第87話 黄泉の案内人 -The world in the her belly-

・1・


 ——ポチャリ。

 滴り落ちる水の音が聞こえた。


「……ッ、ここ、は……」


 まず最初に目を覚ましたのはカインだった。

 あたりを見渡すと一緒に裂け目ゲートを潜った者たちが全員倒れている。


「おいレイナ、起きろ」


 彼は一番近くで倒れていたレイナの肩を軽く揺すった。


「ふにゃむにゃ……エヘヘ、隊長ぅ……もう食べられないですよぉ〜」


 何ともステレオタイプな夢を見ているらしい彼女は幸せそうな表情でうっとりしている。正直、こんな状況でもリラックスできる彼女をカインはたまに恐ろしく思う。


「さっさと起きろ」

「あだっ!? な、何!?」


 生半可な刺激では起きないと判断したカインが右手でデコピンすると、突然の痛みにびっくりしたレイナはすぐさま飛び起きた。


「ありゃ? 私らいつの間に……」

「……ッ、まんまとしてやられたみたいね」


 彼女の叫び声で飛角や刹那を始め、他の面々も次々と目を覚ました。


裂け目ゲートを潜った後も意識ははっきりしてたんだけどね」

「いつの間にか全員おねんねしてたってことか?」


 燕儀やタカオの言うように、カインが切り開いた裂け目ゲートを通ってからも意識ははっきりと保っていた。どこかで記憶が途切れたような違和感もなければ、当然眠気も感じなかった。にもかかわらず各々が全く違和感を感じないままに夢を見ていた。事実だけを並べてみればそういうことになる。


「ここ、どこかで……」


 全方位黒一色。しかし各々の姿だけははっきりと見えるこの不可思議な空間に刹那だけは覚えがあるようだった。


「気を抜くな。ここはもう伊弉冉やつ世界はらの中だ」


 いつの間にか刹那の横で少年の姿に具現化した伊弉諾いざなぎが警告する。


「あんたまた勝手に……まぁいいわ。とにかくこっちの目論見通り侵入成功ってことでいいわよね?」

「うむ。まぁ『囚われた』と言った方が正しいかもしれんがな」


 刹那の言葉に頷きながら、しかし伊弉諾いざなぎは視線を動かさないままだった。一同は自然と彼の視線の先に注目する。


「女の、子……?」


 そこには白装束の何者かが佇んでいた。

 被衣かつぎのようなもので顔を隠しているが、身なりや体格からしてそれが少女だという事は何となく見て取れる。ただ全く気配を感じない。黒一色の世界で白い衣服は嫌でも目立つ。なのに景色と同化しているように感じて意識しなければ焦点がずれてしまうのだ。まるで蜃気楼。いっそ幽霊と言われれば信じてしまうかもしれない。


「余の妻、伊弉冉いざなみだ。もっともは随分様が変わっているようだが」

「んー、どういう意味?」


 どこか含みのある伊弉諾いざなぎの言葉に燕儀は首を傾げる。


「前にも説明しただろう? 余やあれを含め、魔遺物レムナントはアベルが討ち取れなかった神の権能の一部を簒奪したものだと。故に余のように記憶と意識をはっきりと持つ者もいれば、あれのようにを持たず役割と権能だけで成立している者もいる」


 おそらく彼があの伊弉冉いざなみの事を頑なに『あれ』と呼ぶのは、そこにかつての彼女の面影が見えないからなのだろう。伊弉冉いざなみそれそのものであることは間違いないのだろうが、魔遺物レムナント故の不完全性と途方もなく永い時間が今の彼女を別の何かに変質させてしまったのだ。


「何にせよ人の形で現れたって事は、俺らと口を利く気があるってことでいいんだよな?」

「……」


 YesともNoとも答えない伊弉諾いざなぎに痺れを切らしたカインは一人、伊弉冉いざなみの方へと歩いて行った。


「おいガキ、さっさと――」

「ちょ、カイン!? 待ちなさい……って、は?」


 しかしそこで、彼を止めようと伸ばした刹那の手が止まる。


「……ッ!?」


 刹那達の前を歩いていたはずのカイン。

 しかし


「え、えぇッ!? 今、カイン君まっすぐあの子の方へ歩いて行ったよね!?」


 レイナが言うように他の者達も全員、カインが少女の姿をした伊弉冉いざなみの方へ歩いて行くのを間違いなく見ていた。なのにそんな事実がまるで嘘であったかのように、彼は今刹那の横で立ち尽くしている。


「言ったはずだ。ここは『腹の中』だと」

「……上等だ。どっちが上か分からせてやる!」


 カインは左手に腕輪の形状で装着した二つの神機ライズギアのうち、シャムロックを展開してその銃口を少女へ向ける。だが――


「ッ……!?」


 だがまたしても伊弉冉いざなみは彼らには理解できない『何か』をやってのけた。そしてその結果、カインの銃口の先には


「姉さん、これって……アレ、よね?」

「うん。たぶん海上都市で宗像一心むなかたいっしんが使ってた技と同じだね」


 ワーロックさえも手玉に取った確率操作能力。とある原因に干渉し、その結果を思うままに書き換える権能だ。


「当然だな。元よりあの男は伊弉冉あれの力を間借りしていたに過ぎん」

「えーっと、つまり……」


 伊弉諾いざなぎの言葉にレイナはやはり首を傾げる。そもそも彼女は当時の戦いを実際に目で見ていたわけではないので無理もない。


やっこさんが動いてくれるまでこっちは手詰まりってこと」


 そんな彼女に飛角はお手上げといった様子で両手を上げて補足した。




「………………伊弉諾命いざなぎのみこと




 しかし思ったよりも早く彼女の次のアクションはやってきた。


「ッ……!!」


 次の瞬間、伊弉冉いざなみは瞬間移動としか思えぬ速さで伊弉諾いざなぎの目の前に立った。そして彼女はそっと彼の腕を掴む。


「……私の伴侶……私の愛……やっと……迎えに、来てくれた?」

「な……ッ、おい! は、離せ!!」


 無表情かつ感情の枯渇した真っ黒な瞳で急に言い寄られ、伊弉諾いざなぎは思わず彼女の手を振り解こうとした。だが想像以上に彼女の力が強いのか全く振り解けないでいる。


伊弉冉いざなみ、でいいわよね? 私たちはあなたが創った海上都市に戻りたいの。道を教えてくれる?」


 黙って伊弉諾いざなぎの腕を掴む伊弉冉いざなみに刹那は慎重に近づき、彼女と目線が合うようにしゃがみ込む。


「主様、こやつは正気ではない! 話など――」

「……いいよ」


 ポツンと消え入りそうな小声、しかし確かにこの場の全員にその声は届いた。


「え……いいの?」


 伊弉冉いざなみは小さく首を縦に振る。彼女がスッと手を上げると、一行の目の前に真っ白な穴が浮かび上がった。入口の裂け目ゲートとは別種のものだ。


「随分とあっさりOKくれたなぁ。ちょっと拍子抜け。まぁ、話が早くて助かるけどさ」

「うーん、それが逆に怖いって思っちゃうけど……」


 楽観的な飛角とは対照的に燕儀は眉をひそめた。魔遺物レムナントを体に取り込んだ経験のある彼女にしてみれば、話がうますぎることに違和感を覚えたのだろう。


「思い浮かべて……欲する場所を」


 細く、白い指先で白い少女は道を示す。どうやらこの先に行けということらしい。


「分かったわ。ありがとう」


 刹那は小さく微笑み、白い少女に礼を言った。しかし立ち上がろうとした彼女のコートの裾をその少女が掴む。


「ここに、置いていって」

「えーっと、何を?」

「私の……伴侶」

「な……ッ!?」


 伊弉冉いざなみの要求に伊弉諾いざなぎの表情が青ざめた。


「って言ってるけど?」

「た、たわけッ!! 余が主様の手から離れるなど――」

「置いていって」


 伊弉冉いざなみは再度、しかし今度は少し強い語調で迫った。どうやら夢幻の世界を開く条件として要求しているようだ。


「……困ったわね」

「別にいいんじゃねぇか?」


 迷っている刹那にカインがこう説明した。


「今は俺の魔力で……つーかこの右腕の力を使ってこの空間は構築されてる。だから俺が魔力の供給を切れば伊弉冉こいつの力も失われる。そうなれば最終的に刀は現実に戻ってくるさ」

「うーん……」

「小僧ふざけるなよ!? 何故余がそんな事を――」


 刹那はしばらく顎に指を当てて思案する。その間も伊弉冉いざなみは決して伊弉諾いざなぎの手を離そうとしない。


「よし分かった。置いていきましょう」

「主様!?」

「後でちゃんと迎えに来てあげるから。留守番、頼んだわよ?」


 そう言って軽くウインクしてみせた刹那は腰に差した刀を抜き、白い少女の両手にそっと置いた。


「……ありがとう」


 ずっと無表情だった伊弉冉いざなみがそこでやっと小さく微笑む。幸せそうに刀を抱きしめていた。


「じゃ、行ってくるわ」

「主様!」

「文句なら聞かないわよ? 今はこれしか方法ないじゃない」

「違う。よもやこうなっては仕方がない。余も腹を括ろう。例え余の力が失われようとも、主様の強さを疑いはしないさ。だが――」


 伊弉諾いざなぎはそっと顔を刹那に寄せ、小さく耳打ちした。


・2・


「行ったか」


 刹那達一行が裂け目ゲートを通ったことをその目で確認した伊弉諾いざなぎはひとまずは安堵する。

 伊弉冉いざなみはそんな彼の背中にべったりと抱き着いていた。


「私の愛……一緒、嬉しい」

「言っておくがお前のその感情はただの残り香にすぎん。かつての在り方を模倣するだけの存在を余は認めん」

「?」


 くっつく少女を引き剥がし、伊弉諾いざなぎはキッパリとそう宣言した。しかし当の本人は言葉の意味を理解できていないのか首を傾げるだけだ。


「……まぁいい。それより一つ聞きたいことがある」

「……何?」


 伊弉諾いざなぎは足場も見えない虚無の空間に胡坐をかく。伊弉冉いざなみも合わせるようにゆっくりと腰を下ろした。


「……茶番?」

「とぼけるな。確かにお前はかつての伊弉冉いざなみではない。だが自我を持たぬ訳ではないだろう?」


 おそらく彼でなければ気付けないほんの些細な事だった。ただ在り続けるための機械ではない。明確な感情を彼女は持っている。後にも先にもこの世で最も伊弉冉いざなみの事を知り尽くしているからこそ、その存在を断言できる。


 彼女のを。


「フフ……フフフ……」

「何がおかしい?」


 次の瞬間、おままごとはこれで終わりとでも言うように白い少女の雰囲気が180度ガラリと変わる。白装束はまるで墨を染み込ませたように滲んでいき、彼女は恍惚とした表情を浮かべていた。


「いえ、わらわは嬉しく思います。貴方様が誠、変わらぬことに。それでこそわらわわらわを追いかける意味があるというもの」

「責めはせん。だが控えめに言って最悪だな」


 かつてより、この二神の間には致命的な溝が存在する。


 片やその怒りで日に1000の命を奪うと謳った。

 片やその哀れみで日に1500の命を創ると返した。


 伊弉諾いざなぎは一貫して闇へ落ちる彼女を責めることはせず、ただその怒りを受け止め続けた。真に責められるべきは最初に彼女に背を向けた自分だと分かっていたからだ。

 だが、今回ばかりは事情が違う。


「主様たちをどこへいざなった?」

「さぁ? それはわらわにもわかりません。わらわが与り知るのはあの者たちが各々『必要な場所』へ向かわれたことのみゆえ」


 伊弉諾いざなぎはスッと眉をひそめた。


「これは試練なのです。わらわを使役するというならそれ相応の力を示していただかなければ。そうでしょう? 旦那様」

「……」


 沈黙は肯定と同義。

 人間ごときが神を使うと大言壮語を吐くのだ。当然と言えば当然の道理だろう。


(全く……もう少し無垢な女子おなごに生まれ変わっていればよいものを。まぁそれだけ過去の資格者に恵まれなかったということか)


 幸い助言はした。

 今更主を心配しても遅いし、する必要もない。

 今できることはただ座して待つのみ。

 再び口を開けたこの悪夢が終わるその時まで。

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