行間2-6 -繋ぎ止める手-
「ここ、は……」
そこは何もない世界だった。
地平線は見えない。しかし遮蔽物もない。
風もない。光もない。匂いもない。
太陽や星といった目印になるようなものさえ一切の例外なく。
目に映る景色は黒ただ一色。
本当に――何もない。
暗くて、寒くて、そして何より気持ち悪い。
そう感じるのはきっとそう……ここが何者かの『胃袋』の中だからだ。
チリチリと肌を焼くようなこの感覚。この世界全てが吉野ユウトというたった一人を喰らおうと今もなお蠢いている。
「……ッ」
ユウトは一歩だけ前へ踏み出す。
(重い……)
まるで水に足を取られたような鈍い抵抗感。それでも彼はそれに逆らい、一歩、また一歩と歩を進めていく。どこか当てがあるわけではない。これはただ積み重なっていく不安を払拭するための行為でしかなかった。
「ッ、誰かいるのか?」
しばらく歩くとこの世界で最初の外的刺激を感じ取った。直後、水を得た魚のように、死んでいたユウトの全感覚器官が目を覚ます。
(……泣いてる?)
徐々に近づいているのか、声はどんどん鮮明になっていく。そして視界に米粒大の何かを捉えたその時、まるでカメラのフラッシュライトを直視してしまったように視界が一瞬真っ白になった。思わず瞼を閉じたユウトが再び目を開くと――
そこにはたった一人、薄汚れた少女が座り込んでいた。
(この光景、どこかで……)
少女は血の涙を流す。
黒い空を見上げ、まるでその先にいる『何か』を呪うように。
何故だか分からないが、その憎悪が、その悲哀が、痛いほどよく分かってしまう。あたかもユウト自身が少女の境遇に立たされているかのように。
「……グスッ……お願い……一人に、しないで……」
想像を絶する孤独感。それはもはや飢えにも等しい苦痛。
ゆっくりと、そして確実に、内側から体と心を蝕んでいく呪いだ。
「く……ッ!」
そんな終わりなき地獄の苦しみに耐えられなくなったユウトは気付けば走り出していた。しかし、そんな彼の手を寸前で何者かが掴む。
「……ッ!?」
「ダメだよ」
ユウトは思わず振り向いたが、それが誰なのかは分からなかった。正確には認識できなかったと言った方が正しいかもしれない。その人物はぼんやりと白い光に包まれていて、かろうじて輪郭が分かる程度。顔はよく見えなかったから。
「そっちに行っちゃダメ。帰れなくなっちゃうから」
「でも……ッ」
泣いている少女の強すぎる思念に支配されてしまったユウトには、彼女を放っておくという選択肢は選べない。常に頭の中にあるのは少女を救いたいという気持ちではなく、救わなければならないという強迫観念めいたものだ。
だがだからこそ、彼の手を掴む腕はそれを決して許さない。
「大丈夫だよ。——ならきっと」
「え……」
一瞬、声にノイズが走った。しかしそれでも途切れてしまった彼女の言葉をユウトは理解することができた。耳でも脳でもなく、心で感じ取った。
「あの子は確かにここにいるけど、ここにはいない。だから今じゃないんだよ」
「? どういう——ってちょ……ッ、待て!?」
有無を言わさず、声の主はユウトの腕を力強く引っ張った。
あの少女との距離がどんどん広がっていく。不思議なことに距離が離れるのに比例して、ユウトも冷静さを取り戻していった。もうあの渇くような衝動はない。
そしてもう一度この真っ黒な世界を前にした時、ユウトは自分の周囲に大小様々な光の球体が浮かんでいることに気が付いた。
「行って。みんな待ってるよ」
逆光で見えない表情。しかし何となくだが今、笑いかけられたような気がした。それはとても……とても懐かしい情景。
「お前は——」
そう思ったのも束の間、この悪夢は突如終わりを迎える。
周りを漂っていた光はユウトの体を優しく包み込み、あっという間に彼の視界を真っ白に染め上げた。自分が今どんな状態なのか分からない。ただ上を目指していることだけは間違いない。
深い海の底から、地上へ。
少年は徐々に大きくなっていく声を頼りに浮上する。
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