第179話 憎しみの矛先 -Endless essence-

・1・


 静止した世界がゆっくりと、再び心音ときを刻み始める。


「……」


 ほんの数秒だけ、文字通り世界は息絶えたのだ。

 生と死。過去・現在・未来。万象ことごとくが無意味と化した。

 全て、たった一振りの剣によって。


「……」


 しかし魔人シャルバが斬り捨てたその世界はやがて息を吹き返す。刃物で水面を傷つけてもたちどころに元に戻ってしまうように、彼が為した絶功絶技もまたこの世界ではその程度の波紋でしかなかった。


「……ッ」

「ほう……」


 その波紋の中心に立つのは魔人――


「まだ、終わってねぇ……ッ」


 バキバキと不気味な音を立てながら、真紅しんくはゆっくりと立ち上がる。タナトスの鎧はすでにそのほとんどが崩れ落ち、血に染まった彼の素顔が露になっていた。


「世界を斬り捨ててもなお生きるか。もはや奇蹟などではない」

「ったりめぇだ……ッ……かかって、来いよ……!」


 よく見ると黒い蛇のような何かが真紅しんくの体に纏わりついている。神すら殺す須佐之男スサノオの絶剣がいかにして防がれたか気にはなるが、それよりも先の一太刀を受けてなお、彼の瞳が闘志を失っていないことの方がシャルバの心を否応なく昂らせた。


「ホッホッホ、その意気やよし。だが体の方が追い付いていないようだ」

「ッ……」


 それは真紅しんく自身が一番よく理解している。

 神凪明羅かんなぎあきらにいじくられたこの無敵の肉体をもってしても圧倒的に足りない。限界はとうに超え、その遥か先に足を踏み入れてもなお……届かない。

 先程のシャルバの一太刀にはそれだけの『現実』があった。

 皮肉にも唯一その極地に指先一本掠めたのは体ではなく、彼の精神の方だった。


「君はまだまだ強くなる。ここで摘み取るのは惜しいというもの……些か時代遅れな考えやもしれないがね」


 シャルバはそう言い残すと、須佐之男スサノオの切っ先で線を引くように虚空を十字に切り裂く。そしてその先に広がる真っ黒な世界へと消えていった。


「……ッ、はぁ……はぁ……ぐ……ッ!」


 敵がいなくなって気が緩んだのか、虚勢を張ってただ突っ立っていた真紅しんくは背中から地面に倒れた。指の一本だって動かせないほど疲労しているのが分かる。しかし地面にベッタリ張り付いたその体はある時急に軽くなった。


「テメェ……何の真似だ?」


 トレイだ。どこかに身を潜めていたらしい。というよりシャルバとの戦いに入り込む余地がなかったという方が正しいだろう。


「別に。ここで見捨てて後で文句言われたくないだけ。残念ながらあんたはまだ死にそうに見えないからな」

「チッ……いちいち言葉に棘がありやがる。そんなに心狭くねぇよ」


 そこには優しさも仲間意識もない。ただ生きるための最善。それを選んでいるだけにすぎない。だがそれは真紅しんくにも理解できる考え方だ。むしろ嫌いではない。


「そういえばあんたの部下は軒並み逃げ出したよ?」

「部下じゃねぇ。むしろ身軽になって清々するわ」


 真紅しんくはトレイから離れ、自力で立ち上がる。まだふらついてはいるものの、やはり常軌を逸する回復力だ。


(傷は直に治るが、体力はそうもいかねぇ……)


 限界を超えた反応速度、強靭な膂力、それに驚異的な再生能力。これでもかと戦いに最適化された神凪明羅かんなぎあきらの肉体改造は天性の素質や本来積み重ねるべき鍛錬など嘲笑うようにすっ飛ばして、ただの人をここまで強くした。にもかかわらず、この体には痛覚も疲労も人並に残っている。そんなものさえなければさっきもまだ戦えたはずなのに……。

 つくづく彼女の考えることは分からない。


「あんたがいなくなってすぐ、大人しくしてたヤツらが次の勢力争いを始めた。ホントに……救いようのないクズ共だ」


 トレイは憎々しげに再び伏魔殿と化した遠方の街を睨む。確かに街ではそこかしこから煙が上がっていた。真紅しんくが今まで望んでもいないのに座っていた椅子を求めて誰かが争っている証拠だ。すでに彼が意識のないケイトをこちらに運んでいるのを見るに、戻って休むという選択肢はなさそうだ。


「どうする? お互いこれ以上協力するメリットはなさそうだけど」

「ハッ、それにしては随分と親切じゃねぇか。そうじゃねぇだろ? この機に乗じて今度はお前が俺を利用する腹積もりなんだろ?」


 だからトレイはこの場面で真紅しんくに肩を貸したのだ。ほんの一時とはいえ、弱りに弱った今の彼を仕留めるチャンスだったはずなのに。


「……殺したいやつがいる」

「あ?」


 その言葉に……否、その根源たるトレイの憎しみそのものに呼応して、彼の外神機フォールギアは黒い瘴気を撒き散らしながらひとりでに起動した。



鳶谷御影とびやみかげ……ケイトを……俺たちの体をこんな風に穢した……悪魔だ」



 まるで憎悪をそのまま色に変えたような、暗い暗い底なしの赤。

 その激情が彼の両の瞳を染め上げて。

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