第一章 目覚め

第一話 鳥籠


  足の指先から伝わる突き刺す寒さに思わずはっと目が覚め、体の関節が軋む音をあげて乾いた口からかすかな悲鳴を洩らす。

 躯中が寒気を訴え震えが止まらなかった。  もう一度眠りに就こうと閉じかけた瞼は、ふとした違和感によって弾くように開かれた。


  (ここは、どこだ……?)


 天井を覆う暗い岩肌がぼやけた焦点をやがて鮮明に写し込んだ。 鼻腔に触れる湿った空気の感触。


 洞窟の中のようだった。 辺りにひと気はなく、差し迫った危険の気配も物音一つ感じられない。 静かな空間に一人ぽつんと置かれた状況。 遠くの方で勢いよく流れる水の音が聞こえる以外、雑音のないとても穏やかでひっそりとした静かな場所というのが、胸の中に抱いた疑念をほんのひと時かき混ぜた。


 起き上がろうとすると柔らかい感触が手に伝わった。 何か期待するような台詞だが、視点を動かせばなんてことないただの湿った分厚い苔の絨毯が地面を覆っていたのだった。


 腰を曲げるとかち割るような鈍い腰痛が襲い始め、口許から思わず漏れた呻き声が洞窟内に反響させるがその声は水を打ったように掻き消えた。


 苔の付いた自分の手を見つめる。 傷のない細くて長い肌色の指、紛れも無い自分の指だという認識はある。

 次に顔に手を当てる。 柔らかい頬、 硬い顎を押し当てる。 鼻、窪んだ目蓋、両揃えの眉、額に耳まで届くくせのない髪。 白い袖付きの服に整いのある黒いズボン、ベージュの革靴を履いている。


 けれども、脳が、経験が、それを易々と是認させてはくれなかった。


 この場所へ至るまで、それまでどこでどうやっていたのか、なにをしていたのか思い出そうにも、なにを思い出せば良いのかまるでわからない。


 思い出せない。


 見当もつかない。


 頭が思い出そうとすると、くらくらよろけるように暗転する。 暗闇のなか、ただひたすらに手探りで手に触れられるなにかを探しているかのようだった。


 ゆっくりと立ち上がりながら二度三度呼吸を整え辺りを見回す。

 円形状の藻の生えた絨毯の周囲は岩肌の壁で覆われていた。 天井まで壁は続いており、天辺につれ細く、円錐形のような構造になっている。 10mもないが、なかなか高く、けれども天然で作られている可能性は即座に排された。


 周囲の岩肌は丁寧に均され、さながら書き込みやすいように凹凸なく削られ、その整えられた岩壁には金糸に似た細い手書きの文字、ミミズがのたくったように彫られ、本来なら暗闇であっただろうこの場所を、その誰かが書いた文字が発光しているおかげでこうして光の当たらない周囲を観察することができた。


 何度か文字を追って記憶にある文字を捜すうちになにか思い出そうと眺めていたが、やはりというべきか、解読しようにもそれがなんの文字であるか皆目見当もつかなかった。


 当然やたら難しい漢字でも、幼稚なカタカナでもなければ、簡素なラテン文字、堅苦しいハングル、小気味良いキリル文字、ヘブライ文字、デーヴァナーガリー文字、モンゴル文字、ヘブライ文字でもなければ、二本脚の鳥が彫られていないことからヒエログリフでもない。 人形が踊っていないから暗号でもなければ、エッジが利いていないから甲骨文字でもない。 それに民族的比喩感のある美しいトンパ文字でないのも一目瞭然である。


 しかし唯一時々ルーン文字が刻まれているのを見つけたが、如何せん『太陽』と『魂』しか判読できなかった。

 つまり、異なる文字が周囲の岩肌に書き連なっているわけだ。 しかし、だからとして目新し驚きや発見もなく、だからどうしたんだという失望に変わった。


 (これは……、なんだ?)


 時々段落が終わっている箇所があるが、それを除いてほぼ全ての文字はところ狭し、余すことなく隅々まで彫られ、まるで渦を捲くように連綿と、それでいて整然と続いている。


 手でそれをなぞっても金色が剥がれることもなければ指に着くこともなく、触れたからといって空想物語のような展開は起こらず、ただ静かに刻が流れるだけだった。


 ふと削ってみようかと脳裏を過ったもののその考えはすぐに虚空に消えていった。


 (この中で、これが漢字でも平仮名でもカタカナでもないとすぐさま比較している時点で、おそらくそれを普段から利用している、日本に近しい人物である、という可能性がわずかにでてきた。 ……ああそうだ、俺は日本人だ。 そうだった……?)


 男はそう思う至って自分の名前を不意に思い出した。

 

 四月一日ましろ。 学生だ。 だった、が近いかもしれない。


 羅列された文字には改行のような区切りがない。 天井から地面まで蛇のように周囲を螺旋状に下へ下へ下りながらぐるぐる一周している。 そこは直線上からでは見分けることはできないが、その境目には人が通り抜けられるスペースがあり、一面壁で覆われているのではなく、ロール構造になっていた。 当然といえば当然である。 でなければどうやってここにいるか説明できないからだ。 


 その隙間を横這いに通り抜けると、奥行きのある細長い場所にでた。 高さも先ほどの円錐状の場所と等しく余裕があり圧迫感がない。 金糸の文字はそこには見当たらず、逆にあの円錐状の場所が、より特別な意味を持つ空間であると感じずにはいられなかった。


 地面の隅や壁の四隅周りに生えた藻がほのかに広い空間を照らしていた。 まるで、夜目の効かない生き物のためにあたかも生えているかのように、暗闇に対して不憫を抱くことがなかった。


 さらに、ずっと頭のなかで浮かんでいたある考えを堅硬にさせるものが眼の前の中央の空間に置かれていた。


 それは、木の籠に入れられた鳥。


 そして、水の入った丸い透明の壜には小さな魚。


 どれも活き活きとまではいかないが、時折動いては辺りを窺っているように見える。


 そう、生きている。


 道は奥へ奥へと平坦に続き、その先には淡い光が柳のようにゆらゆら揺れていた。


 ましろは鳥籠の上部の蓋を外すと、鳥が様子を窺う。

 ましろと目が合う。


 が 、それは一瞬の出来事で、少し離れると鳥は警戒を解いて勢いよく飛び出し光の先へ羽ばたいていった。


 魚の入った壜を手に持ち鳥の後に続いた。 さすがにその場に放つ事ができなかったからだ。


 水面を窺うと自分の顔が映し出された。

 ましろの顔だ。

 成熟しきれていない、目許だけ大人びてしまった線の細い顔付き。


 「おいおい」 ましろは吐き出すように溜め息をついた。 「なんてところに来ちまったんだ俺は」


 尾を水面で弾いて壜の中を一周する魚を眼下に捉えながら歩いていると、奥の方から涼しい風が肌を包みこんだ。 耳朶に吸い込む香りは無臭であれど心地よく、自然と深呼吸を繰り返していた。


 水音は歩くにつれ増し、柳のように揺れていた光がなにかもすでに合点がいった。


 光の差す方向へ歩を進めると人工的に作られた小階段を越えた先に涼しい風を運ばせる勢いのよい滝が垂直に流れていた。 どうやら、真上で流れる滝の裏手の岩壁に隠し洞窟があり、そこで眠っていたようだ。


 流れる水を透過して差し込む日の光は暖かく、手をかざすほど眩しかった。

 凹凸の無い壁に手を当てて左右を窺う。 左手は完全に道がなかったが、右手は細く緩やかな登り道が壁沿いに続いていた。


 (ここはどこだ……)


 先ほどと同じ言葉に今度は別の疑問が塗り籠まれる。


 人工的に作り上げられた、準備されたこの洞窟はなんだという疑問。


 なぜその謎めいた洞窟に、やたら神聖じみた箇所に眠っていたのかという疑問。


 考え出せば泡のように生まれる疑念をいくら振り払っても、濃密な霧に覆われた不安が纏わり付いて、ましろの息を窄めた。


 背後を振り返る。

 先ほどまで歩いていた薄暗く湿った岩の平らな道。 凹凸の無い整備された岩壁、人為的に準備された鳥、魚、そして円錐状の壁一面に金色に彫られた手書きの文字。


 人為的痕跡ばかり残されたこの場所に眠っていた以上——。 まず確実になにかの問題に巻き込まれている。


 しかし、いくら頭を振り絞っても浮かび上がる具体的な記憶がなにひとつないという事実。 伽藍の器が忽然と目を覚ましたという無駄な結果がわかっただけだった。


 ましろは嘆きの混じった小さな溜め息を吐いて呟いた。


 「ちくしょう。 どこなんだよ、ここ……」

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