第十六話 糾合


 芯から凍える麻衣子の冷血な声は命令となって戦場に残った灰色に「痛みを与えろ、苦痛を与えろ」 と伝播された。

 「黄土色は鹿を相手にしなさい! あの大技は間違いなく使用回数の限られた固有スキルに違いないわ。 だとしたら、無駄遣いをさせるために黄土色を盾代わりにさせれば恐くはない!」 麻衣子は劈くほどの大きな声で独白混じりに指示を出した。 「灰色は女と猫を離してから攻撃しなさい、くれぐれも殺さないよう! すぐに殺さず、じっくり、ゆっくり、丁寧に、冷静に、念入りに、慎重に、適度に、適切に、粛々に、熟々しくしくに、控えめにいたぶるのよ」

 ピャンと凛の奇襲によって負傷した灰色が持つ武器、大剣と斧を別の灰色が奪おうとその武器を握りしめた。 所持していた灰色はそれを払い除けようと必死に抵抗するが、奪取する灰色の元々持っていた棍棒を振り下ろして顔面に叩き付けた反動で手に持っていた武器が別の灰色の手に渡った。 その灰色はすぐさま、なんの躊躇いもなく、握りしめた武器で試し切りでもするかのように二体の深手を負った灰色を斬殺した。

 カノープスの前には命令に従順に従う黄土色。 そして凛とピャンはそれぞれ孤立され灰色たちがそれを出口にない壁のように覆った。

 「蹂躙じゅうりん、——開始」



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 麻衣子の狙い通り、カノープスの【突進ラッシュ】は残り二回の使用制限がかかっていた。 先の戦闘では凛の許可が必要であったが、それ以降の自身の身に切迫した窮地が起こりうる場合は【突進ラッシュ】の自発的発動が許されている。

 残存する黄土色と背後にいる灰色が最も密集している地点に向けて、カノープスは第二の【突進ラッシュ】を発動させた。 黄土色たちが両手を前に出して我が身を防御させるが、【突進ラッシュ】の前では無意味に等しかった。 黄土色と灰色は一陣の暴風によって身体をひしゃげ、絶叫を青空へ向って叫びながらその姿をぶつ切りにされ、血飛沫と肉片を撒き散らしながら地上から消え去っていった。

 ピャンは自身を囲う灰色の攻撃を機敏に避け続けながらも、既に灰色による棍棒やメイスの殴打によって複数の傷を負い、窮した表情からは必死に周囲の次の攻撃を読もうと眼が血走っていた。 【弾丸】の残り回数は四回、そして今さっきメイスの継続攻撃に対し【弾丸】を発動させ、メイスごと灰色の胴体から先を消し飛ばした。 その背後で揺れ動く物体をピャンは自信を覆う影に寄ってはたと気付き、確認する暇もなく横へ飛び跳ねると、今までいた地点に風を起こすような力がピャンの毛先を靡かせた。 灰色は叩き洩らしたピャンを見つけると、地面に食い込んだ大きな棍棒を事も無げに持ち上げ、右の肩を内側へ回し跳ね返すように素早く真下にいたピャンへ木片の塊を振り上げた。

 「——っチィィッッッッ!」 ピャンは後方へすぐさまステップすると地面に爪を立て、振り上げられた際に生じた突風を巻き起こす風の流れに抗うように這いつくばった。 「初めてこの身が憎たらしいと思ったわい!」

 灰色は腕力に任せて起こした風によって身動きをとりにくくなったピャンに向けて今度は頭上に振り上げた棍棒を勢いよくピャンのいる地面へ叩き込もうとした。

 「調子に乗るなよ雑魚があああっっ!!」

 ピャンは宙へ振り上がった瞬間を狙って、弾くように地面を蹴ると、周囲から白い高密度の霧を即座に形成させた。 それは足から頭部へかけて螺旋状に徐々に細く鋭く尖った三角錐のようになり、地面を易々と突き刺すレベルの運動エネルギーの込められた木製の棍棒が間近に接近した瞬間——。

 灰色は回転する丸い太陽に目を薄めながら混乱していた。 なぜ、空を飛んでいるのだろうかと。

 たしかあのとき、全身の力を込めた最大の一撃を怪物めいた真っ黒な動物に叩き付けたはずなのに……。 なぜだ、と不思議がった灰色が眩しい太陽の次に見つめた真下の光景に愕然とした。 それは粉砕された棍棒を地面に付けたまま首から先を見失った灰色の姿をした醜悪な小人ゴブリンだったからだ。

 首だ——。

 首だ——。

 ここに首が——。

 くビィィィィィィィ——イ、が——。

 凛の大鎌は広範囲による攻撃と守備範囲が確保され、大きな示威を灰色に見せつけた。 数体の敵を撫で斬りにし、刃先に滴り落ちる粘性の赤い血が地面の下草を塗らす。 前方からの灰色の棍棒による五月雨のような殴打に、鎌を使って防御する凛の隙をついて別の灰色の振り下ろした棍棒がもろに脇腹を叩き付け、囲繞して退路を塞いでいた灰色の壁を崩すほどの衝撃力で彼女は反対方向に吹っ飛ばされた。

 「凛!」

 カノープスの痛切な叫びも醜悪な小人ゴブリンの喝采にすぐさま掻き消えるほど地上は有象無象としていた。

 凛は砂埃をあげて横に倒れながらも意識を失わずに片膝をついて立ち上がり、構えなおす。 眉間に皺を寄せ、片方の眼を瞑る。 荒々しい呼吸の口の端は切れ、赤い血がどろどろこぼれていた。 鼻の奥がつんと突き破る痛痒とそれ以上に脇腹の骨が複雑な凹凸をして、触れるだけで、劈く叫声を止められなかった。 口に溜まった粘着物を出し惜しみなく吐き出した。 ローファーの爪先周りに付着した吐血と丸い泡が太陽の照り返しでてらてら輝きを放っていた。

 視界を吹き荒ぶ砂嵐のような霧がまるで躯中に駆け巡ったような痺れが凛を襲った。

 額の奥からどんどん警鐘に近い鈍い音が耳朶に聞こえた気がした。

 なにが言いたいんだ。 凛は自問した。 返事はない。

 音は耳許まで聞こえてきた。

 脇腹の激痛が言葉を発すことを封じさせる。 単語にならないそれ以前の音が口許から羅列するようにぽろぽろ落ちる。

 ましろ……。

 凛は大鎌の柄頭をがんと地面に突いて、苦悶の表情で唇を戦慄かせながら新緑の天蓋に向って叫んだ。

 「ましろっ!! 四月一日わたぬきましろっっ!!」



                  ● 



 劣勢に陥った情況を高みの見物しながら高笑いする麻衣子は、勝利を確信していた。 決してつまらなくない勝負だったと賛辞を贈りたいほどだった。

 彼女は勝つという概念自体にいつしか有意性を抱かなくなっていた。

 教育熱心な母親によって同年代のなかでも優れた子供として評価の高い子供時代を送った。 中学、高校でもその評価が落ちることはなかった。 しかし、不意にわからなくなった。 自分はなんのために四角い机に向ってペンを走らせているのだろうかと。 彼女には妹がいた。 妹は彼女と違って決して優秀ではなかった。 しかし、そんな妹を両親はきつく詰ることもなく愛した。 猫のように可愛がっていた。 彼女が塾から帰ると、両親と妹が席の一つ空いた食卓で夕食をとっていた。 温かい照明の下で、テレビを見ながらころころ談笑していた。

 彼女は次の日、期末考査で他クラスの同レベルの学力の男性と内々で賭けをした。 負けた人はなんでも言うことを聞くという条件付きで。 結果は彼女が勝利した。

 彼女は男性に野良猫を殺すよう命令をした。 破ればそれなりの罰を男性に与えると嫣然とした顔で伝えた。 男性がそれを無視すると、翌日、男性はクラスの誰ひとりも話しかけられなくなった。 男性だけ離れ小島に一人ぽつんと立ち尽くすようで、それを見ていると彼女は腹の底から生暖かい爬虫類のような生き物がぞろぞろ蜷局を巻くように蠢いている気がして妙な気持ちをした。

 数日後、彼女は男性に呼ばれ、放課後公園へ足を運ぶと、夕日を背に浴びながら男性は興奮した顔付きで紺のサブバックから黒い粘性で毛先が固まった猫を見せて恍惚の表情を浮かべていた。 彼女も微笑を返し、お腹の中の生き物も彼女を見て笑っている気がした。 彼女はヒトを扱う喜びを覚えた。



                       ●



 不意に、耳許でこの戦場では聞き慣れない音がかすかに聴こえた気がして、麻衣子は思わず笑い声を止めた。

 少し離れたところで枝葉が揺れる音がした。 いや、こんな絶頂の瞬間になにを些細なことに気をとられているの、と考えた。

 しかし、その擦れ合う葉と葉の乾いた音はまた聴こえ、しかもそれはどんどん音を大きくしてこの一帯まで近づいてきている。 がさがさとぶつかる葉の擦れる音に混じって獣の唸り声のような音さえ重なって聴こえだしてきた。

 ——否、それは、ようなではなく、獣の唸り声そのものであった。

 草叢を突っ切って現れたのはヒトの背丈ほどある大型の森の狼、森の狂狼フォレストウルフ十数体の群れとその群れの先頭で必死に駆ける男の姿であった。



                       ●


                      

 ましろの目に飛び込んできたのは周囲を灰色に囲まれ逼迫した様子の病的に白い表情を浮かべる凛の姿だった。 大鎌の柄頭を杖代わりに地につける姿は痛々しく、脇腹はブレザー越しからでも赤い染みが広がっていた。 それを見た瞬間、ましろはやりきれない思いがふつふつと腹の底から涌き上がって目頭が熱くなるのを感じた。 握る拳が急に氷のように冷たくなったかと思うと、瞬時に燃え上がるように汗が浮かび出てくる。

 「凛っ!!」

 ましろはそう叫ぶと手に持っていた棍棒を投擲して凛の眼の前に迫る灰色の側頭部を打ち当て、空いた隙間を縫って凛を背負って太い枝の木へ飛んだ。

 「カノープス、ピャン、木の上に飛べっ!」

 真白がなにを言いたいのか判然としなかったが、カノープスは慌てて飛び移り、枝と幹に身体と副蹄を密着して落下を防ぐ。

 木の上から先ほどまで立っていた場所を見下ろすと、驚くべき情況が起こっていた。 なんと、醜悪な小人ゴブリンとましろを追走していた森の狂狼フォレストウルフが激しい殺し合いをしていたのだ。 凛も、ピャンも同様にその現場、その惨状を木立の上から見入っていた。

 これがましろの作戦の一つ、巻き添えである。 凛たちが醜悪な小人ゴブリンと戦闘を繰り広げている間に、ましろは近い範囲にいるモンスターを挑発させ、今いる場所まで誘導させるたのだった。

 森の狂狼フォレストウルフ——。 野生の狼よりも一回り大きく、射貫くような眼光は夜目にも利く。 毛色は黒寄りの消炭けしずみ色で、鋭い刃で獲物を駆る肉食獣のモンスターで、常に群れで行動する。

 正確は名前どおり狂暴で、やや知性に欠けるが統率力が高く、自分を越える上位種との戦闘でも群れが半減しない限り戦闘を止めない荒々しい性格を持つ。

 しかし突如横槍を入れる形で現れたその森の狂狼フォレストウルフに一番驚いていたのは麻衣子だった。 隣にいるヘルトはそんな他種族同士の遭遇戦に際しても、麻衣子の作戦が混乱を呈していても冷静に何事もなく傍観している。

 「どうして、なんであいつがモンスターを引き連れているの? まさか、まさかあいつの〈異界獣ペット〉も【魅力チャーム】を持っているっていうの!? ヘルト!」 麻衣子は自分の楽しみを邪魔された怒りをヘルトにぶつけた。

 「それは違う、麻衣子。 固有スキルは、〈異界獣ペット〉が敗者の〈異界獣ペット〉を喰らったときに稀に得られるもので、本来スキルが被ることなどはない」

 「だったら……、だったらこれは……」

 「いいのか、麻衣子」 ヘルトはこの情況でひどく落ち着いた声で麻衣子を呼んだ。 「いないぞ……、男が一人」

 ヘルトのその言葉に狼狽と顔を引き攣らせる麻衣子は目を皿のようにして男の姿を捜す。 先ほどまでいた木の上にはすでに男の影も形もなく、目の端で捉えたのは、麻衣子を見つめる凛の苦痛に潜む不敵な笑みだった。

 麻衣子はその不気味な笑みに自身のプライドを傷つけられたようで舌打ちをした、その時だった——。

 「——よぅ」

 ハッと背筋を凍らせ、声のする方向へ反射的に振り返った麻衣子。

 それは自身の背後に植わった目と鼻の先の木立からだった。 上体を曲げて顔を後ろに向けた次の瞬間には、ましろの跳躍からのドロップキックが麻衣子の薄い脇腹にまともに食い込み、骨の砕ける音を響かせながら透明の液体を口から吐き出し宙に舞った。

 歯をむき出しに食いしばりながら視界が地面、宙、木立とめくるめく移り変わる光景に抗うことも能わず、重力の法則に伴い地面に落下した。 土煙を上げながら割れた肋骨の箇所を壊れ物のように繊細にあてた途端、激痛が彼女の全身を駆け巡り、もんどりをうちながら下草を握った。 やがて土煙の晴れた周囲をおそるおそる窺うと、そこは全身生々しい傷を負った二種族のモンスター、醜悪な小人ゴブリン森の狂狼フォレストウルフの殺戮の最中のど真ん中であった。 鼻血を垂らし、痛みに打ち震える麻衣子の周囲を取り囲む表情は、たとえるなら呆然とした面持ちで、しゅうしゅう荒い吐息を上げて彼女を見つめていた。

 麻衣子は快晴の空に向って絶叫を上げる。

 「る、瑠璃子っっ!!! 助けてええぇぇ!!! わツィ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬぅぅぅ!!!」

 麻衣子は別の女性の名を張り上げて叫びだした。 そして泪で目許を濡らしながら、凛と同じくなにもない虚空に向けて手を伸ばすと同時に音もなく突然小さな波が虚空を打ちはじめ、すうっと手が滑り込んで手首から先が掻き消えたのも手束の間、ぬっと抜き出し、かちゃかちゃ金属の音を震わす手に握られていたのは、短剣の精巧な彫り込みのある青い短剣ダガーだった。

 彼女はすぐさまそれを一番近いモンスターの腿めがけて深々と突き刺した。  溶けたバターのように滑らかに食い込んで苦しい声を上げながら地面に跪いたのは麻衣子が煽動していたはずの灰色の醜悪な小人ゴブリンであった。

 「瑠璃子!! ねえ瑠璃子っ!! コイツらに私を守るよう命令しなさいっ!! 早く——、早くしなさいよっ、このグズッ!!」 

 真後ろで荒い息を吐く音を感じ取った麻衣子は恐怖に引き攣った顔で振り返ると、今にも飛びかかろうと歯を剥き出しに疾走する森の狂狼フォレストウルフであった。

 「ひぃ——!!」

 先ほどまで優勢であった頃の冷血ぶりとは打って変わって今では怯えに怯え、冷静さを完全に失い、武器をデタラメに振り回す。 〈異邦人ストレンジャー〉という超人的な身体機能を手に入れた者とは思えない脆弱ぶりだった。 そこに立つのは、ヒトを扱う喜びを失った、勝利を見失ったただの女子高生だった。 目前に迫った森の狂狼フォレストウルフは振り上げられた短剣ダガーの一振りに頬を切られたが、まったくそれに動じず、近くにいた仲間に目配せを送ってしゅうしゅう口許から零す吐息が揃い出した瞬間、短剣ダガーを震える手で突き出す麻衣子に臆面もなく爪を剥き出して突っ込んだ。



                  ●


 

 「どうしてあの女——、麻衣子だったかな? あいつは自分の味方の醜悪な小人ゴブリンを攻撃したの?」

 「さあ。 半分パニックになっているんじゃないのかな? まあ普通はパニクるわな」 傷の治りかかった凛の疑問にましろは予想を出す。 「多分だけど、さっき叫んだあの……」

 「ルリコ」

 「そう、ルリコっていうやつの〈異界獣ペット〉が醜悪な小人ゴブリンを命令させる神経系の固有スキルを持っているんだろうな。 そして、あそこにいるマイコってやつの〈異界獣ペット〉が醜悪な小人ゴブリンの色を擬装させたんだろうな。 指パチンしたんだろ? だったらそれが解除の合図だったに違いない。 んで、さっきの呼びかけからして、ルリコはここから声の届く、そう遠くない範囲にいることがわかった」

 「ずっと大声で命令しているのがおかしく思えたんだよねえ。 あれは醜悪な小人ゴブリンに命令しているんじゃなくて、ここにいない仲間へ向けて命令を送っていたのか……」

 「だろうな。 一応警戒はしていたけど、劣勢な情況だっていうのにあのヘルトって蜥蜴、攻撃系のスキルを一切発動してこないあたり、カノープスと同じでまだ固有スキルが一つしかないみたいだしな。 攻撃系スキルがないっていうのは一見不利に思ってたけど、情況次第では有利に働くこともあるんだな」 ましろは凛の血の滲んだ脇腹をちらと覗いて、眉を曇らせた。 「大丈夫か、——腹」

 「ああ、こんなの平気よ。 まだヒリヒリするけど治りかけてる。 血だってもう止まってるらしいし」 凛は苦笑いを浮かべた。 「あんたの方は? その肩、あの狼にやられたんでしょう?」

「こんなのお前に比べたら軽傷だよ軽傷……、あ、ちょっと待って——」

 地上では森の狂狼フォレストウルフの挟撃に足を噛まれた麻衣子が、それをダガーで振り払うと、一瞬の隙をついて勢いよく跳躍する。 馬鹿丁寧に瑠璃子の助けなど待たなくても、こうして自分一人でどうにかなることを麻衣子は思い出す。 常に彼女はそうしてきた。 異世界にいようが、自身に常識はずれな身体能力が備わったとしてもそれは変わらなかったのだ。 だから足手まといになりそうな妹の瑠璃子を後方へ待機させ、一人で万事納めようと事を運んだのだ。 先ほどのヒステリーが嘘かのように冷静さを取り戻すとダガーを握る冷たい手先が徐々に温かくなる感覚を抱きはじめ、脳内は次の展開を想像しだした刹那、また耳許で妙な音を捉え既視感が遅蒔きに襲いかかった。 振り向きかけた視界の隅では、しゅるしゅる回転しながら虚空を描く固い物体がすでに目と鼻の先にまで迫り、回避も防御といった隙を与えずに側頭部を直撃した。 鈍い音のした物体が目の前に飛び込むと同時に、視界が光を直視したように真っ白に包まれるとすぐさま瞼の裏に暗幕が浮かび、麻衣子の意識はふっとロウソクの火のように消え去った。

 彼女の目に映ったものは、ましろが凛との会話を途中遮ってから遠投した——棍棒であった。

 麻衣子は一度ならず、二度までもましろの死角からの攻撃に受けて再び地面に向って落下した。 しかし、二つの問題によって先ほどとは状況が異なり、その二つの問題が麻衣子の生死を分けた。

 まず一つは麻衣子が意識を失ったことである。

 これは、ましろと出会った際の凛の状況とよく似ている。

 どちらも頭部を固い物で殴打され、

 どちらもその直後意識を失い、

 どちらも落下している。

 しかし、わずかな違いであるが、大きな違いがある。

 片や凛は流れの激しい川。 片や麻衣子は下草の生えた地面。

 しかし、問題は落下地点の違いではない。

 肉体機能を向上された〈異邦人ストレンジャー〉にとって、五メートルの落下で死ぬことはない。 打ち所が悪ければ骨が折れるかもしれないが、それでも、常人と比べて細胞活性速度が尋常でないため、十分あれば折れた骨は結合され、さらに十分あれば通常どおりに完治する。

 そしてもう一つの問題は、落下地点に、である。

 当時、凛が落ちた場所には同時に転落したましろとピャンを除いて、水中に生息している害のない魚しかいなかった。 

 しかし、麻衣子が落ちた先はどうだろうか。 醜悪な小人ゴブリン森の狂狼フォレストウルフ。 一方は未だ麻衣子たちの味方という立ち位置でいるが、もう一方の獣——森の狂狼フォレストウルフはどうだろう。 全モンスターからすれば下位に属す彼らだが、驚異的な力を持つ〈異邦人ストレンジャー〉の彼女を——、気絶した彼女を恐れるほど彼らの性格穏やかでない。 そしてなぜここまで必死にましろを追いかけていたか……。 それは彼らの食料不足が起因していた。 森の狂狼フォレストウルフは繁殖期を除いて、基本的に長い間生活拠点を一箇所に留めたりはせず移動しながら狩りをするが、ここ最近、白玉の森の中で不穏な空気が流れ、そのせいもあってか、いままで形を潜めていた別種のモンスターがところどころに出現し、弱いモンスターは穴蔵に身を潜めて息を殺してやり過ごしていた。 もちろん森の狂狼フォレストウルフもそれに該当していたが、一週間木の実と水しか摂っていない彼らは飢えに飢えていた。 最早限界に来していた時に飛び込んだ人間の獲物を見た彼らの心境は推し測るまでもなかった。 今、森の狂狼フォレストウルフの目の前には性別は違えど、同じ獲物であるには変わりない人間が横たわっている。 常に野生的で、自然界に則って弱肉強食の淘汰される過酷な環境下の中で育った彼らに、飢餓状態の彼らに迷いはなかった。

 それは自然界における淘汰である。

 「ああ、麻衣子。 だから言ったのに……」 赤い蜥蜴のヘルトは溜め息のようなものを吐き出しながらも、身動ぎ一つ動かさず、冷静に観察している。

 「お前は助けないのか」 ましろは大声でヘルトに問う。 「自分の相棒が喰われんだぞ? 結構グロいと思うから正直なんとかしてほしいんですけど」

 「それがどうした」 ヘルトは視線だけをましろに移す。 「それと、相棒とはなんだ? 私たち〈異界獣ペット〉とお前たち〈異邦人ストレンジャー〉は共存関係にあるものの、相棒でもなんでもない。 ——ただ使い、ただ使われる。 たったそれだけのシンプルな存在だ」

 「凛、どうする?」

 ましろは凛に向って訊ねた。

 凛は痛みの引いた脇腹を押さえながら、じっと考えこんでいる。 視線は麻衣子を直視しているがそれは誰の目から見てもわかるほど迷想していることが如実に窺い知れた。

 地上に落ちた麻衣子は依然気絶していたままだが、攻撃対象である凛、カノープス、そしてピャンを見失った黄土色と灰色の醜悪な小人ゴブリンが判然としないデタラメな行動を各々起こす一方で、既に片足を鋭い牙で咥えて引きずる森の狂狼フォレストウルフの仲間が片腕を咥えて麻衣子をピンと張りだし、仲間同士の獲物の奪い合いが起こった時点で、そこから先なにが起こるかなど誰の目にも明らかだった。

 「ましろ、あの人を、あの人も——」

 「あいつも同盟にするつもりか?」

 「そ、それは……」 ましろの先を読んだ考えに凛は二の句を継げなかった。 目の前にいる麻衣子は互いの命をかけて最後の一人になるまで戦い合う敵の一人であった。 強いものが生き、弱いものが淘汰される。 自然界の摂理を今まさに凛は体現しようとしている。 生きるために、生き残るために、他者の命を狩る。 鳥や魚ではなく、生身の人間。 元いた世界で当たり前のように街のそこかしこに存在し、言葉を交わして、時に笑い合う同じ人間の命を自らの手で奪う抵抗というのはカノープスと初めて会って意を決したときに消し飛んだはずだった。 ましろと遭遇したときもやっぱり油断はあったが迷いはなかった。 それなのに、気絶したままモンスターに襲われている麻衣子を見ていると、消し飛んだと思っていたものがずっと自分のすぐ傍にいてずっとこちらを見ていることに気付いた。 消えるはずはなかった。 消してしまえば自分という存在が欠けてしまうこと、もう後戻りができないことを凛はずっと前から気付いていたのだった。 気付いていて、知らないふりをしていたのだった。 同盟といいのはただの逃げ口に違いない。 生殺与奪の先延ばしをしているに過ぎない。 凛は眉を救いを求めるように頭一つ分高いましろを見上げる。 しかし、その曇りなき眼が凛を直視していた。

 「お前を殺そうとした」

 「それは、あたしたちだって同じでしょう」 凛はましろの目を真剣な眼差しでまじまじと見つめた。 「同じなんだよ。 同じなんだよ?」

 「そうだな。 でも、あいつはだめだ。 今助けたらあいつは命の恩人のお前に感謝するかもしれない。 でももう一人の仲間に会ったら、その瞬間態度を変えるかもしれない」

 「なら——」

 「その仲間まで同盟に加えたところで、また同じように徒党を組んで裏切るかもしれない。 これが一番恐い。 今回はビギナーズラックでどうにかなったからいいけど、次はどうだ。 どちらかが死ぬ。 俺たちか、あいつらか……。 凛、お前カノープスに初めて会ったとき誓ったんだろう? 戦うって。 じゃなきゃお前が死ぬんだ。 ……決めろ。 いますぐに」

 「あたしは……、あたしは……」 凛はカノープスとの出会いを思い出しながらもう一度麻衣子を見た。 彼女の拍動は激しく脈打ち、咽喉が絡んで飲み込めなかった。

 生き抜くために。

 できれば戦いたくはない。

 できれば争いたくはない。

 誰だってそう思うはず。

 でも、戦わなければ生き残れない。

 戦わなければ、殺される。

 殺されないために、身を守るために。

 そのためにも……。

「……ましろ、それを、その斧を貸して」

 凛の意を決した科白を聞き届けたましろは黙ってベルトから斧を抜き出し、乾いた血のついた手にそれを渡した。 凛はそれを握って、数度投擲するイメージモーションを行ってから、眦を決して麻衣子の額めがけて勢いよく投げ込んだ——。

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