第104話 それぞれの抵抗 -Going to one's way-

・1・


 その瞬間、文字通り世界が一変した。

 上っ面の平和は消え失せ、世界あくむが本来の姿を見せたのだ。


「……え」


 そしてそれを皮切りに封じられていたレイナ・バーンズの記憶が蘇る。


「わた、し……」


 海上都市に住むどこにでもいる普通の学生。

 そんな彼女が『今』を思い出した。


「カイン君たちは!?」


 レイナは周囲を見渡す。しかし視界に入るのは赤い空、そしてついさっきまで人間だったはずの何か。それは影のように黒く塗り潰され、ノイズが走ったように不気味に蠢いている。


「……ッ」


 レイナは走る。

 ここが伊弉冉いざなみの創造した夢の世界で、自分はそれに飲み込まれたのだとすぐに理解した。きっとここでのレイナは、魔法使いと魔獣の戦いに巻き込まれなかった自分。ありえたかもしれないIFもしもの自分だ。


「ッ、何!?」


 急に足元が揺れた。バランスを崩さないようにレイナはその場にしゃがみ込む。揺れはどんどん強くなり、それに比例してレイナの心臓の鼓動も速まっていった。


「――――――――――――ッ!!」


 次の瞬間、彼女の目の前にあったビルが爆発する。怒号と共にビルの壁を突き破ったのは巨大な斧を持つ牛頭の黒い怪物だった。


「魔獣!」


 レイナは即座に太腿に巻き付けたレッグストラップに手を伸ばす。しかし、そこであることに気が付いた。


「え……? ない!?」


 普段肌身離さず持ち歩いている彼女の武器。スレイプニールのメモリーがそこにないことに。


「ッ!?」


 咄嗟に跳んだことで黒い魔獣の一撃を何とか回避するレイナ。しかし大斧が地面を砕いた衝撃と、その際に飛び散った破片が彼女を襲う。


「ぐ……きゃああああああああああ!!」


 レイナはそのまま十数メートル後方に飛ばされ、碌に受け身も取れずに地面に転がり落ちた。全身を強打し痛みで声も出ないが、頭から落ちなかったのが唯一の救いだ。


「キィィィィィィィィィィッ!」

「……もう、一体」


 今度は空だ。赤い空を黒い何かが旋回している。

 さっき現れた牛頭の魔獣より一回り小さく人の形をしているが、両腕が鳥類の翼のように変化していた。

 ドスン、と再び牛頭の魔獣が大地を揺らしながらレイナに近づいてくる。彼女は痛みで軋む体に鞭を打ち立ち上がると、ビルとビルの間の小道に逃げ込んだ。


「……負けない」


 決して足だけは止めず、レイナは自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 敵は二体。頼りの魔具アストラもない。おまけに地と空、どちらも押さえられたこの状況は正直絶望的と言っていいだろう。


「絶対……負けないんだから!」


 それでも少女は足掻く。

 3年前――弱くて何もできなかった過去の自分を乗り越える。それを証明するために。何より彼女の仲間、そして尊敬する人達はこんなことでへこたれたりしないのだから。


・2・


滅火ほろび、あんたの探してる人は見つかったみたいだな」

「……、その件については礼を言わなければならないだろう。おかげで彼女を無傷で見つけることができた」


 ユウトの言葉にほんの一瞬戸惑いを見せた滅火ほろびだが、すぐに眼鏡をクイッと持ち上げそう返した。

 しかし次の瞬間、そんな彼をカインの大剣が襲った。


「教授! ッ……!!」

「やめろエトワール」


 突然のカインの強襲。それを見た車椅子の少女が明確な敵意を見せる。だがそんな彼女を他でもない滅火ほろびが制した。


「相変わらずマナーがなっていないな。敵対の意思がない相手に剣を振るうとは」


 カインの大剣を受け止めたのは、彼の異形の右腕デウス・イーターと非常によく似た姿を持つ滅火ほろびの左腕だった。カインのそれとは対照的に静かな青い光を放つ左腕はトリムルトの鋭い刃を以てしても全く傷ついていない。


「フザケたこと言ってんなよメガネ野郎。バベルハイズでは世話になったな!」


 両者の視線が衝突し、見えない火花を散らす。


「カイン待て。今はそれどころじゃないだろ! 滅火ほろび、お前も」


 しかし今にも殺し合いが始まりそうな二人をユウトが諫めた。彼の言葉で冷静さを取り戻したのか、カインは一歩下がって大剣を収める。終始こちらを睨み続ける車椅子の少女に気付きながらも、彼はわざと視線を逸らした。


「……わざわざここに来たってことは、俺たちに協力するつもりがあるってことでいいのか?」

「甚だ不本意ではあるがね。だがこうして閉じ込められてしまった以上、全てはそこの少年にかかっている」


 そう言って滅火ほろびはカインに視線を送った。


「閉じ込められた?」

「先程君たちが感じたあの現象……あれはこの世界ゆめの主導権を伊弉冉いざなみに握られた証拠だ」

「ちょっと待ってくれ、ならガイは……」


 この世界はもともとガイのために作られた極小の夢。ならば当然、主導権も彼が持っているはず。それを奪われたとなれば――


「皆城タカオ。君の友人がどうなったかまでは私の知る所ではない。ただ、選べる選択肢はそう多くはないはずだ」


 確証はない。しかし滅火ほろびの言葉を聞いてこの場の全員が最悪の状況を想像した。


「本来君が伊弉冉いざなみを完全に御しきれてさえいればこんな面倒な事態にはならなかった」

「……チッ」


 思い当たる節があるのか、珍しくカインはそれ以上噛みつかない。


「カイン・ストラーダという資格者を得て、伊弉冉いざなみは再び力を取り戻しつつある。そしてここにいる私たちを外に出す理由が彼女にはない。つまり彼女を下し、制御を取り戻さない限り外に出る方法もないということだ」

「一応確認だけど、俺たちがこっちに来た時のあの力は使えないのか?」


 ユウトはシャルバと共にいた時に滅火ほろび伊弉冉いざなみの世界へ道を繋げたあの力を思い出した。


「あれはバベルハイズで回収した伊弉冉いざなみの権能の断片を使っただけだ。より強い力の前では意味をなさない。生死を運に任せるというならば止めはしないがね」


 あの時同様、道を作ることはできるらしい。ただしもしそれを伊弉冉いざなみに感付かれ邪魔されでもしたら、そこから先はどうなるか誰にも分からない。


「いちいち癇に障る野郎だ。要は俺があの神様をブッ倒して言う事聞かせればいいんだろ?」

「その通りだ」


 再びカインと滅火ほろびの視線がぶつかる。しかし彼は黙って壁に背を預けた。どうやら今度は冷静さを失っていないようだ。


「はぁ……分かった。じゃあ改めて、あんたの意見を聞かせてくれ」

「いいだろう」


 神凪滅火かんなぎほろび神凪絶望かんなぎたつも、そして神凪明羅かんなぎあきら。『神凪』の名を持つ彼らについては未だ謎が多い。思想も、目的も、何一つ分からない。魔人とは別に警戒すべき対象だ。

 しかし何故だろう? 彼に関してだけを言えば、嘘を言うような人間ではないと確信できる。目的が重なる限りは信用してもいいのかもしれない。少なくともユウトはそう感じていたからこそ、彼の意見に耳を傾けることにした。


・3・


「う……ッ、ここ、は……」


 御巫刹那みかなぎせつなは何もない真っ暗な世界で目を覚ました。


「ッ!? 姉さん!」


 すぐ隣で気を失っている橘燕儀たちばなえんぎに気付いた彼女は駆け寄ってその肩を揺する。


「……せっ、ちゃん?」

「とりあえず無事みたいね」


 ホッと胸を撫で下ろした刹那はゆっくり立ち上がると、改めて周囲を見渡した。

 何もない。視界にあるのは黒のただ一色。最初に伊弉冉いざなみの中に入ったあの時と似ている。しかしあの時よりもさらに深い場所……何故だか刹那にはそう感じられた。


「私たちのいた世界は壊れたってことよね?」


 その証拠にさっきまで手に握っていた伊弉諾いざなぎは消えている。


「あーそっか。夢……だったんだよね。あれ全部」


 御巫零火みかなぎれいか竜胆棗りんどうなつめとの邂逅。

 それは本来であれば絶対にありえないことだ。何せ彼女たちは1000年前の人間。生きている時代が全く違う。しかしあの時間は紛れもなく真実とも言える。伊弉冉いざなみの力とはそういうものだ。


「シャルバは?」

「うーん、近くに気配はないね。もっとも、あのおじさんに対して気配が当てになるかは疑問だけど」


 少なくとも目に見える範囲では二人を除き誰もいない。遮蔽物もない以上、隠れることもできない。仮に姿を消す能力を彼の須佐之男スサノオが持っていたとしても、勝負にこだわるあの老人が戦いが始まっていない状態で完全な不意打ちをかけてくるとは考えにくい。


「……とりあえず一安――」





『あら、あなた達が一番乗りなのね』





 その時、黒の世界に声が響いた。


「「ッ!?」」


 緊張の糸がほどけるまさにその瞬間を狙ってやったというように、声はクスクスと楽し気に笑う。


「誰!?」

『あら? この私を知らないなんて……あなた、さてはもぐりね?』

「と、あちらさんは申してるけど?」

「知らないわよ……」


 声の主の姿はない。その声だけで判断はしかねるが、おそらく刹那が会ったことのない人物だ。この独特な言い回しにも覚えがない。


「フフ、冗談よ。あの世界では相見える機会はなかったものね。御巫刹那、それに橘燕儀。零火れいかの末裔たち」


 ふと、今度は明確に後ろから声が聞こえた。二人は素早く振り返り、それぞれ戦闘態勢を取る。そこには鮮血を浴びたような真っ赤な着物を着た黒髪の少女が佇んでいた。


「……誰?」


 もう一度、刹那は彼女に問う。


「ごきげんよう、私はカーミラ。この夢の世界に住まうしがない吸血鬼よ」

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