オルタード・ジュブナイル 〜The Garden toys〜

大久保

プロローグ

 幕前


 「……やっとコントラクトが整った……。 そうだろう?」



                  ●



 静かな清流の音色。 地面を抉る音。


 緑溢れる静寂な森の中で大きく響いて、そして掻き消える。

 

 駆ける音


 荒い息。


 服に纏わり付く汗の感触。


 ここに至るまでの現状。


 覚束無い未来。


 その全てが男を苛つかせるには充分すぎるほどの材料だった。


 白いシャツに黒いズボン、ベージュの革靴を履いた十代ほどの陰りのある顔立ちをしたその男は、必死の形相で目的地への安全かつ最短距離を瞬時に頭の中で叩き出し、その道に沿って凸凹と安定していない苔と下草の生えた地面を走り抜ける。


 走り抜ける。 休むことなく。 足を止めて、休むことさえ許されずに。


 それが義務であるように、責務であるように、前へ前へと必死に脚をあげ、腕を振る男のすぐ後ろを追随するのは、立ち上がれば男と同等の高さと体格を誇る四本脚の野獣——森の狂狼フォレストウルフの灰色の大群である。 決してこのモンスターと男は仲睦まじくかけっこをしている穏やかな間柄ではない。 仲睦まじい羊飼いと羊のような関係でもない。 畜産業者と家畜に似た存在。 飢えに飢え、血走った刃のような眼孔に生暖かい獰猛な息を漏らしながら獲物である男を死に物狂いで追いかけている。 そんなごく自然でごく普通の、弱肉強食な世界ではありふれた光景。


 男はその殺気混じりの気色の悪い野獣の視線を背中に浴びながら、けれども、だからこそ足を止めるといった自殺行為な真似をせず、つい数分前来た道を脱兎の如く、蜻蛉も粉々に吹き飛ばされてしまう勢いで引き返していく。 なにかの拍子で止めてしまえば、飢えに飢えた四足歩行の森の狩人たちの餌食になるのは火を見るより明らかな自然の摂理、自然淘汰が証明していた。


 疾走する最中、目の両隅に掠めた黒い影が男の速度にぐんぐん追いついて、徐々ににじり寄ってくる姿が映り込む。 集団から独走した森の狂狼フォレストウルフ二体が先回りして脇を固めだした。


 森の狂狼フォレストウルフは男の左右、そして集団追従する殿が追いつめていく。 獲物を囲う長期戦を前提とした狩猟の陣形をとる熟練した森のハンターたち。 精神的にもそして肉体的にも獲物である男を疲弊しきるまで追いつめていく算段だ。


 走る。

 走る。

 ただひたすらに。

 

 ただ闇雲に、木立を抜け、先のことなど棚上げにして一目散に脚を上げ、空を切るように腕を振り、緑生い茂る木々の奥の木々の先、そのまた向こうに見える大きな口を開いたような森林の中を目指し、乾いた咽喉から荒々しい呼吸を荒げる。


 男の背後で、半歩、そして一歩加速する気配に混じり、獣の息づかいが合わさって耳に届いた刹那——、油断した男の視界の縁から不意に現れた影がしゅっと大きく伸び上がった。


 「——ッ!?」


 横からの出し抜けの襲撃に気がついた男の反応は半歩早く、しかし半歩遅かった。


 その瞬間——、スローモーションのような映像が男の視界に映り出し、その視界内を煌々とさんざめく赤い鮮血が踊るように舞い散り、火山のように吹き上げた。 咄嗟に上半身を捩じ曲げたが、銃弾のように男の前をすり抜ける一体の森の狂狼フォレストウルフが鋭い牙と爪で突進してきたのだ。


 しかし、奇襲に足を止めることも肩から吹き上げる流血と擦傷による痛みに声をあげる時間的余裕も緊迫とした今の男には許されてなどいなかった。 一瞬の経過、一瞬の油断と後悔を風のように受け流し、敵の次の手に備える。


 殿の森の狂狼フォレストウルフが地面に四肢の膝辺りをバネのように曲げて突進してきた。 男はその攻撃に生じたわずかな隙を利用して背中の布に包んだ棍棒を素早く抜きだし、突出した狼の口許めがけて下から思いっきり振り抜いた。


 バキリ、と下顎の歯が上顎に捻り込むように食い込んだ森の狂狼フォレストウルフの尖った口は、枝が折れるような鳥の脚を折るような軽快な音を響かせながら森の天蓋の彼方へ吹っ飛んだ。


 森の狂狼フォレストウルフはヒトならざる力に大きく目を見張り、襲いかかろうとした脚を本能的に押し止める。 遠くの方で枝葉の鳴る音とどすんとなにかが落下する音が聞こえた。


 男が棍棒を振るった直後、一瞬の無駄もなく、躯を捻り返し、踏み込んだもう片方の足が進行方向へ向けて再び力強く駆け出した。


 その男の躊躇いのない俊敏な動作に、右を固めていた森の狂狼フォレストウルフは、はっと我に帰り、わずかに機先を制された男を取り逃がすまいと、天蓋の森の切れ間から漏れる陽の光が、照り返す鋭い牙を目一杯広げて、死角である背中を向けた男に襲いかかった。


 ——次の瞬間、扇のような禍々しい口を広げた森の狂狼フォレストウルフの眼に飛び込んだ光景は、男の無防備な背中ではなく、脇に隠れて見えなかった赤い血と砕けた牙の付着した棍棒が槍のように飛び込む自分の最期であった。 空中で速度の制禦ができるわけもなく、死期を悟った森の狂狼フォレストウルフは突き出された棍棒に眼下底の骨を音を立てて圧し折られ、女々しい唸り声をあげながら跳ね返り、苔ののせた石の上にどさりと音を立てて死に絶えた。


 左にいた別の森の狂狼フォレストウルフは即死した仲間に一瞥もせず、憐憫の情など露にも感じさせない速度で男の喉元に飛び掛かろうと仕掛けた。 しかし、よりわずかに早く飛び上がった男の力任せの拳が森の狂狼フォレストウルフの脳天めがけて雷の如き速度で炸裂した。 拳に熱を帯びたような感触と牙ごと切り裂いた擦傷の痛みが遅蒔きに神経を駆け巡る。

 片足で着地した男は腰を深々と落とし、歯を食いしばりながら体を無理矢理伸ばし、脚を振り上げて地面を蹴る。 いくら体を酷使させたところで、いくら体に負荷の掛かる無茶をしたところでそれに対する疲労感は驚くほど少ない。 肩から蛇のように腕を這う粘着性の流血は乾きだし、痛みも今はもうこそばゆい痒みにしか感じられない。

 

 また、四本脚で駆ける森の狂狼フォレストウルフの最高速度、70キロのスピードの前を常に維持し続ける常人では成し得ない能力を、彼は有していた。

 彼がそうした人並みはずれた運動能力と常人ならざる身体能力に気付いたのはこの世界で目を覚ました後であった。


 この世界——。 地球ではない世界に彼はいた——。


 ヒトと動物、亜人とモンスター、上位存在である天人、魔人、高位存在である神獣、魔獣。 さらに高次元存在である霊獣、多種多様な生命体が混在、対立、共存する異世界で目覚めた彼は、決して駆けることをやめない。


 訳あって森の狂狼フォレストウルフの大群に石を投げて激昂させ、ここまで誘導するのはいとも容易かったが、数分ほど走り続ける最中、やがて致命的なことに気付いて愕然とする。


 (……やばい、道に迷った)


 男が走り続けている森は、広大な面積を誇る迷宮のような複雑さで、天上を仰ぎ見て方角を知ろうとしても、乱立された高木から伸びる青々とした枝葉同士が幾重にも被さり合っているため、それを頼りに進むことはできない。 素人である男が一度来た道を引き返すことなど無謀に等しかったのだ。 たとえそれが人並みはずれた力を保持していても、それはまったくの別問題である。


 真後ろでは金魚のふんのように追いかける鼻を突く異臭混じりの獣の荒い吐息。

 ここで追従してくる一群を排除するのは不可能ではない。 無傷では済まないだろうが、勝機がないわけではなかった。 事実、一撃で戦闘不能に追い込む能力、力任せの暴力を行使してすでに二体撃退している。


 しかし、この先に待ち受ける重要で無謀な作戦のための必要な材料がこの森の狂狼フォレストウルフにはある。 俊敏で獰猛な、荒々しい獣。 それも、数が多ければ多いほどには有利に働く逸材なのだから、先ほどのように即死させるのでさえ、よくよく考えれば愚策の行為であった。


 男はわずかな後悔を抱くがそれも紫煙が掻き消えるようなほんの束の間の出来事であった。 次の瞬間には脳内に滞留しかけた余計な思考をあっさり切り離しパージして、足許の悪い凸凹の森の地形に気をつけながら周囲を目敏く観察しようと切り替える。


 (——だめだ、どれも同じに見える。 こんなことなら幹にマークでも残しておけばよかった……)


 切っても切っても染み込んでくる己の愚かな不手際、要領の悪さに頭が来たその時——。


 右手の方で大きな衝突音が地面を通して男の足許を揺さぶった。 次いで樹木が戦闘によって圧し折れたのだろう。 一本、また一本と高木の姿が男の視界の隅から地面に吸い取られるようにゆっくりと沈んで消えていった。

 それが目印であるかのように男の目に希望が宿り、口許を歪める。


 (——あそこだっ!!)


 男は即座に軌道修正を行い、倒れ込む木の見える右の方向へと走り込んだ。

 後ろの森の狂狼フォレストウルフもそれに続こうと速度を殺すが集団行動をとったせいで互い同士衝突し合い、そのうち何体かが転倒する様を横目で一瞥する男は、こうして追いつめられている差し迫った情況であるにも拘わらず、不意に笑みをこぼす。 まるで口許だけが独立しているかのような狂った哄笑であった。


 なにがしたいんだ、俺は——?

 なにをしているんだ、俺は——?

 なんでここにいるんだ、俺は——?


 俺は——。

 俺は——。

 俺は——。


 「——ましろっ!! 四月一日わたぬきましろっっ!!」


 男——ましろを呼ぶその怒号を聞いて、没入しかけた思いをすぐさま断ち切った。


 そうだ。

 そんなことはどうだっていい。

 少なくともいまは。

 先のことは考えない。

 目先のことだけ考える。

 そう思うと躯と頭が軽くなった気がした。


 ましろは快活千万に叫んだ。 


 「——今行く!!」



                   ●



 その世界はリアルでないリアルなファンタジーの世界を体現していた。

 

 夢のない夢の世界。

 

 残酷で非現実で時間を忘れてしまうような世界。


 その世界に、ある日突然47人の若者が放擲された。


 若者たちは人語を話す動物によって異世界へ落とされた事実を知る。 


 そしてその世界とは別の、彼らが元いた世界へ戻るたった一つの救いのない哀しい方法を知ることになる。


 ——それは己を除く、46人全員を屠ること。


 ——己とともに行動、付き従う動物を使ってただ唯一となるために動物同士喰らい合うこと。


 それは驚くほど至ってシンプルであった。

 

 だからこそ、この上ない残酷で非情な方法であった。


 まるで蠱毒のような方法。


 最後の最後になるまで屠り合う、自然の摂理である弱肉強食。


 重ね、紡ぎ、凌ぎ合う自然淘汰の体現だった。

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