑠璃子の躯に突き刺さった槍を引き抜かずにそのままするすると巻き付いた尻尾を離すと、何事もなかったかのように引き戻しては暢気な声で尋ねた。 「槍を貫かれた状態では、臓腑は完全再生をしないのか? それとも、貫いた状態で再生が始まるのか? もし後者が可能だとすれば、第三者視点からは胴体に槍を貫通したまま歩いているように見えるということか」 黒猫はそれを想像すると狂ったような冷笑を噛み殺して鞠のような小さな躯をぷるぷる震わした。 「どうじゃ。 どっちじゃ?」
「瑠璃子、武器を戻しなさい! 頭で消すイメージをするの!」
濡れた
「おお見事。 おもしろいものを見せてもらった。 武器はそうやって消失させる方法があったのか。 まったく……、つくづく見てて厭きないおもちゃじゃのう、こやつらわ……、さて」 興に入る黒猫は小さな首をわずかに傾げながら歪んだ弓なりの視線をアンバーへ移した。 「さて、次はどこを痛めつければまた新しい情報が得られるのかの?」
アンバーは焦燥と混乱を双眸に浮かべながら、黒い猫と瑠璃子を交互に見合い、必死に思考を巡らした。 先ほどわざと心臓を外しておいた、という相手の真意がまったくわからない。 〈
問題はまだあった。 姉妹たちは別の〈
〈
そして、なぜ姉妹たちが
もしもここで同盟を組む条件を達成させずに這う這うの体で万が一黒い猫から逃げ帰れたとしても、役立たずと判断した東堂に問答無用で屠られることは自明の理だった。 今もどこかで東堂はアンバーたちのこの陰惨な光景を悠然たる態度で俯瞰しているに違いない。 東堂の〈
それだけはなんとか避けたい。 とするならば、最早しのごの思考に耽る暇さえ今は惜しかった。 アンバーは勝利ではなく、瑠璃子が生き残ることを最優先に考え、次に姉妹揃って逃げるのが困難だと考えていた瞬間、ふいに勝利を捨てた上に逃げずに済む、という考えが頭を過った時、突然アンバーの視界が晴れた」
「……お前に相談がある。 私たちと、私たちと組まない?」
「——なに?」 黒い猫の眉がわずかに傾いだ。
「先日、この森で白い鹿と少女を見つけたわ。 お前——あなたたちと一緒にいた人間の服装、そして髪色から〈
「あぁ……。 なるほどの。 いや、抜かったわ」 黒い猫は大きな溜め息を吐いた。 「ということは、最初からあんみつ村なんぞ襲うつもりはなかったということか」
「半分正解だけど、半分は不正解よ。 私たちは始めからあなたたちを襲おうと考えていた。 だから
「でも、なんじゃ?」
「でも、その襲撃時に
「ほう……」 黒い猫は訝しげに首を傾げた。 「なぜ村を襲おうとしたんじゃ? 人間、餌目当てか?」
「ただでは教えない」 アンバーは意外なところで黒い猫が興味を持ったことに光明を見出したが努めて平静を装いながらこれを材料に駆け引きを持ちだそうと案じた。 「条件として、情報を寄越す代わりに私たちを逃がしてくれない。 答えられることなら包み隠さずなんでも話すわ」
「構わん」 黒い猫はあっさり頷いた。 「ただしお前たちだけだ。 あちらにいる小娘と蜥蜴を助けたいのならば、それはお主たちがどうにかせい。 それと、
「……わかった。 教えるわ」 アンバーは同盟を結ぶ提案を述べた時点でこの質問が提示されることを予想していた。 理由は尤もだからだ。 同じ立場なら、アンバーもそうしたはず。 案の定の展開であったが、アンバーの中で残酷であるが優先順位は瑠璃子であって、次にアンバー自身。 麻衣子やヘルトではない。 しかし、だからといってこの背信行為を献上したところで相手が信用するかは賭けに近かった。 しかし、瑠璃子のためならたとえどんなものでも、藁にも袖にも袂にも杖にもアンバーは縋る所存だった。
●
【
●
「なんと……」 黒い猫は目を薄めて嘆くように溜め息をはいた。 「なんてくだらない能力なんじゃ。 それで……、そんなのに儂らは殺されかけたのか」
「あなたたちの仲間の鹿と違って私たち非攻撃系スキル物理による直接的な威力が無い代わりに、多様性が高く、想像次第で攻撃系を上回る可能性があるからね。 でも、不思議ね。
「ふん。 好きでそうしとるんじゃないわい。 儂の目的のために、小僧には強くなってもらわなくてはならないんじゃ。 ……それで、やつらはなぜ村を襲った?」
「知性のない
「それはおかしい」 黒い猫は視線を逸らし、神妙な顔で目を薄めた。 「モンスターの気配をあの村の中では感じなかったが……」
「しかし、聴き取った内容に間違いはないわ。 詳しい内容まではわからないけど、【翻訳】はわずかなニュアンスの差異もなく解析される。 それで、話を戻すけれど……、あなたが何者かは一向に不明だが、伏せておきたいのならそれで構わない。 藪をつついて蛇を出す真似をしたくはないからね。 〈
「ああ、そうじゃった。 そうじゃな、まあ無理じゃな」 黒い猫はあっさりと、逡巡する暇もなく事も無げに答えた。
「どうして!? あなたは鹿の〈
「お主の推察のとおり、儂には儂の目的のためにこの先におる小僧を利用しておる。 しかしの、なにぶん儂一人ではあの小僧にこの世界の事情、お主たちとの命の奪い合いを学ばせるには無知といえるほど力不足で、どうしようかと考えておったところへ、たまたま鹿を連れた小娘が現れ、それを使って至らぬ点を補ってもらおうとあくまで同盟を結んだに過ぎない。 残念じゃったな、一足先にその席はとうに埋まってしまった。 それに、これ以上仲間が増えるのも儂の目的に支障をきたすし、そもそも……」 黒猫は顎をあげてふっと冷嘲する。
「お主らのような鼻垂れた赤子の世話をするぐらいなら、いっそ舌を噛んだ方がましじゃ」
「そう……。 いいえ、いいのよ。 むしろ断ってくれて礼を言いたいぐらいだわ……」 アンバーは頭を伏しながら沸々と込み上げる怒りを押さえ込んでいたが、いつまでも我慢できるほどアンバーは寛容ではなかった。 「舌を噛んだ方がましだと? それはこっちの科白だ。 あなたみたいな——、お前みたいな、お前や東堂のような、悪魔のようなやつとの同盟なんか、こっちがお断りだ!! 同盟を組めば命は助けたものの、もう出し惜しみなんかしないっ! お前は危険だ。 生きていてはこの戦いに大きな支障となる。 黒い猫よ、黒い悪魔よ! お前に最後の一回を使って今この場で自害してもらう! 【
アンバーの橙色の瞳がスキルの発動と共に突如薄桃色に変色を遂げ、その幻惑の瞳から放たれる怪しい光を直視した黒い猫は、次の瞬間、酩酊したように頭からふらふら前後不覚に陥った。 しばらくして擡げた顔をゆっくり持ち上げた黒い猫の瞳はアンバーと同じく薄桃色に変容し、気が抜けたようなぼんやりとした顔でアンバー越しの乱立する木立を眺めているようだった。
アンバーの【
【
発動条件は操作対象と瞳を三秒間合わせるだけでいいため、対象は一人である必要はない。 今回アンバーは
操作時間は、潜在的精神の強さによって異なり、対象より発動者の精神力が弱ければ長い期間を設けられるが、スキルを発動するまでは彼我との精神力にどれほどの差があるか、そもそも有効かどうかさえわからない。 対象自体に精神操作無効の機能またはアイテムを所持していた場合、その機能次第によって無効、軽減、反射が起こるからだ。 発動者にとって最悪なパターンは後者の反射で、対象は跳ね返った発動者自身であるため、相殺されずに拮抗した状態になるため、ある一定時間身動きを自ら封じることになる。 一見有利な能力であるが、単独での発動がハイリスクを生じさせる諸刃の剣である。 そして
アンバーは心底疲れ果てた様子で唸るような溜め息をはいた。 事実アンバー自身が発したとおり、すでに固有スキルを能う精神労力は残されておらず、躯が鉛のような疲労感を覚え、視界もわずかにぐらついていた。 「肝心要にと【
横に伏せた半眼の瑠璃子は赤い池に頬を付着させながら弱々しくこくんと頷いて微笑んでみせた。 口許から零れた赤い血はすでに乾き始め、皮膚に付着した血液がパリパリ剥がれていった。 〈
「〈
「違ウ」 黒い猫は自我を失ったように抑揚のない声でアンバーの命令に絶対的にゆっくり答えた。
「でしょうね。 私がいるものね。 では、いったいなにものなの?」
「化身ノ残滓、ダ」
聞き慣れないフレーズが連続して聞こえた。 「化身——? なんの? 残滓とはどういう意味」
「想像上ノ化身……」
「お前自身知らない化身ということ……? それは、なに。 まったくわからない。 目的は、その目的はなんなの? なぜこの争いに加担している。 狙いはなに!」
「目的ハ一ツ。 当然、ソノ途上ノ目標モアル」 黒猫はゆっくりと頭上の緑の天蓋を見上げた。
「その途上とは一体なんだ」
「ソレハ……」 次に頭を降ろした黒い猫の瞳はいつの間にか平時の茶色い瞳に戻っていた。 「——貴様を喰うことじゃ。 白猫」
「どうして……」 それはアンバーは自身が予想していた精神スキルの操作時間よりも早く解かれてしまったことによる驚愕に漏れた科白だった。 それはあまりにも短すぎたため白い猫の脳裏に一つの希望的観測が浮かび上がる。 「どうして……。 そんなはずはない。 私の予測は五分だった! 一度【
「いいや。 残念ながら効いておる。 ——否、おった、と言い換えた方がいいじゃろう。 儂個人はの」
「個人、ですって……」 アンバーの視界が先ほどよりひどく揺れ出した。 目の前の黒い猫がなにを言っているか思考に割く労力がいよいよ回らなくなりはじめた。 運が尽きた瞬間だった。 いつからだ……。 それはいつからだとアンバーは思い返す。 この渺茫たる世界に放擲されてまもなくアンバー自身の固有スキルが攻撃系ではなかったことか? しかし、利用次第で物事を有利に展開できる有用性の秘めたスキルに深い落胆はなかった。 ヘルトと麻衣子に出会った時はどうだろうか。 姉妹とは思えないほど似ても似つかない、異世界で唯一の肉親を物のように扱う麻衣子を見たときか。 それとも意欲も戦力も乏しいヘルトを見たときか。 それともあの、あの東堂に会った瞬間か。
どこだ、どこで私は道を間違えたのか……。
黒い猫はそこで初めてその小さな前足を一歩前へ進んだ。
アンバーは思考が幻想であったかのように瞬く間に吹き飛び、慄然と瞠目する。
一歩、そしてまた一歩。 のろりとした緩慢な足取りで徐々にアンバーに近づいてきた。
「——終わりか?」
アンバーは黒い猫を前に動かなかった。 否、動けなかった。 【
自分と同じ大きさであるのに、その小さな鞠のような躯が近づくにつれどんどん大きく禍々しい死神のように映り込んでくる。 黒い猫との距離がついに二、三メートルに迫った時、おもむろに黒い猫の口があんぐりと開いた。 それと同時に顔全体が風船のように次第に大きく大きく膨らみだした。
「あ……、あぁ……」 アンバーは誇大する黒い塊に口を
(ああ、私は泣いているのだ……)
そうだこれは泪なのだ。 私は涙を流しているのだ。 まだ私にも、こんな人間らしいものが残っていたのだとこの絶望の淵に立って、アンバーは初めてかすかな喜びを思い出した。
「——東堂を捜せ……」 悲愴の中に一縷の喜びを悟ったアンバーの上擦った声は音の外れたオルゴールの旋律のようだった。 黒々とした大きな球体にはその声が届いているのかさえわからないが、アンバーにとってもはやそんなことどうでも良かった。 ただ、東堂のような人間がこの悲劇の闘争のなかを最後の一人になるまで生き残っていたらと思うと、あまりにも理不尽で理不尽で言わずにはいられなかったのだ。 「やつを捜して、そして屠れ……。 あいつは、あいつはお前たちを知っているぞ!」
「——ア、アンバー……」 瑠璃子の弱々しい眼差しが小さな猫の瞳と合わさった。 苦痛を滲ませながら起き上がせた彼女は、ゆっくりと、ふらふら震える重い足取りでアンバーの元へ進んだ。 彼女はその小さな腕を白い猫に向って懸命に伸ばしていた。 「ア、ア——」
「瑠璃子、逃げなさい」
「いやだよ……、アンバー。 だめだよ、そんな……。 私を、私を一人にしないで……」
「あぁ瑠璃子……、瑠璃子、ごめんなさい。 本当に」 落涙するアンバーは首だけを小刻みに一ミリ一ミリ動かし口を戦慄かす瑠璃子を柔らかく見つめた
あなたはこんな私に優しくしてくれた。 こんな私を信頼してくれた。 私を友達と呼んでくれた。 それなのに、私はあなたにはなにもしてやれなかった。 なにも返してあげられなかった。 なにかを分かち合うこともできなかった。 だからせめて、こんな私でもせめてあなたの役に、少しの間だけでも役に立てるのなら。 今の私にできることを、この身を賭してでも——。 瑠璃子——。 あなたは——。
「あなたは、逃げなさ——」
——ガチィィィィィィィンッ——。
禍々しい黒い塊の上顎の歯と下顎の歯を噛み合わせる、軽快で鋭い音が静寂の森に響いた。
アンバーの、今際の際の科白も言い終えぬうちに、黒い塊の満月のように開いた獰猛な牙がアンバーと地面、そして瑠璃子の伸ばした腕の先を根こそぎ喰らっていった。
「ア、アンバァァアアアーーー!!!!!」
瑠璃子は腕が喰われた痛みではなく、大切な存在が残酷な最後を迎えた現実に咽喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「この温もり……。 否、これは……、寂寥感か」 黒い猫は感慨深い面持ちで余韻を噛み締めながら丁寧に丁寧に舌なめずりをして感慨深い表情で頭を上げた。 「感じる。 アンバーという業の器の慟哭、苦痛、後悔、そして憎しみ——負の感情。 そして後に残る死を受け入れた清々しいほどの諦念。 死を願うのは卑怯だが、だがしかし、この女の散り際の美しさ……。 瑠璃子、お主を最期の最期まで心配していた心優しい女は……、もういない」
「ああぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!!」
激昂した彼女は再生途中の肺の痛みなど完全に忘れ去り、地面を蹴ると同時に宙に手を差し込んだ。 空を切るように抜き出したのは一滴の血も汚れも付着していない真新しい青い槍。 その切っ先を、凶悪蠢く黒い猫に向けて突き刺そうとしたその瞬間——。
圧縮された空気が弾けたような、バチィィンという耳を塞ぐほどの甲高い音が森中に轟いた。
なにかを感じた瑠璃子は急に足を止め、音のする方向へ首を向けた。 七色の大きな虹が瑠璃子たちの数百メートル先で打ち上がり、そこから遥か遠くの空の果てまで連綿と伸び架かっていたのだ。
虹の橋をよく注視すれば、その上を丸みを帯びた蒼白い綿のようなものが目にも留まらぬ速さで川に流れる百合のようにぐんぐん流れ進んでいった。
「アンバーを喰った今だからこそわかる……」 黒い猫は森の木立のさらに上空に架ける虹色の橋を望んだ。 「そうか、あの小娘はお主の姉だったのか。 お主はいまこの時、すべてを失ったんじゃな」
「え……?」
「あの蒼白い綿はなんじゃと思う……。 あれは魂そのものじゃ。 お主ら〈
「嘘だ……。 嘘だ、姉さんが。 ね、姉さんが……!!」
「嘘だと思うのならこの先へ行って確かめてみるといい。 おそらく、お前の姉を屠った張本人が事細かに説明してくれるじゃろうよ。 ただし……、行けたらの話じゃがの……」
瑠璃子は全身の力が抜けたように地に足を着いた。 視線が暗転を繰り返すなか、赤く染まった事件が眼に留まった。 それは噴水のように流れる切断された腕からだった。 真っ赤な液体が止めどなく溢れ出し、咽喉から嘔吐いて漏れ出す赤い水に歯を食いしばり、痙攣のようにびくびく身悶えを繰り返すと、やがてぷつんと断ち切れた糸のように白目を向いたまま真っ赤に染め上げた天然カーペットの上へ水の音を立ててと倒れ込んだ。
「しかし殺しはせんよ、隻腕の娘。 その身を捧げてお主を守った哀れで可憐な同胞の死に免じて、今この場では殺しはせんよ。 しかし、それはなんと残酷なことか。 頼るべきものを失い、心と躯の痛みに悶え苦しみながら孤独にびくびく怯え、言葉も通じぬこの異世界で、お主は寄る辺なき者、真の異邦人になってしまうとは。 生きることが地獄とは……、今のお主を指し示すのかの?」
瑠璃子は薄れゆく意識の中、ころころ笑う歪んだ三日月の笑みが冷たい白い月のように燦然と輝きを放っていた。
「眠れ隻腕の娘。 微睡みの繭を幾層も厚く練り込め。 あっさり目を覚ましてしまえばここが地獄であると思い出してしまうからな」
しんと静まりを取り戻した森の中で黒い猫はひっそりと微笑んだ。
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