第七話 遭際


 気を失った者でなければ、あの「不思議」とまとめずにはいられない。

 感覚を抱くともすればより困難なものになるだろう。 なにせ当の本人ですら、気を失う、という感覚はまったくなく、意識がハッキリした時でなければ、感覚というものも取り戻せないのだから。 

 凛がそれをまざまざと痛感したのは、瑠璃色の透明の膜に覆われたとてつもなく広大な空間にいつの間にか横たわっていた後のことだった。

 恐怖はない。

 おかしなことかもしれないが、気を失った者ならば、おそらく全員同じ感情を抱く。 あれ、どうしてここにいるんだっけと、馴染みのある見慣れた場所でも辺りを見渡してしまうほど、まだ脳が混乱しているからだ。

 凛以外にも人はいた。 それも大勢。 ざっと五十人はいた。 年齢は十代から二十代。 もしくは三十代もいるかもしれないが、総じて若い顔付きのものばかりだ。

 みな、彼女のように辺りを見回す者もいれば、数人固まって、きょろきょろ胡乱な視線を彷徨わす者、想像力に乏しい者は瑠璃色の膜に触れ、またある者は座り込んで呆然としていた。

 (ここはいったい……)

 ここに至るまでの記憶が朧げだ。

 (確か電車に乗って、学校へ行こうとしていた……はずだった気が……)

 凛は頭を抱えた。

 彼女は自宅の最寄りから十駅先の学校へ向う際、いつも各駅停車の電車一本を利用していた。 急行の電車に止まらない学校であることと、途中乗り換えるのが面倒だからだ。

 凛はその当時の断片的な記憶を思い出していた。 機械式の車内アナウンスが凛の降りる駅名を告げているのにも関わらず、その電車が停車駅を通り過ぎ、加速を続けた。 車内では凛と同じ学生服を着た生徒や、スーツを着た男性、女性が戸惑いと困惑の表情を浮かべて目線を窓の向こうや、車内電子板に彷徨わせていた。

 その時、カーブの線路で一度車両が大きく横に揺れたのを思い出した。

 凛はその衝撃で手摺を掴もうとした時、電車が鉄を無理に引き裂くような絶叫に似た音をあげながら傾いた。 車内では乗客たちの悲鳴が耳を塞ぎたくなるほど響き渡っていた。 すでにその瞬間から、不審に気付いた乗客たちが慌てふためき、席に座していた一人が立ち上がると、同調するかのかのように次第に多くの者が立ち上がり満員に近かった車内は押し合いへし合いパニックに陥っていた。

 傾いた角度は平行に収まらず、角度を増すばかり、窓際にいた凛は幾重にも重なる人の山の下敷きになり、顔を窓に押しつぶされる。

 逃げるように視線を目処の向こうへ走らせた先に、更なる恐怖が襲った。

 反対方向の線路から間近に迫った電車がやかましい警笛音とブレーキをかけていた。

 しかし、凛の乗った電車は反対側の線路にはみ出るほど傾き、電車は横転——。



                  ●



 遅蒔きの恐怖が足許から身体に渦のように巻き付いてきた。 肌はあわ立ち、その先を思い出したくない気持ちと恐いもの見たさがい交ぜになって頭をふらつかせる。

 連想される集約された仮定が、いくら振り払おうにも、肌に張り付いて離れてくれない。

 (なにがあったの……。 あたしは……、ここはいったいどこなのっ!) 

 膜の外側から救いに似た暖かい光が透過している。 地面は白く、手触りは頬のように柔らかく、けれども不気味なほど冷たかった。

 寒さはない。 暑さも感じない。 風もなく、人の怯えた声だけが時々耳に届いた。

 凛は人から距離を置くようにしていた。 人は嫌いではないが、好き好んで干渉する気はない。 それ故、友だちと呼べるものはそう多くなく、親友ももっと限られるものの、彼女自身寂しさを感じることはなかった。

 肘を手で押さえ込みながら、空に上がる光をただ見つめていると、その光は徐々にゆっくり下降していき、顎をわずかに上げるところでぴたりと止まった。

 光は縮小していき、金を溶かすようにどろどろ垂れていくようで、次第に輪郭を留めていき、不可視の鋳型いがたがあるかのように立体的に隆起し、見る見るうちに目を疑う恐ろしいものに形成されていった。

 その光景を目撃した何人かが既に悲鳴をあげている。

 凛も叫びたがったが、恐怖から口を開くと、その隙間からなにかが入り込んでくる想像が脳裏をよぎり、一度考えるとそれが離れなくなってしまい、固く横一文字に結んでいた。

 悲鳴に包まれたそれは徐々に形を整え、溶けた光は紛うことなき人の形となった。

 手足は植物の根のように先から先へうねりだし、瞼はきちんと彫り込まれ、仏のような半眼を形作った。 耳と鼻はなく、唇は薄く閉ざされている。 髪は生えていなかったが、人形ひとがたの、所々から薄い靄のような肉眼で捉えられる粒子が瑠璃色の外側を這うように放出し、長く軽やかな髪に見えなくもなかった。


 ——おおぉ。 導かれし哀れな煉獄の捨て子たちよ。——

 耳朶ではなく頭の中から響いてくるようだった。 中性的な声質と共に重厚な金属製のなにかが轟いている。 抑揚のない、けれど流暢な日本語が脳内を浸透させていった。

 凛だけでない。 どうやらここにいるものすべてに同様の現象が発生しているらしい。 周りを見ると、頭や耳を押さえ込んで、光の人形を戦慄した眼差しで見上げている。

 一方で、光の人形から逃げようと反対方向へ走る者。 駆けようにも足が竦み上がって腰をつく者、涙目で赤子のように手足を使ってよたよたとで逃げていく者もいたが、瑠璃色の膜は見た目以上に強固に張られており、人の力でいくら叩いたところで堅強な膜を揺らすことすら叶わない様子だった。

 これは膜ではなく、檻なのだ。 誰もがそれを目にした瞬間気付いたのだ。

 だとすれば、眼の前に人の形を模した物体はいったい何者なのか。


 ——おおぉ。 泣き崩れる愛しい蠱毒こどく稚魚ちぎょたちよ。 静まれ——。

 それまで周囲に蔓延していた負の感情は、光が脳へ直接発した直後、一過性の突風の後に訪れる静寂な凪のように突然終わりを告げ、一人、また一人と呆けた無垢な顔で黙って光の人形ひとがたを直視していた。

 光の人形もじっくりと瑠璃色の膜の中の一人ひとりを観察していた。

 

 ——おおぉ。 愛らしい不純で穢れた子たちよ。 その身、これから落ちる楽土の地にてすべてのけがれをすすれ、その身、煉獄の狭間で眠るまで抗え。 これは救いのない試練。 全ての穢れを喰らいし愛し子だけが真の眠りから目を覚ます。 苦しみ、悩み倦ねてこそ生の本質。 子供たちに苦難を。 子供たちに絶望を。 されどこれは地獄の一粟に過ぎない。—— 

 子供に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で、わけのわからない科白を頭に響かせる。

 光の人形が手を伸ばし、指先周りの空間が揺れると空間から四つの道具を落とした。

 左右に湾曲した取っ手付きの美しい鶴が彫られた水瓶。

 白の背景に丸い橙色と数本の線の水色とバネのような灰色、天気の模様が描かれた指の大きさほどのマッチ箱。

 指二本分連ねた大きさの長方形の五つの黄色いブロック。

 そして眼鏡。

 それが、割れもせず、崩れもせず、不変のまま空中を浮遊した。


 ——お前たち修羅の子に許された、唯一の憐憫。 希薄な寄る辺。 死船しせんの駄賃。 新たな世界で喰らい合え。 我が愛しい〈異邦人ストレンジャー〉たちよ。——



                  ●



 気がつくと、凛は草原にうつ伏せに倒れていた。 横から吹いた風が肌に触れ、髪がそよぐ。

 夢でありたいという願望は、眼の前に見える光景によって儚く打ち砕かれた。

 辺りは見渡す限りなにもなく草原が広がっていた。 いくつも丘を越えて下った先に小さな村が見えた。

遥か遠くに高く大きく聳える連峰には仄かに白いものがついていた。

 清々しいまでの風の匂い。 それは現実であることを受け入れるほど心地よいほどだった。

 「——凛」

 後の方から男の整った声が聴こえた。

 先ほどぐるりと周りを見回した時には人っ子一人いなかった。 それなのに、急に声がしたのだから、驚き入って反射で振り返った凛は、その声の主に驚いて小さな悲鳴をあげていた。

 それは通常見るよりも大きな鹿であった。 角は太く先端は磨かれた刃のように鋭利で澄んだ黒い瞳は丸まると可愛いらしい。 引き締まった身体から伸びる四本の足は品やかで美しく、腿の筋肉は鍛え抜かれ、歴戦の戦士のような風格があった。

 「わかるだろう……? 私がなんであるか。 そしてきみがなんであるか。 私たちがなにをするかを」

 「あなたは……」 凛は頭の中に見知らぬ知識が自然と入り込んでいることに気付いた。 「〈異界獣ペット〉……、あたしは〈異邦人ストレンジャー〉……」

 「そうだ」 鹿は小さく、しかし固く力強い意志をもって頷いた。

 「あたしたちは……」 凛はなぜそんなことを自分が口にできるか困惑しながら口が勝手に話を続けていた。 「この異世界にいる〈異邦人ストレンジャー〉全てを倒し、生き残った者だけが現実の世界へ帰還できる……」

 「そうだ。 そして凛、きみたち〈異邦人ストレンジャー〉はこの世界では常人ならざる身体強化が施され、通常よりも早く躯の外傷を再生できる。 戦うだけに。 ただそのためだけに」

 「どうして……」

 凛は自分の顔を押さえ込んでわなわな震えだした。

 

 自分自身の並外れた奔流のような涌き上がる力、全ての〈異界獣ペット〉に与えられている共通スキル、眼の前の鹿にのみ内在する固有スキルと呼ばれるゲームの中でしか聞き及びのない特殊な名を冠した力。

 あらかじめ刷り込まれた……?

 いつ?

 どうやって?

 なぜこんなことを……?

 「——ん。 ——凛」

 不意に届いた鹿の心配そうな声で凛ははっと現に帰った。

 「凛、手を伸ばし、空間を開くんだ」

 鹿はさも当然のように、凛がそれを承知のように告げた。

 そう、凛は鹿がなにを言っているかがきちんと理解できていたのだ。

 凛は言われるがままに右手を宙に伸ばし、そこに別の空間を開くイメージを行うと、それは音もなく、指先に波紋のような揺らぎが起こり、すっと奥へ指がすり抜けていった。

 あっ、と驚きの籠もった小さな声が漏れ、思わず鹿の方を見つめるが、鹿は澄んだままの瞳をただ見つめ返すだけだった。 

 「念じるんだ。 武器が欲しい、と」

 瞼を閉じ、言われたとおりに空間を探る。 感覚的にはただ空を切っているようにしか感じられないが、なにか硬質とした棒状のようなものに指が触れた。 それは冷たく、滑らかな手触りで、恐くはなかった。

 「なにか掴んだ」 凛は目だけを動かして、鹿に先を促した。

 「そのまま引き抜くんだ。 それが君の武器になる」

 凛は丁寧にそれを空間から引き抜き、満天に輝く空に翳した。

 それは漆黒の大きな鎌だった。

 柄は長く、それでいて細い。 先端に伸びる三日月形の湾曲した刃線は日の光を妖しく照り返し、大振りであるのにも関わらず驚くほど軽く、柄を握るとなんの違和感もないほどすぐ手に馴染んだ。 同じ細胞のようななんら違和感を感じさせない、自分の躯に触れているような不思議な実感だった。

 「ここは多種族の混在する異形や人知を越えた魔法が成立された、まさに正真正銘の異世界。 いずれ身を以て知りうることになるだろうが、きみには人並みはずれた力がある。 初めは戸惑うことだろう。 しかし、それはいつか当たり前のようになる。 けれども、そんな人並みはずれた力を手にしたところで、それを上回る力を持った者が多く存在するのがこの世界の妙味であり、残酷な現実なんだ。 故にこの先多くの困難がきみを待ち受けているだろう。 凛よ。 それでもきみは戦うか? そしてこの戦いの目的、命題であるきみと同じ年の子供倒すことが、きみにはできるのか?」

 凛はその手に持った漆黒の鎌を見つめて想像する。 これからこの武器を使って多くの者を倒すこととなる。

 いや、倒す。

 生き抜くために。

 できれば戦いたくはない。

 できれば争いたくはない。

 誰だってそう思うはず。

 でも、戦わなければ生き残れない。

 戦わなければ、殺される。

 殺されないために、身を守るために。

 そのためにも……。

 「やる。 やるよ。 最後の一人になるまで、あたしはこの武器で戦い続ける! だからお願い、力を貸して」

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