第三話 少女


 おそらく、推測の域を出ない常識的感覚からしてやってはいけないことなのだろうと思いつつも、それをひとまず棚上げにしたましろは躊躇ためらいを覚えるのも束の間、凛の短くきれいな髪を、鷲掴みにして崖まで引きった。


 半ば止めてほしい感情が当の本人にも無きにしも非ずであったが、黒猫のピャンも雄々しい白い鹿も、目と口をあんぐり開いたまま視線だけを動かすだけだった。


 逆に止められようものならば、自分の行いが正当的でないと避難するようなものなのであり、そう考えるに至ると、却ってこの状態を物見感覚で見守ってほしいとさえましろは楽観的になり出した。


 少女をうつ伏せにし、今度は学生服の後の襟を掴んだ。 次に上半身までを崖の向こう側へ慎重にずらしてから頭部を何度か軽く叩くと、低い唸り声がわずかに聞こえた。


 ——直後。


 「え、あ、あぎゃぁぁぁあああああああああああああああ!!」


 おそらくどの言語でもないだろう奇声を轟かせる少女はパニックを起こして魚のように必死にバタバタ踠きだした。 眼下に映るのは崖の下で荒れ狂う大きな蟒蛇うわばみのような奔流が彼女の恐怖を一層駆り立てた。

 

 いつの間にか動かなくなっていた魚同様、少女が混乱を呈してから一分立った頃には少女の動きは魚のように静かになっていた。

 

 「あ、落ち着いた?」

 少女は血走った横目で男を睨みつける。

 「落ち着くわけないでしょうあんた! なにしてくれてんのよっ! 恐い、なにこれ、崖恐い、高いとことか超恐い! でもそんなことよりあんたが一番恐いんですけどおおおおお!!」

 

 後半は恥も外聞がいぶんも無い涙目だった。

 

 ましろは凛の慌てた様子を見て不覚にも笑ってしまった。 笑った後、あ、これはヤバい……。 と生まれでた第二の人格をやんわりと抑制させる。


 案の定、凛はその笑みを歪んだなにかと勘違いしてしまったのか再度パニックを起こし、理性のない悲鳴をあげだし、結局元の木阿弥もくあみとなった。


 「どうどう。 落ち着けって、落としはしないから」

 「馬ちゃうわっ! カノープス! そこにいるんでしょう!? 助けてカノープス!」 凛は咽喉から恐怖を帯びた悲鳴を精一杯叫んだ。

 「り、凛。 しかしこの情況は私たちに不利だ。 私に付与ふよされたスキルは、攻撃系のみだ。 不用意に動けばキミの身が危ない」


 (スキル? 攻撃系? ……なんだそれ?)


 凛は鹿カノープスの絶望的な宣告を言い渡されると、伏せた顔は小刻みに震え、零れる声で嗚咽おえつしだした。


 目許から零れる透明の雫が震えによってこぼれ落ち、崖の下の奔流の一部と化した。 下から吹き上げる清風が心地よいものであるが、それを凛も感じているとは到底思えぬ差し迫った緊迫感を帯びていた。


 「なんだか罪悪感が遅蒔おそまきに襲いだしてきたなあ……」

 「なんじゃ、今更か——」


 凛の背中にピャンが飛びついた拍子に、凛はおっかなびっくりしてあられもない声を発しながらびくんと爪先を蹴った。


 「あっ、待てっ——」 


 ほんのわずかな反射であったが、その力は火事場の馬鹿力に等しく背中に乗ったピャン、凛の制服を押さえ込んでいたましろ、さらには力の制御どころではなかった凛の計三人が咽喉から臓物が出てくこんにちはするほどの阿鼻叫喚を上げながら——。


 真っ逆さまに転落した。



                  ●



 真っ逆さまに崖下の奔流へ落下ゴー・トゥ・ヘルした三人。

 背中から水面に激突した瞬間、急激な速度低下による計り知れない衝撃が襲った。 全身をプレスされたような激痛。 圧縮された肺は出口を彷徨う暇すら与えられずにペチャリと破裂した感覚。 さらに落下による興奮と驚愕と恐怖という感情が痛みとい交ぜになりながら電気に打たれたように瞬時に全身を駆け巡らせた。


 ましろは想像すらしなかった瞬殺的激痛から水中であることを忘れ、白目で口をあらんばかりに広げ、手足は飛び跳ねたカエルのように反射で放り出していた。



                  ●



 意識を取り戻した時、水気のあるものを含んだことに気付いたましろは酷いパニックに襲われた。 記憶のないくせして反射的に水を吐き出したせいで肺に水を吸い込み余計もがき苦しみながら懸命に手を漕いでようやく陸に上がった。 運良く浅瀬近くに流れ着いていたようだった。


 水を含んだ前髪を適当に払い除けて視界を広げると、赤茶色の柔らかい砂利と石の混じった水際に上がっていた。


 「おう、ようやっと目が覚めたようじゃのう?」

 水気を吸い込んだ黒い毛を前足で整えるピャンはすでに岸の上から泰然とした態度でましろを見下ろしていた。


 「お、おかげさまで」

 ましろは自分の身体を手で押し当てたり擦ったりしてみて痛みがないか隅々まで調べた。 けれども不思議なことに、どこにも異常は見当たらなかったのだ。 骨も折れてなければ、内側の臓器も違和感が感じられない。 腫れ一つない正常の状態だった。


 (あの高さから生きて帰ってこれたのか……。 痛みはあった、一瞬だけど。 これは普通なのか?)


 眼前に聳える優に三十メートルを超える高さの崖を見上げていると、ふと凛がいないことに気付いた。


 「あれ? あれ? どこいったんだ? おーい生きてるかー」 ましろは声をあげて周囲を見回すが、声は帰ってこなかった。 「やばいなあ……、死んだか? 情報を持っていそうだったのになあ……。 ま、いっか」


 落下した崖の方を注視しても鹿カノープスの姿形さえ見えない。 あの少女と繋がりがあるのなら、真下の様子を窺うはずだが、それがないということは……。


 一、すでに凛を救出している

 二、現在進行形でこちらへ向っている。 多分怒り心頭。


 ましろは立ち上がると、ピャンの元へ歩いた。

 「どのぐらい経った?」

 「五分も経っとらんよ——」

 ピャンの視線はましろからゆっくりとその背後へ移っていった。

 嫌な予感を察知したましろは心底面倒そうな顔を後ろに向けると、濡れそぼったカノープスと凛がそこにいた。 凛は意識がないのか絶命したのか、ピクリとも動かず水滴を垂らすカノープスの背中に乗せ、鞍のようにうつ伏せに横たわっていた。 茶色の髪は水を含んでぐっしょりしていた。


 「大丈夫なのか? ……そいつ」

 「……ああ、おかげさまでね」

 カノープスは本来持つ野性的な鋭い眼光でましろを睨みつけながら皮肉をいう。

 

 「ああー、これはかなりお怒りのようで……」

 「カノープスとやら」

 

 すべてを見下ろす位置に立つピャンが雄々しい鹿に憮然と問いかけた。

 

 「こういうのはどうじゃろう」 ピャンは顎を上げさらにカノープスを見下ろした。 「儂はどうも話下手での。 同じ獣のよしみで一席興じて貰うわけにはいかぬかの? この男に、この蠱毒の説明をしてはくれぬか?」


 カノープスの瞳に警戒の色が混じり始めた。 ピャンの思考を読み取ろうとしているのだろうか。


 ピャンの問いかけは別のなにかの情報を引き出すための嘘と勘繰っているのだろうか。 もしそうだと邪推して拒絶すれば、即時再戦が起こると危ぶんでいるのだろうか。 そんなものはどうだっていいのだ、とっとと説明してほしいとましろは切に願った。 分からないことだらけの状態でなんとなく正当防衛で年端もいかない異性をぶん殴ってしまったじゃないか。


 自分だけ置いてけぼりは困る。

 責任者よ出てこい。

 責任者はどこか。


 躊躇いを混じらせた静寂は思っていたよりも長く続いた。 滔滔とうとうと流れる川の音だけが重い沈黙を紛らわしてくれていた。


 「この情況で……」 と白鹿のカノープス。 「こんな状態にさせておいて今更誼みだと? 貴様、ふざけているのか?」

 「むしろ、この状況下であるから、お主は儂らに好意を抱かせさせるべきだと助言するがの?」


 黒猫の含みのある科白にカノープスは眉間の皺をより一層波立たせたのもほんの一瞬の出来事で、背中に乗せた凛をそっと覗き込んだ。


 「……なにを話せばいい」

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