第121話 黒キ神凪 -The observer of all-

・1・


 ――イスカが海上都市組に冬馬の指示を伝える少し前。



 その声は集中治療室ICUで突然冬馬に囁きかけてきた。


「……ッ!?」

『ほう、わしをはっきり認識できるか。面白い』


 全方位、あるいは内側から、謎の声は響く。


「だ……ッ!?」


 声を上げようとした宗像冬馬むなかたとうま。だが彼は周囲の異変に気付いた。


(何、だ……?)


 何かがおかしい。冬馬以外のこの場にいる全ての人間の動きが止まっている。先程まで会話していた女性医師もだ。まるで時間そのものが止まってしまったかのように。彼はすぐに室内に設置された時計の針を確認した。


(止まってる。つまり俺以外の時間が停止してるのか?)

『ククク、逆じゃ。今のお前の思考速度が速すぎるのじゃよ。儂がそのように細工したからのう。これで時間を無駄にせずに話せるじゃろう?』


 老人を思わせるしわがれた声は愉快そうに笑う。そしてそれは冬馬の目の前で黒い霧のようなものとなって姿を現した。


「……誰だ?」


 どう見ても人間ではない。冬馬は警戒をあらわにする。こういう類の存在が友好的だった試しがない。


「儂か? はて……困ったのう。なにせ名乗るような名を持たぬのだよ」


 黒い霧は数秒考えると、何を思ったのかその姿を徐々に収束させていく。現れたのは黒いスーツに黒いマント。男とも女とも取れる不気味な白い仮面をつけた長身の男。人の形を得てもなお、その姿はどこか異形を思わせるものだった。


「アー、あー。フム、どうかな? 老人と話すよりこっちの口調の方が少しは話しやすいだろう?」

「……お気遣いどうも」


 何をどう調整したらそうなるのか、白面の男の声はしわがれた老人から一転、口調も含めかなり若い男のものへと変化していた。


「で、私の名前だったね。そうだな……他の神凪かんなぎのように姓を統一するのも面白みに欠ける……故にここは『アートマン』、と名乗ろうか。私を一言で表すのにこれ以上のものはない」

「……アートマン」


 アートマン。

 インド哲学における『自分』を意味する言葉だ。次いで人間の『本性』、最も内側に存在する個の根源――『真我』という意味を持つ。


「随分大仰な名前だな。でもお前が神凪かんなぎの一味だってことはよくわかったよ」

「一味? それは少し違うな。私は黒の叡智。他の神凪かんなぎを統べる者なのだから」

「!?」


 それを聞いた冬馬の体は一瞬で強張った。無理もない。神凪かんなぎを統べる者。つまり目の前のこの得体の知れない存在こそが各地で暗躍していた神凪かんなぎ達の主。すなわち全ての元凶ということになるのだから。


「ハハ、まぁそう警戒しないでくれたまえ。私はただ、君と話がしたいだけだ」

「話? 俺にはお前と楽しく話せるような話題に心当たりはないけどな」

「フッ、知りたくはないのかね? を」

「ッ!?」


 アートマンはガラスの向こう側で眠っている伊紗那いさなを見て不敵に笑う。


「私なら、彼女が抱えるあらゆる問題を排除した上で目覚めさせることができると言ったら?」

「……」


 ハッタリ、ではないのだろう。そもそもそんなことをする理由がおそらく相手にはない。もし何らかの取引を持ち掛けてくる気なら、それこそ眠っている伊紗那いさなを人質に取るなど効果的な手段はいくらでもあった。


「どうして敵にそんな提案をする?」

「敵? なるほど少し誤解があるようだ。他の神凪かんなぎはともかく、私自身は別に君たちと敵対するつもりはないよ」

「それを信じろって? お前は神凪かんなぎのリーダーだろ?」

天上の叡智グリゴリは基本的に放任主義でね。私が定めた最低限のルールを守ればあとは各々の自由だ。無論、それは私にも当てはまる」


 両手を大きく広げたアートマンはそう言い切った。


「そういう意味ではこれは私からの心ばかりの応援エールだと思ってくれていい。今の状況はあやめに分がありすぎる。万象の観測者として、始まる前から勝負のついた戦いほど見ていて退屈なものはないのでね」

あやめ……アヤメ・リーゲルフェルトのことか? あいつも神凪かんなぎなのか!?」


 だとすれば神和重工かむわじゅうこう、ひいてはリングー社すらも天上の叡智グリゴリと関わりがあると考えて間違いない。そしてずっと引っかかっていた疑問にも合点がいく。各地で確認された外神機フォールギアやバベルハイズの完全自立型機械人形パレイドリア・オートマタ。あれらは並みの生産力で実現できるものではない。だがバックに神和重工かむわじゅうこうがいるなら話は別だ。


「彼女はアメリカを真の意味で統一したのち、君たちを本気で潰しにかかるだろう。そうなれば君たちに勝ち目はない。言い換えれば勝機は今をおいて他にないということだ。些事にかまけている余裕などない」

「些事だと……ッ」


 冬馬はアートマンに掴みかかった。しかしその瞬間、アートマンの姿は虚空に消える。


『言っただろう? アートマン根源だと』

「ッ!?」


 冬馬は目を見開いて驚愕する。彼の背後で固まっていた女性医師の内側から黒い霧が湧き出し、その姿がアートマンに変わったからだ。


「私はどこにでも存在する。無論、君の中にも。私だけが唯一、真の意味で『人間』なのだよ」


 白面の奥にもし顔があるのなら、その表情は邪悪に歪んでいるだろう。それほどまでに冬馬にはアートマンが不気味な存在に見えた。


「さて、私を害することが無意味と分かった今、君には決断してもらいたい」


 アートマンはゆっくり右手を冬馬に差し出した。


「何、ゆっくり考えるといい。時間は十分にある。今この瞬間は現実において刹那の出来事に過ぎないのだから」

「……」


 1億分の1秒という時間の牢獄の中で、冬馬は決断を迫られる。


「願わくば、私という存在を最大限利用してくれると嬉しいよ」


 この選択が今後の戦況を大きく左右する、そんな大きすぎる決断を。

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