第十五話 百体
醜悪の一群。
醜悪の衆。
醜悪の塊。
あんみつ村へ向う一群の一体、先頭を歩く汚れた襤褸切れを着た黄土色の
黄土色はその足を止め、すぐ後にいる黄土色に指を差した。 黄土色はしばし時計回り、半時計回りに首を傾げその思考の悪さに同じ色ながら苛立ちを覚えた。
その光景に遅蒔きに気付いた赤色は黄土色と目前に見えるカノープスという順番で視線を移してから、獲物を見つけた下卑た笑みと腐臭の吐息を吐き出し、先頭の黄土色たちよりも前に進み出てひとり独走してカノープスに近づいていった。 もちろん、鹿肉は上位種の灰色に大部分を奪われる。
しかし、全てではなかった。 当然お恵みを頂戴できるだけでなく、さらに献上することにより、同種の中でも優遇された位置に立つかもしれないという狡猾ささえ覗かせていた。
そしていつまでもその位置に甘んじているつもりも赤色の中になかった。 行く行くは赤色の中での頂点に立ち、黄土色をこき使えるようになったら、活動範囲を広げようと画策していた。 森は広大であったが、そのどこかで同じ種族の仲間が活動しているかもしれないと思った。 そいつらと組んでさらに活動範囲を広げる。 灰色は確かに強いが数は赤や緑、黄土色に比べて極端に少ない。 数で押し切ればこの種族間での情況を逆転できるかもしれないと赤色は思うと目は気色の悪い嬉々とした目付きになり、肌が異様に昂揚しだすのを憶えた。
笑み曲ぐ赤色は眼の前にいる白い鹿へ向って奇声を発しながら、手に持った棍棒を握りしめ
そのためにはまず目先の獲物である。 自分のために犠牲になるのだから餌だって喜んで犠牲になるだろうと赤色の狂った思考が頂点に高まっていた。
カノープス——。
本来鹿の指骨(ヒトでいう爪先から踵)はヒトの
つまり、爪先立った足を地面に接地し脚を折り畳み、姿勢を丸めるように小さく、頭を沈めるように低く屈んだ状態で、爆ぜるように前方に弾き飛んだらどうなるか……。
それを身を以て知った赤色が視覚外の速度で迫るカノープスを捉えられたのはほんの刹那の出来事だった。 巨大な岩石のように目と鼻の先に接近したカノープスに驚き入る赤色。 自分が思い描いていた不完全な構想が音を立てる暇もなく瞬く間に崩れ去ると同時に身体を貫通する焼け焦げる激痛によって、赤色は悲鳴を上げる間も与えられずに枝分かれした鋭利な角の中で無惨にも絶命を遂げた。
カノープスは角に突き刺さりマリオネットのようにだらりと
「さあ。 次は誰がいい?」 カノープスは優然とした声で目前の見窄らしい格好をした一群を見下ろした。 「できれば小綺麗なやつが望ましいのだが……、いや失礼。 お前たちに言ったところで無意味だったかな?」
先頭に立つ黄土色は身体を震わせ、顔を歪ませ激昂した。 それは本能的な嘲笑と受け取った黄土色の爆発した感情の表れを意味していた。 吠えるような間延びした絶叫は、瞬く間に後ろにいた同種の黄土色たちにも伝播し、己を鼓舞する怒号と侮辱された怒りの裂帛を重ねた気迫の籠められた雄叫びが森厳とした白玉の森の一画を震撼させた。
カノープスは示威を見せるために先ほど黄土色一体を駿足の刺突で瞬殺に追いやったが、それは一対一との相手が油断したことと、彼我の差が歴然としていた勝負だったからだ。 今、カノープスの眼の前に迫っているのは、紛れもない
故に——。
己を鼓舞する雄叫びによって自身に満ち溢れた黄土色は我先に鹿を屠り強さを証明しようと、その肉を灰色に奪われる前に肉の一片、肉の一房でも多く喰らいついてやろうと小さな足を全速力で振り上げてカノープスに向っていった。 黄土色はそのほとんどが無手であった。 しかし、棍棒などなくても複数で襲えば殺せるという思い上がった自信を彼らに抱かせた。 「数」 というのはそれほど意識を陶酔させて判断を誤らせる麻酔的効用を持っていた。
四十——。
三十——。
二十——。
十——。
徐々に、そして確実に迫る獲物の肉の張り工合を見るにつけ、圧迫による窒息と十数体同時攻撃による殴殺のイメージが早くも脳裏に浮かび上がり、思わず口の端がだらりと垂れる黄土色。 そしてそれを下卑た顔で傍観する一群から数メートルだけ離れた位置にいた伝達のための数体の赤色の両色の
カノープスは
「——いっけぇぇえええ!!! カノープスーーーッ!!」
後方から聞こえる張りのある女性の大声を浴びた瞬間、黄土色たちが眼前まで迫ったカノープスの瞳が炎のように煌めき、勢いよく膝を折って、弾かれた——。
「——【
相手が数による暴力であるのなら、カノープスはそれを巻き込むほどの暴力の風、——暴風の一陣であった。
絶叫というよりは、絶笑と聞き違うほどの阿鼻叫喚の悲鳴。 骨という骨が砕け折れ、そして爆ぜ散る爽快な音が辺りに響き渡った。 不可視の風の刃による肉を抉るような裂傷から吹き上げる濃厚な血飛沫、肢体を捩じ切られた黄土色たちの肉片によって、肉眼では視認できなかった透明の暴風の渦は、白地のぬりえを一面赤々と塗り付けるように、螺旋を描いて染め上げていった。
後方で数体の黄土色が掲げる厚い板の上で胡座をかいていた灰色はその未知の光景に唖然と口を開いていた。
そして、一拍置いて、深遠な森にざあざあと激しい雨が降り出した。 潤んだ新緑を濡らすそれは自然の雨でなく、カノープスが
——黄土色の
辺り一面赤い池と肉片が転がる凄惨な光景を目の当たりにした残存する黄土色たちと楽観視していた残りの赤い色と淡い緑色、そして灰色たちの肌は血の雨によって赤く濡れ、纏った襤褸切れは赤黒く液体を染み込ませていった。
カノープスの扇状の視界に映るバラバラに散らばった手足は、わずかな
驚嘆と凄惨と恐慌が混沌する森に、重ねるように突如
恐怖に怯える一群から離れていた赤色
なんと、後方にいた灰色二体がいつの間にか身体から血を吹き出して、一体は胴体から上が消失し、もう一体は苦悶の表情を浮かべていた。 その周囲には明らかに異なる存在がいた。
黒い小動物と、小さなヒトの子であった。
奇襲を受けてなお生き残った灰色は片方の手を腕ごと切断されていた。 黒い小動物の攻撃を浴びた灰色の欠損はひどく、胴体から上が消し飛んだというのに二本足で立ち尽くしていた。
「なるほど」 黒い小動物——ピャンは凛に襲撃を受けた自分の数倍大きなモンスター相手に冷静に観察をした。 「儂の胴無しと違うて、こっちのやつは小娘の奇襲を寸でのところで察知し、武器を盾にしたのか。 盾代わりに切り捨てたところまでは良いが、小娘の武器の切れ味の方がこやつの武器の強度より一枚上手じゃったのか」
「解説してる場合じゃないでしょっ!」 漆黒の大鎌を構えた小さなヒトの子——凛は視線を灰色に固定したままピャンを叱った。 「こっからよ!」
彼女たちの狙いは前方での囮が注意を逸らしている隙に、一番危険視している灰色を後方から攻めるという方法だった。 ピャンと凛は互いに左右の木の上に隠れ、タイミングを図ってピャンの【弾丸】と凛の大鎌の上段からの斬撃で襲いかかったに過ぎない。
さて、これから命がけでこの一群を削りに削ろうと凛が大鎌を再び上段に構え出したまさに瞬間であった。
「——なかなかやるじゃない、貴女たち」
凛たちはいるはずのない人語の声にびくんと顔を動かし、その方向へ目を彷徨わす。
村人がこんなところへ来るとは思えない……、まさか、
「上よ。 う・え」
その声に釣られるように上へ彷徨わせると、木の上に尻をついて足をぶらぶらしている濃紺な茶色の長い髪をした女がいた。
そして、真っ赤な鱗に覆われた小さな小さな蜥蜴が彼女の隣で感情を読み取れない爬虫類特有の眼差しで見下していた。 しかし、地上にいる黒い猫を見た途端、その能面のような顔に喫驚が走った。
「——どういうことだ……」
「どうしたの、ヘルト。 おまえがそんな顔をするなんて珍しい」
「それは皮肉か? いや……。 なんでもない。 ただのバグだ」 赤い鱗の蜥蜴のヘルトはその小さな頭に浮かんだ疑問を切り離し、抑揚のない声で返す。 誰もいない遠くの方を向いた。 「それよりも、麻衣子……。 むざむざと人前に、〈
「まあそうなんだけどねえ、ヘルト」 麻衣子と名乗る少女は人語を喋る赤い蜥蜴——ヘルトに気怠げな声音を発しながら白い歯を向けて冷笑した。 「やっぱり人が驚いて絶望する表情っていうのはさ、芸術と同じで間近で有れば有るほど興奮を禁じ得ないものなのよ。 見てよ、あの唖然とした顔。 あれよあれ。 見てて心がスカッとするー」
「お前たちは……もしや……」
カノープスの声に麻衣子はふふん、と口を歪めてゆっくり首肯する。
「ご名答。 私たちはあなたたちと同じ〈
麻衣子は凛と年が近いようだが、麻衣子は大人びた容姿で背も高い。 細い顔立ちに毛先のカールした茶髪と睫毛の長さが妖婉さをより引き立て、短いスカートから露出した太股が艶かしい。
彼女は不敵な笑みを浮かべてから指先をパチンと弾いた。
すると、その軽快な音と同時に凛、ピャン、カノープスが囲った
「——そ、そんな。 嘘……」 凛はその光景を目にすると、喫驚と同時に粟肌が立ち、自然と一歩二歩と後退を余儀なくさせられた。 「な、なんで……、なんでよっ!」
彼女たちの眼の前にいた
「赤と……」 血の気が引いた凛は大鎌を前方に構えて苦しい牽制をし、辺りを窺いながら誰彼に問うた。 「——赤と緑の
「あはははっ、残念でしたっ。 始めっからいないわよ、そんなの」 頭上に立つ麻衣子は高笑いをしながら足を組み、地面に立ち尽くす凛の問いに素直に答えて上げた。 「いいえ、誤解しないでちょうだい。 赤色と緑色の
麻衣子の大きな嘲笑が再び森中に谺する。
勝利の兆しがわずかに覗けた凛たちに与えた圧倒的絶望の音色が足許から聞こえてきた。
始めからなにもかも予想していた展開にも関わらず、それでも興奮から湧き上げる愉悦、昂揚の感情が抑えきれず、陶酔した表情の麻衣子は自らを強く抱きしめた。 抑制の利かない興奮は脳をほんの一瞬麻痺させ、指先の爪が服を刺して自分の二の腕に食い込み、そこから血の雫が溢れるまで自分に酔っていた。 血はゆっくりと滴り落ち、ヘルトの頭上を濡らした。 彼は緩慢な動作で顔を上げ、塞ぎきった腕の辺りを見つめまた緩慢な動作で凛たちを無感情な眼差しで見つめた。
「麻衣子、またやっている。 これで二度目だ。 どうやらそれは気味の悪い癖のようだね?」
「だってしょうがないんだもの」 麻衣子は抱擁を解くと、片方の手を自分で舐め、もう片方をヘルトの前に差し出すと蜥蜴は逡巡もそこそこにちろちろ長い舌を出したり戻したりして舐め始めた。 「痛みがあるから人は生きているのよ。 生に対する一番の奉公は痛みを受け、そして……与えること。 そうでしょう、ヘルト?」
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