第二話 黒猫


 人ひとり通れるほどの緩やかな傾斜地の先を進んでいると、背丈ほどある生い茂った草が行く手を塞いでいた。

 眩しい日差しを浴びた草いきれに男は鼻を曲げながら手で掻きすり抜けると、青々とした裾野が眼の前に広がってきた。

 見渡す限り人工物のない天然の土地、周囲を囲む山々は青々とし太陽の日差しで輝いて見える。


 点在する灌木を避けながら考えなしに進んでいると、倒れた大木の幹の上で太陽を照り返す黒い艶をした猫が背中を向けながら尻尾を小気味よくくねらしている光景が目に入った。

 肩甲骨のあたりが動くたびに隆起し、毛先が日差しを艶かしく輝き神々しかった。


 黒猫は一心になにかに喰らいついていたがましろの気配を感じたのか、首だけ捻っては小さな瞳で値踏みするようにしばし見つめていた。 その無遠慮な視線にましろは足を止める。


 「やっと……、起きたか」 鳥の羽が零れ落ちた口許を蠱惑的なピンクの舌で舐め回し、最後に前足で口許を拭った黒猫が嘆息混じりに呟いた。


 「うわっ……、猫が喋った」 しかも黒猫、と呟いてから人語を話す黒猫に思わず尋ねなければならないことがあった。 「お前、俺を知っているんだな?」


 「開口一番第一声がそれか」 黒猫は首を鳴らすように捻ると、大木から優雅に飛び降りてゆっくり近づいてきた。 「ありきたりすぎて語るのさえ阿呆らしく感じてきたわ。 お主のことじゃと? そんなの知るものか」


 「でもっ——」

 「でももくそもあるか」 黒猫は気怠げに話を続ける。 「儂はピャン。 お主とともにこの馬鹿げた蠱毒の争いを勝ち抜くためだけに存在する。 お主の名はなんという?」


 猫と話せるなんて思いもしなかったので驚きの方が上回っているけれど、どうやら話せたところで現状恢復は期待できそうになかった。


 「ましろだ。 四月一日わたぬきましろ」 男はしばし考えていると別の疑問が浮かんだ。 「誰かから俺が来ると聞いたのか?」


 「ほう」 黒猫は小さな瞳孔を鋭くして口許を三日月のように歪めた。 「こりゃすごい……。 ワタヌキ……そうか、そうきたか……。 いや、しかし残念ながらそれは違う。 まあ質問自体は好きだったがの。 話してやりたいのは山々なんじゃがの、いやはや残念なことに儂はどうやら記憶の一部に欠陥が生じているらしく、欠けた情報を無闇矢鱈に話したところで事態が悪い方向へ転じる可能性もあり得ぬことではない。 しかしそれでも断言できることがある。 今言えることは——、強くなれ」


 「……強く……?」


 「万事それに尽きる」 黒猫のピャンは続ける。 「そしてお主と年の同じ子供を屠るのだ」


 「——待て、今なんて言った」


 ピャンの驚嘆の言葉に思考が止まったましろ。 その動揺の走った表情は予め決められていた筋書きの一つに過ぎないかのように男の眼下に佇む黒猫は続ける。


 「でなければ、そやつらにお主は屠られる。 これ以外にお主の生き抜く術はない」


 黒猫はさも当然と、さも平然と、泰然自若と、ごく自然な言葉で、現実離れした言葉で目の前に立つ断片的な記憶しかない男に生存方法を説いた。


 「のう? 簡単じゃろう」



                  ●



 魚の入った壜を足許に降ろし、二人は大木に座した。

 「……よく、わからないな」 ましろがやっとのこと絞り出すようにこぼす科白せりふはたったそれだけだった。 「いくつか訊きたい。 お前、日本というのを知っているか?  それと、俺は日本人……、だよな」


 黒猫は一瞥しただけで正面の一回り小さい山頂あたりを見つめていた。


 「後者はおそらくそうだろう。 儂はお前たち日本人を、というのを知っている。 お主もまた日本人じゃな。 前者に関しては、言うまでもない」

 「そうか。 なら、ここは日本か?」

 「生憎、儂は日本人をおそらく知っているが、けれども日本を知らない。 この世界以外の次元の違う世界を知らない」

 「この世界に俺と同じ日本人がいるということか?」

 「……そうじゃ。 先ほども言ったが、お主と年の同じ子供を屠れと。 あれはそういう意味じゃ」


 「お前は人語を話す猫なのに、この壜の中の魚は一向に人語を話さない。  それは動物に見覚えがあり、その動物が決して俺たちと会話をしないということを知っていた前提があったから、鳥や魚を見てもなんの驚異を覚えなかった」


 ピャンはましろの瞳を細い目つきでみた。

 続けろ、とその細く鋭い双眸が促していた。


 「それが俺にとっての、推測の域を出ない常識だからだ。 ——いや、からだ。 それなのにお前が猫であるというのをはっきりと認識していたのにも拘わらず、お前が人語を話した瞬間に俺は驚いた。 これはお前が常識外だから驚いたか、それともこれがそもそも常識の範囲内であって、これを意外と思う俺自体が常識外なのか……」


 「——ふっ」 ピャンは不敵に微笑の顔を浮かべた。 「ましろといったか。 話の途中であるが、そろそろ中断した方がお主のためじゃぞ?」

 「なにを言って——」

 

「——なんかあんたつまらないことを長々言っているけど……なーに言ってんだか。 わたしたちはゲームみたいな、おとぎ話じみた馬鹿馬鹿しい別世界……《・》にきたのよ?」


 ましろは弾かれたようにその声の方向に視線を投げた。


 やや高い位置から二人を見下ろしているのは、両サイドの髪の一房を後ろで束ねた茶色のショートヘアに、私立のような学生服を着た丸い瞳の少女だった。


 背はまだまだ成長期なのか小さく、良くて中学生、悪くて小学生に見えなくもなかった。 けれどその幼さ残る彼女の両手に握りしめているのは見た目とは裏腹のアンバランスな真っ黒い大鎌の切っ先が太陽の光を照り返して輝きを放っていた。


 二人の前に現れたのは少女だけではなかった。


 その隣に並ぶのは、少女を軽々背負い込むほどの逞しい白い鹿であった。


 頭部から抜きん出る枝分かれした二本の角はまさに雄々しさの具現化であり凶暴さを纏っているようだったが、それとは逆に珊瑚のように見惚れるほどの美しさと高尚さを内実しているようにも見えた。


 「凛。 間違いない。 人語を語る私と同じ劣等種。 そしてそれを使役する日本人。 確定だ。 〈異邦人ストレンジャー〉と〈異界獣ペット〉以外に他ならない。 ……どうする?」


 「そんなのもちろん——っ」

 凛は傾斜した地面を勢いよく下ると同時に持ち手を柄頭に移し替え、驚くべき早さで一気に飛び込んでましろとの間合いを詰めると、大鎌の最大範囲を以て右上段へ構えだした。 「倒すに決まってんでしょっ!」


 「早い」

 ピャンの驚きの声が耳朶を通過する最中、袈裟懸けのように斜めに振り下ろされた鎌に対し、男は地面を勢い蹴って後退した。 揺らめく上段からの鎌の風圧に男の髪の数本が、突然の別れを告げた。


 「なな、なんだ急にっ! おいお前、あぶねえだろが!」

 

 少女と肉薄した黒猫はやにわに大きな跳躍で後ろへ飛んで警戒を強めた。


 「ましろ! こやつが儂が言った敵じゃ」

 「敵、だと……?」 真白は目の前にいる女を呆然とした表情で見つめる。 「子供じゃないか、俺とそんなに変わらない、ただの子供じゃねえか」


 「なにを言っている」 白い鹿は胡乱な声で問い詰めた。 「猫の〈異界獣ペット〉。 どうやらお前の主はまだ当惑しているようだな」


 「〈異邦人ストレンジャー〉……、わたしと、そこのお前、お前のことだよ。 頭でも打ったのかお前、忘れたのかお前? このくだらない、馬鹿げた闘争を」


 漆黒の鎌を携える女——凛は再び傾斜地に後退して地の利をとった。

 黒猫とましろを交互に見合う訝しんだ表情はにわかに勝利を確信した恍惚の表情へと変貌を遂げた。 「まさか……、いえ、これはツイている。 やったわカノープス、この戦い、勝てる!」

 「凛、加勢しよう」

 「大丈夫よ、こんな小さな猫と右も左も知らない脆弱な男に、あたしが負けるわけない。 ここで覚悟を決めなくちゃ……。 この先きっと立ち向かう事が出来ない」 覚悟を決めている凛は柄を握る手をぎゅっと握り締める。 「可哀想だけど、これも生き残るためよ。 闘争意欲を欠いているうちに、仕留めてあげる!」


 「状況がなんとなくだけど理解できた。 あくまでなんとなくだけど……」 独り言のように呟くましろは、足許にあった壜を拾い上げて叫んだ。 「おい、お前、名前はなんていうんだ」


 「わたしは……凛よ」 彼女はほんの僅かに驚きの表情を浮かべた。 これから殺し合いをするというのに名前を尋ねる理由が分からなかったからだ。 「それがどうしたの? 今から死ぬのに、時間を稼いだって無意味だと思うけど」


 「あほ。 ちげーよ。 なんとなく、目覚め悪いだろ?」

 ましろは凛に向って疾走する。 それはましろ自身驚くほど素早い目にも留まらぬ速度であった。


 「……無手が、リーチの長い大鎌になにができるっていうの!」 凛は大鎌を水平構えに切り替え、自身に突っ込もうとするましろを今か今かと待ち望んでいた。 軸足を最大限発揮できる位置に留め、呼吸を整える。 自ら死ににいくような無謀極まりないましろの胴体が別れる末路を瞬時に予想した凛は、しかしその勝利の光景に躊躇いを覚えた。


 その瞬間、男の手許が太陽の光によって反射光を放ったため、ほんの僅か、視界を閉じざるを得なかった。


 それが一瞬の勝負の分かれ道だった。


 その光るものからなにかが飛び出した刹那、凛の戸惑いの解を脳が弾き出す演算速度よりも早く、彼女の小さな顔に水をぶちまけられ、パニックを起こしていた。


 「ぶほぉえええぇ」


 霰もない十代女子の奇声だった。


 ましろが持っていた壜の中身の水が少女の顔めがけて無遠慮にぶちまけたのだ。


 さらに凛は視界を遮られたことで傾斜地の凸に足許を取られ、構えたままの姿勢で無様に顔から倒れ込み、どんぐりよろしく土煙を上げながらころころ転がっていった。


 ましろはわずかな残り水だけの壜の口に指を入れると、視界の回転した凛に、機械的動作でその土を被った小さな後頭部に、間髪入れず壜を叩き込んだのだ。


硬質的な鈍い音が涼風に乗って辺りに響き渡った。


 水飛沫を浴びる少女の口から勢いよく飛び出した魚は、死に物狂いで地面に打たれた後も跳ね続けていた。

 

 黒猫のピャンと相手側の雄々しい角の白い鹿は瞬く間の出来事にただただ驚き入り、瞠目した目は呆けた口と同じくらい大きくひらいたまま硬直していた。


 遠くで鳥の長閑な鳴き声が響いてきた。

 

 ましろは溜め息をついた。

 (俺はなにをやっているのだろう……)

 死んだ目をした男は呆然とその場に立ち尽くした。

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