章間

 

 そこは決して地図に記されることのない地であった。


辿り着くことは能わず。 肉眼では目視できず、誰もがその地を自然と逸れるように無意識に足取りを進めてしまう魔術的措置が周囲一帯に張り巡らされていた。 存在にも伝承にも噂にも冗談や法螺話にさえも挙がることのない、前人未到の地。


 神聖な土地、決して踏み入れてはならない領域。


——そこは聖域であった。


 聖域内には静寂しじまの湖に浮かぶ古城だけがひっそりと存在していた。 月夜に照り返す水面みなもの古城は美しく、そして幻影的であった。


 つまり、その古城が聖域と換言してもふさわしい。


 常識的に考えて、城があるのだから、当然建設に携わった数千もの関係者がその存在を認知しているはずだった。 にも関わらず、それを知る者がいないというのが、謎であった。 この神秘的問いに正当な、正答な、精透な言葉を告げるものはいない。 やはりそれは、前人未踏の地であるという証明に他ならない。


 ——故にそこは聖域とされていた。


 そう。 前人未踏の言葉に嘘偽りなく、そこには人は存在しない。


 しかし、それ以外の存在が、主のない孤独な城を統治しているのは紛れもない事実であった。


 それは、……は、である。


 より正確さを期するならば金属の中でも、より高度で、より硬度な物質、オリハルコンを超えた物質、アダマンタイトに勝ると謳われる伝説上の物質、◯◯色金ヒヒイロカネによって存在を保っている未知の物体。


 そう。 それらを知るものは、それらを除いて他になかった。


 そして、それらでさえ、古城がどこにあるのか、城の周りになにがあるのかなど、詳細を知る物はおらず、知る意味を見出す必要性を微塵も感じなかった。


 古城にある五つの金属体のうち、天にも届く高さの列柱郭ペリスタイルの中庭に、一つの人形の◯◯色金ヒヒイロカネがいた。


 そして、前人未到とされていた神聖な場所に初めて足を踏み込んだ者がいた。 それはヒトではなかった。 ヒトでないなにかであった。


 金属から感情というものを見て取るのは不可能である。 しかし、その金属は言語を発した。 弥磨土やまと言葉という日本語の原形とされる歴史に埋没した言語のうちの一種だ。 故に統一言語である【翻訳】の能力をもつ〈異界獣ペット〉を除いて、それらの会話を聞き分ける術をもつのは同じく弥磨土言葉を話すものに限られた。


 九十二本もの柱廊が等間隔に並んでいる規模、さらに柱の高さ以上の面積が必要という建築的見方から、その中庭が広大であるのは想像に難くない。 もちろん、古城の土地面積が全てその中庭だけで埋め尽くされているわけでもない。 あくまで中庭はその全体の一部に過ぎないのだ。 だのにその広大な土地を過去一度も見知りする者が一人もいないのは、やはり不得要領に至るところだった。


 「——すべてが目覚めた」


 前人未到の地を踏んだヒトならざる者の声が響いた。


 刀身のような痩躯、磁器のような白い肌。 目許と鼻を覆い隠す黒い仮面の上に三十センチ程度の黒くて長いまげを結いている。 上半身の肌は胸許と目許以外すべて露出され、双丘の胸許に黒い鎧を装着し、脹らみのあるパンツを履いている。 余分なものを極限にまで削ぎ落とし、自分の腰に重佩かさねばきした二本の刀を存分に扱うに足る筋力、淀みない動きを連続して運ぶための脚力、ぶれのない一心一刀を極めるただそれだけのために鍛えた体幹、必要最低限で必要最大限発揮できる完全な肉体を磨き上げた女形めがたの異形が柱に背を預け、腕を組みながら静かに囁いた。


 そこに喧噪はなく、静寂だけが滞留する。 故に、わずかな物音さえ夜風に乗って耳に届く。


 女形の異形の琴のような低音に響く声は、中庭の池の前に立つ、背の高い◯◯色金ヒヒイロカネに届いているのにも関わらず、は夜空に浮かぶ、と比べ明らかに見劣りしながらも爛々と輝く星の一団を見上げていた。


 それは妖艶な至極色しごくいろをした男形おがた◯◯色金ヒヒイロカネ


 二メートル近い巨躯で切子細工のように平面箇所の少ない、微細な立体動作、可動域の確保された関節を前提とされた高尚かつ細巧なフォームをし、その外見は鎧に覆われていた。 その全身を覆う鎧の構成も背に帯びた特大剣も全て◯◯色金ヒヒイロカネで作られ、剣を除く全てが身体の一部に含まれている。 逸り上がった胸筋、逞しく盛り上がった両腕、柱のように頑強な厚さの両足。


 湖に浮かぶ古城において最も地位と武力を誇る◯◯色金ヒヒイロカネの中の◯◯色金ヒヒイロカネであった。


 その男形は目線を移し天空から眼前の池に浮かぶ47の白い藕花ぐうげをヘルムの隙間から見つめていた。 月の光を浴びる清らかな蓮の姿は艶美と儚さを湛えていた。


 どれも美しい。


 一片の穢れを知らない。


 無垢のように。


 男形は手に持っていた上質な無地の紙で折られた蓮をからうてなに載せ、硬い人差し指でそっと池の中央へ押しやった。 ゆらゆら揺り籠のように揺蕩う紙の蓮は疎らに点在する蓮に触れ合いながらそろそろ中央まで行き届いた。


 「……今のは見なかったことにする」 女形の異形は天空を見上げながら丁寧な声質で呟いた。 「珍しいな。 お前にもそういった発露があるとは……。 レイン」


 「悠久に月と太陽を眺めていると、私たちとて不意に抱くものがある。 たとえそれが偽りだろうと、混ざり物だろうとも、私たちが私たちである所以に一片の陰りもなければ、綻びもない」


 レインの耳を撫でる緩やかで心地良い旋律の声音に、ほんの一刹那、女形の異形の表情は懐かしさのあまりしばし放心する。 随分と、久しい声だったからだ。


 「他の物の準備は?」


 女形の異形はわかりきった質問を流した。


 「この前人未到の地をキミが踏み込んだ瞬間、それは終わりを告げ、そして始まりを告げる」 レインはゆったりとした動作で後ろを振り返り、円形の低い池の階段を下りながらそこに立つ女形の異形と正対した。 「万全でない瞬間ときなど、私たち〈解放者リベレータ〉にはない」


 レインの背後の池を挟んだ向こう側には、月夜の下で至極色を輝かせる四つの◯◯色金ヒヒイロカネたちが音もなく忽然とその姿を現した。


 「ブリューナ」 レインは告げる。

 その至極色の◯◯色金ヒヒイロカネは、最も人間に近い女性の容姿をしていた。 足許を覆い隠すドレスのようなもので身を包み、より細かな切子細工でできている。 髪は薔薇の形でヴェネチアン・マスクをつけている。 両腕に絡まる十重二十重の蔦にも数多くの薔薇が咲いているがもちろん全て◯◯色金ヒヒイロカネである。 


 「ヒュピノス」 レインは告げる。

 その至極色の◯◯色金ヒヒイロカネは、嘴の伸びた鳥顔で胸の膨らみのある女形、背中から紙のような薄さの翼が生え、鞭のような尻尾の先端には棘付きの球体が生えていた。 もちろんこれも全て◯◯色金ヒヒイロカネでできている。 長い腕から伸びる刺突剣のような鋭い十指の爪。 長い足は鷹のようにかぎ爪になっている。 顔は後頭部にかけて伸び、口許には尖った牙が煌めいている。


 「アルバテイン」 レインは告げる。

 その至極色の◯◯色金ヒヒイロカネは、その中で一番小柄であった。 頭部はやけに長かったが、それが偽りの仮面であることをそれらは知っていた。 仮面には目許当たりに二つの穴が空いている。 首から下を一回り大きいローブで覆い隠しているため、それの容姿を知る者はいない。


 「トルレガ」 レインは告げる。

 その至極色の◯◯色金ヒヒイロカネは、五メートルを優に越える巨体で、上半身がアンバランスにオーバーハングしている。 その外見に相応しい怪力を持ち、その巨躯に相応の戦槌せんついを肩に掛け、顔をだらんと垂らしている。 それたちの中でもレインに並ぶ攻撃力を誇る。


 「虚しさと渇望を旗に掲げ、ついにこの身を血に染める時がきた。 己の全てを賭けて一切の蓮を嬲り殺せ、一切の蓮を斬り殺せ、一切の蓮を焼き尽くせ、一切の蓮を叩き殺せ。 鮮血に充ち満ちた蠱毒の壷に揺蕩う瑞光ずいこうの蓮を零させよ。 これは果たすべき盟約。 罪なき罪を屠り尽くせ!!」


 レインの溢れる感情的煽動に四体の◯◯色金ヒヒイロカネは古城を震わすほどの雄叫びを上げた。


 地を鳴らすほどの咆哮を轟かせても、周囲一帯に存在するものはその幽玄な古城の存在に気付くことすら叶わない。


 なぜならそこは、聖域だから——。

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