間章・第5話 創造の書 -Jabberwock-

・1・


 ――魔女狩り

 一度でも『魔女』とされてしまった被疑者にこれを否定する方法はない。その瞬間あらゆる権利は剥奪され、ただ一方的な暴力だけが正義と化す。

 不安要素を取り除く。ただそれだけのために。



・2・


 右手にアイスピックを握ったジョーカーが静かにシーマへ襲い掛かる。


「ッ!!」


 彼女はジョーカーの攻撃を二度受け流し、続く彼の横殴りのスイングを上体を屈めて斜め下に避ける。さらにその勢いを利用して相手の顎を狙った回し蹴りを放った。だがジョーカーはそれを見越して片腕を盾にして防ぎ、逆にシーマに強烈なタックルを喰らわせた。テーブルに背中からぶつかったシーマを追い詰めるように、ジョーカーのアイスピックが彼女の眼球目掛けて容赦なく振り下ろされる。


「ぐ……ッ!?」


 シーマは首を動かし、すんでのところでそれを回避する。針の先端はそのままアイスペール内の氷を砕き、キラキラと輝く氷結晶が空中に飛散した。


「抵抗するってことは、何かやましいことがあるのかな?」

「殺されそうになってるんだ! そりゃ抵抗しますよ!」


 青年の声でシーマが叫ぶ。


「ふむ、確かに」


 一瞬、ジョーカーは考える素振りを見せた。だがこれは罠だ。この狂人が自分の間違いを認めて思い直すなんて考えてはいけない。シーマにはそれが瞬時に理解できた。そして案の定、彼はすぐにアイスピックを左手に持ち替えて流れるような所作で横に振りぬく。針の先端がシーマの頬を掠めた。


「お、ようやく当たったか。結構やるんだな」

「……ッ」


 危なかった。

 もしロキの力ではなく、変装用のマスクを被っていれば今ので正体がバレていた可能性がある。


(落ち着け私……無茶苦茶だけど向こうはまだ疑ってるだけ。私が偽物だという確証があるわけじゃない)


 シーマは頬から流れる血を拭いながら心を落ち着かせる。正直、ここからの挽回は絶望的。だが逃げれば相手の疑念が確信に変わる。それなら――


「もう十分でしょう? ほら、変装ではありませんよ?」


 あくまでこちらに防衛以上の敵対意志がないことを示しつつ、彼女は頬の傷をジョーカーに見せた。


「なるほど、確かに変装ではなさそうだ。でもまだ足りないな」

(こいつ……ッ、どんだけ疑り深いのよ!)


 あきらかに異常だ。本当は全て知っていて、自分は掌の上で弄ばれているのではないかと疑ってしまうほどに。


「疑念その1。何故君はあの戦場で無事だったのか?」


 ジョーカーが人差し指を立てる。ゆっくりと、まるで獲物に狙いを定めるようにその先端をシーマに重ねた。


「アイオーンはあんなでもかなりの大組織だ。なのに間者である君だけが難を逃れてここにいる。ちょっと都合が良すぎないか?」

「……」

「答えられない? ま、そりゃそうだ。むしろここでもっともらしい返事をするようならもっと疑ってたけどな!」


 直後、シーマの視界からジョーカーが消えた。


「ッ!?」


 声を張り上げた瞬間を狙った巧みな視線誘導で一気に懐に潜り込まれたのだ。掬い上げるように襲い掛かる針の先端から逃れるため、シーマは後方に思いっきり飛ぶしかなかった。そのまま窓ガラスを突き破り、彼女はVIPルームから下層のカジノに転がり落ちる。


「な、何だ!?」

「人が落ちてきたぞ!!」


 当然、そこにいた闇カジノの客たちはギョッとした表情で固まった。自分たちが法を犯している自覚を持っているからか。それとも単に身の危険を感じたからか。どちらにせよシーマにとってはどうでもいい。


「疑念その2。君からは嘘の臭いがしない」


 そんな張り詰めた空気などお構いなしに、兎面の男はゆっくりとVIPルームから階段を伝って降りてきた。その場違いなほど可愛らしい彼のお面に気を強くしたのか、裕福そうな小太りの男が一人、怒鳴りながら彼に近づいていく。


「な、何だね君!? いったいこれは――」

「ッ!?」


 息を吞んだ。

 男の言葉が急に止まった。何の躊躇もなく、ジョーカーが男の喉にアイスピックを突き刺したからだ。返り血が飛び散って実に5秒間、場の空気が凍り付いた。そして次の瞬間、客の緊張は恐怖に塗り替わる。数多の悲鳴と逃げ惑う群衆が闇カジノを瞬く間に飽和させた。


「あーあ、ったく……高いスーツが汚れちまった。後で買い換えないと」


 何事もなかったかのようにジョーカーはアイスピックに付いた鮮血をハンカチで丁寧に拭う。


「人間は無意識に嘘を吐く生き物だ。相手が家族や仲間、もちろん自分であっても。逆に嘘を吐かないヤツは他の嘘を隠そうとする。一番触れられたくないものから相手を遠ざけるためにな」


 表情には出さないが、その言葉に心臓を鷲掴みにされるような息苦しさをシーマは覚えていた。よく『詐欺師は9割の真実に1割の嘘を混ぜる』というが、それほどまでに扱い方次第では『真実』は『嘘』より質が悪い。言葉を武器にしている彼女にはそれが何より理解できた。


「さて、君は何を隠そうとしてるのかな?」

「俺は裏切ってなど――」

「それもある意味嘘じゃない。けど肝心の枕詞が抜けてるよな? そもそも仲間じゃないっていう」

「ッ!?」


 ジョーカーはそう言うと、懐からメモリーを取り出した。




「ジャバウォック」




 彼の言葉に魔具アストラが呼応する。ロストメモリーは暗い輝きを放ちながら、その姿を一冊の分厚い本へと変えた。


(あれが……あいつの魔具アストラ


 ジャバウォック――少なくとも神和重工かむわじゅうこうのデータベースにはない魔具アストラだ。


「……グレオ・ビスタリカ」

「ッ!?」


 その名をはっきりとジョーカーが告げる。


「オレゴン州ビーバートン生まれ。幼少の頃より家柄と才能に恵まれ、他の人間よりもずば抜けて頭が良かった。けどなまじ頭の回転が早い分、小さい頃から大人たちの愚行に嫌気がさしていた。またそんな自分を理解されることもなかった。B-Rabbitに入ったのはこの国に蔓延るそんな愚か者たちを正すため」


 ありえない。B-Rabbitは組織内で決して実名を明かさない。だから全員がコードネームを持っている。少なくともグレオの記憶ではそうあったし、彼自身誰にも名前を開示していない。ましてやグレオの素性などもってのほかだ。



 そう言ってジョーカーは本のページを一枚破り捨てた。

 直後、シーマの体に異変が起こる。彼女の体が急にぼやけ始めたのだ。そしてその姿は本来あるべき彼女のものに変わっていく。


(ロキの権能が打ち消された……ッ!?)

「ほら、言ったろ? 人を見る目には自信があるって。俺の勘は大正解だ」

「……何をしたの?」


 敵の正体を見破ってご満悦のジョーカーをシーマは睨みつける。


「別に大したことじゃない。


 さも当然のように彼はそう答えた。


「こいつには物語を紡ぐ力がある。グレオ・ビスタリカは俺が作った登場人物なんだよ。もっとも、当の本人は微塵もそう思ってないけどな」


 本人が意図して封じた記憶ならともかく、そもそも知らない記憶はロキでは読み取ることができない。


「なるほど。自分が作ったキャラクターが筋書きと違う動きをしてたから、あんたは私を疑ったのね?」

「ご名答」


 おそらくロキの変身が解けたのは『グレオ』という存在が抹消されたからだ。存在が消えれば、それを基にしたシーマの変身は意味を失う。さらに付け加えるなら、今までB-Rabbitの構成員を誰一人見つけることができなかった最大の理由は情報操作などではなかった。そもそも存在しなかったのだ。間者として登場人物を送り込み、用が済んだら存在ごと消し去る。そうすれば誰の記憶にも残らず、結果だけが残る。


「とはいえ驚いたよ。まさか肉体そのものを作り変える魔具アストラがあるなんてな。つくづく神様ってヤツは規格外だ。今度からお祈りはもう少し真剣にするよ」

「それに関しては同感。けど祈っても無駄。あんたの命運はここまでよ」


 シーマは左の義手に内蔵されたコンバットナイフを取り出す。対するジョーカーはというと肩をすくめるだけだ。


「ハハ、かっこいいねぇ。けどこれでも俺は一組織の長だ。小娘一人、わけないさ」

「それはどうかしら?」

「ん?」


 その時、ジョーカーの携帯端末が鳴り始めた。出てみれば? とシーマに目で促された彼はゆっくりと通話ボタンを押す。そしてその内容に目つきが変わった。


「なるほど……やってくれたな、魔犬部隊メイガスハウンドさん」

「ニシシ」


 シーマの口角がゆっくりと吊り上がる。

 状況が動き始めた。正体を見破られたのは想定外だったが問題ない。

 ここからが本番だ。

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