第59話 追憶 ~黙示録~ -The Last Day-

・1・


 カインは走った。

 炎の灯りだけを頼りに、暗い通路を駆け抜けていく。


「……ッ、くそッ!!」


 足の感覚がない。自分がちゃんと走れているのかさえ定かではなかった。それでもおぼつかない足を何とか必死に動かすことだけに意識を集中させる。

 信徒たちの命令で、あの時リサはカインの命を奪わなければならなかった。



 だが、彼女はそうしなかった。できなかった。



 リサは咄嗟にカインに掛けた拘束魔術を解き、両手両足の拘束具も剣で破壊した。彼女はヨハネに背いたのだ。

 裏切り者となった彼女を教団の信徒たちが許すはずもない。すぐさま戦闘態勢に入った二人の信徒を前に、リサは手近にあった扉からカインの首根っこ掴んで外へ放り出し、鍵を閉めてしまった。

 そういった経緯があり、カインは今まさに別の入り口を求めて奔走している。


「バカ野郎が……ッ!」


 リサはずっとカインを騙していた。彼だけではない。シルヴィアも、騎士団も、酒場の客たちも、この国さえも。

 ヨハネの神託の戦士。それが彼女——リサ・ストラーダの正体だ。

 だけど彼女と共に過ごしたあの日々までもが全て嘘だったとは思わない。思えるはずがない。本当に偽りだったのなら、あの時カインを逃がすなんて愚を犯すはずがないのだから。

 であれば、今すべきことは考えるまでもない。このまま彼女を見捨てるなんてクソッたれな選択肢を選ぶほど、カインは腐っていない。


(とにかく今は武器だ。こんだけ広いんだ。剣の一本や二本くらいあんだろ!)


 剣さえあれば戦える。

 そう考えた直後、曲がり角で彼は白礼服の信徒二人と鉢合わせてしまう。


「な……ッ!?」

「ッ!!」


 相手に反撃する暇も与えず、カインは右の信徒の喉元に手刀を差し込み、そのまま間髪入れずに下がった頭部を上下から肘と膝で挟むように殴打して意識を刈り取った。そしてもう一人の顔面を異形の右腕で掴み、全力で壁に叩きつける。


「武器……よしあった!」


 倒れた信徒から長さ1mほどの直剣を奪い取ったカインは、左手で掴み何度か振って具合を確かめる。そして問題がない事を確認すると、彼は通路の先に視線を移した。その時――


「……ッ!? 何、だ……?」


 突然、右腕に刺すような痛みが走った。

 まるで腕全体に杭がいくつも刺さったような感覚。見ると右腕に所々見える亀裂から、マグマが如き赤い光が零れ出している。今まで何度かこういった経験はあった。そのほとんどは主にカインの感情の昂りに起因していた。

 だが今回は少々いつもと様子が違う。まるで右腕は何かを求めるようにギラギラとした光を放っている。そしてカイン自身も『飢え』に似た感覚に襲われ始めていた。


「あっち、か……」


 原因はこの先にあるらしい。特別何かを感じたわけではない。だが何故だか無性に引き付けられてしまう。

 武器を手にした今、カインは一刻も早くリサの元へ戻らなければならない。しかし狂ってしまいそうなほど激しい飢餓はそれを許さない。彼は異形の右腕に導かれるように、光の先へと歩み始めた。


・2・


「まもなく完成する……我らの天使が。ククク……ハハハハハハハッ!!」


 右腕に導かれ、カインが辿り着いた場所は開けた工場のような場所だった。そしてその中心にグレゴリー司祭は立っていた。彼は眼前にある円柱状の水槽から目を離し、カインを視認する。


「おや? 君はリサ君の……なるほど、彼女は我らを裏切ったのか」

「グレゴリー!!」

「フン、まぁいい。どうせいつ壊れるかも分からん欠陥品だ。王女の生き血を持って帰っただけでも上々か」


 その言葉に、全身の血が沸き立った。

 懺悔も後悔も必要ない。こいつは今ここで殺す。カインの頭の中にはそれしかなかった。

 彼が左手に持つ剣を構えたその時、空気が震えた。


「何だ!?」

「おぉ! おぉぉぉッ!! ついに……ついに生まれるぞ!!」


 まるで心臓の鼓動のように規則的に感じるこの波はまさしく胎動だ。そしてその震源は司祭の背後にある水槽――その中にこそあった。


「……女?」


 直後、それは爆ぜた。

 水槽のガラスを突き破り、今まさに生まれ落ちたのは少女の姿をした『何か』。2メートルは優に超える白銀の長い髪に、輝く翡翠の瞳。光は収束し、8枚の翼を組み上げていく。そして最後には少女の頭上に王冠の如き神々しい光輪が浮かび上がった。


「天使……これが……」


 誰が見ても畏怖し、崇め奉るであろうその姿は神話の中の天使と呼ぶより他ない。

 生まれたばかりの名も無き天使がカインを見たその時、彼の右腕が明らかに異常な反応を示した。


「……っ……こいつのせいかよ」


 ガタガタと壊れた機械のように震える右腕。それは恐怖か、それとも歓喜か。いずれにしてもこの疼きはカインの意思ではない。


「素晴らしいだろう? 王女のDNAを基に魔具ヘファイストスで組み上げた肉体を霊媒とし、禁忌とされる古の神聖術カレイドライトでより高次の生命体へと進化させた」


 司祭は雄弁に語る。

 大昔に考案された『天使化』の術式。それはその次元へ至ったという結果だけを求めた欠陥魔術。人間程度では到底体が耐えられない。例えその先に足を踏み入れることが叶ったとしても、魔力は臨界点を超え、存在そのものを燃焼してエネルギーを拡散させる。つまりは大量破壊兵器をも超える爆弾と化すのだ。

 しかし太古の神ヘファイストスを宿す魔具で作り上げた強靭な肉体を器とし、王女の力と合わせる事でその理を捻じ曲げる。本来成立するはずのないその結果こそが目の前の天使。人類が夢見た高次元の生命体だ。


「さぁ天使よ! その御力で以て我らに永遠の命と繁栄を授けたまえ!」

「永遠の……命だ? 大の大人が随分ガキっぽいこと言うじゃねぇか」

「無知蒙昧には分かるまい。誰もが一度は夢に見る願いにこそ真理がある。彼女は我らを神の国へと導く使者なのだよ!」


 天使は自分を仰ぎ見る司祭を見下ろし、そっと右手を伸ばす。その瞬間、司祭の体からいくつもの白銀の炎が噴き出した。


「お、おおぉ! これが浄化の炎……ぐ、ぐあああああああ!? あ、熱い!!」


 最初は歓喜していた彼だが、その後急に苦しみ始めた。


「あッ! 熱いッ! 熱いいいいいいいッ!」


 ただただ絶叫を続ける司祭。壊れたおもちゃのようにのた打ち回る彼を燃やす白銀の炎は、勢いを弱めるどころかさらに激しく燃え盛っていた。しかしいくら炎に蝕まれても絶叫が止むことはない。焼け崩れる肉体が瞬時に再生を繰り返し、絶命を許さないのだ。


「……チッ」


 司祭を助ける気など毛頭ないが、カインは天使に向かって走る。こんな化け物を野放しにするのはどう考えても危険だと瞬時に判断したからだ。彼に気付いた天使は8枚の巨大な翼を広げ、そこから無数の光を射出した。光は矢となってカインへと降り注ぐ。地面に突き刺さった瞬間、それらは巨大な破壊と紅蓮の炎をもたらした。


「ぐ、おおおおおおおおおおおおおおお!!」


 何とか第一波を全力で右へ走りながら躱すが、続く第二波までは避けきれない。すでに体は満身創痍。意識を保っていられるのが不思議なくらいなのだから。

 それでもカインは剣を構え、光矢を叩き落とすことで道を切り開こうと考えた。だが――


(な……ッ!?)


 剣の軌道は完璧だった。にもかかわらず彼の剣が光矢と衝突することはなかった。、カインの左肩を抉る。


「……ッッッ!!」


 声にならない激痛――そんな言葉では到底生温い。皮膚を裂く痛みが掻き消えるほどの熱が全身を駆け回る。神経、細胞の一つ一つが壊れていくのが分かった。


「この……ッ!!」


 突き刺さった光矢を右腕で強引に引き抜いた彼は、そのまま倒れ込むようにして射線上からギリギリ逃れることができた。もし痛みで判断を誤っていれば、今頃蜂の巣になっていただろう。


(剣をすり抜けやがった……どんな手品かは知らねぇが、もう一撃喰らったら……)


 確実に終わる。

 直感に頼るまでもなく、カインはそれを理解していた。


『ifhsf救jafidj』


 果たしてそれは言葉だったのか、人には理解できない情報がカインの頭に直接叩き込まれる。

 天使の右翼は巨大な光のブレードとなって天を裂く。次が来る――カインは無理矢理にでも頭を働かせた。

 接触不可能だった光矢は右腕で触ることができた。条件は分からない。もしかすると単なる偶然だったのかもしれない。だが触ることができるのなら、リサの拘束魔術を喰らった時ように右腕の力で防げるかもしれない。

 否、そんなことはどうでもいい。できなければ死ぬ。それだけだ。カインには今まで憎むしかなかったこの右腕を信じる以外に道は残されていない。


『■■jafh聖ggahd』


 天使は右手を上から下へ振り下ろす。その号令に連動するように巨大ブレードも天より落下する。工場の外壁を紙屑のように切り裂いてカインに迫った。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 前へ走った。そして右の拳で受け止める。

 激突の瞬間、手首の骨が折れた。だが痛みはなかった。それをもさらに上回る鋭い痛みが常に上書きし続けているからだ。人の脳はそんなありえない事態を認識できるように設計されていない。

 だがひとまず賭けには勝った。右腕はブレードを掴んでいる。そしてその力を喰らい、カインの体にエネルギーとして変換する。ここまでは想定の範囲内。問題はこの状態から抜け出せないことだった。巨大ブレードを片腕のみで防げているのは、他ならぬそのブレードから永続的に力の供給を受けているからだ。それをやめれば、当然この均衡も崩れる。


(なら一か八か……ッ!?)


 覚悟を決め、天使を見たカインは息を呑んだ。

 天使は振り下ろす力を一切緩めることなく、右翼を切り離したのだ。そしてもう一方の大翼を展開した。


「冗談だろ……」

『sijfpo解vsojfie』


 そこから放たれるのは必滅の一矢。避けることはおろか、歯向かうことすら許されない。ここまで戦えたのはほとんど奇跡に等しいものだったが、もう本当にこれ以上手は残されていない。奇跡が起こる余地など微塵もない。


(くそ!!)


 目を瞑った。1秒後に訪れる死を覚悟して。

 しかし――


「……ッ!?」


 絶対の死が訪れることはなかった。矢はカインの胸を貫いていない。


「……何、で……」


 目の前にはリサが立っていた。

 灼熱の光矢に胸を貫かれ、彼女の口元からは止め処なく赤い血が流れている。


「……ハ、ハハ……何で……って……そんな、の……ゴブッ!!」


 吐血したリサは崩れ落ち、カインにもたれ掛かった。


「リサッ! おいリサ!! しっかりしろ!!」


 カインはすぐに右腕で彼女の胸の光矢を引き抜く。幸い……とはとても言えないが、熱が肉を溶かしたことで止血はされていた。だが無意味だ。すでに矢は彼女の心臓の半分以上を消滅させている。


「……へへ……」

「何満足そうな顔してんだよ!! ふざけんなよ……ッ」


 リサは血みどろの手でカインの頬を撫でる。そしてこう言った。


「ごめん、な……カイン」


 懺悔。そんな言葉を彼女の口から聞きたくない。


「色々……偉そうに言ったけど、全部……私への戒めだ……どこまで行っても、私は殺すことしかできない戦士だから……結局、お前にも同じ道しか……示せなかった」

「いいから黙ってろ! こんなとこで死んだりしたら絶対許さねぇぞ!!」 

「馬鹿みたいだよな……こんな私でも、人の親になれば……何かを……変えられるって……」


 虚ろな目でカインを見るリサは口を閉じない。残された時間でカインに思いを伝えるため、壊れたオルゴールのように言葉を奏で続けた。


「泣いてる、のか? ハハ……相変わらず泣き虫だな。ダッセー」

「全部あんたのせいだろ! あんたが俺に……『家族』を教えてくれたからッ!!」

「家族……か。ちゃんと、なれてたのかな? お前の親に……」

「あぁ! ムカつくがあんたは俺にとって最高の母親だ。これまでも、これからも。だから生きることを諦めないでくれ! 頼むから……」


 リサはカインの右手にそっと手を伸ばし、そしてゆっくりと握る。


「ほら……こうやって私とだって手を握れるんだ。お前は……悪魔なんかじゃない。そうだろ?」

「勝手なこと言うなよ……あんただから! あんただから俺は人間になれたんだ。あんたのいない世界で俺はどうやって生きればいいんだよ……ッ」


 涙なんて今まで流したことがない。どんなに痛くても、悔しくても、泣いたところで現実は変わらない。それを理解していたから。

 だがこの時カインは身をもって初めて知った。例え意味がなくても、例えみっともなくても、堰き止めきれない感情は存在するのだと。


「大丈夫さ……お前の人生はまだ始まってすらいないんだ。これから何だってできる。何にだってなれる……何度だって立ち上がれる。だってお前は、私の――」


・3・


 その後の事は正直、はっきりとは覚えていない。

 覚えているのはこの世で最も大切な人間を失ったこと。そしてその怒りを胸にがむしゃらに叫び、天使を機能停止に追いやったこと。断片的な記憶はあっても、今でもあれはただの夢だったのではないかと疑いたくなる。

 後で知った話だが、カインは王国の外――海に浮かぶ流氷の上で倒れていたらしい。たまたま近くを通った船の船員に救助され、死なずに済んだ。


 体が全快してからは傭兵となり、各国の戦場を渡り歩く毎日が2年ほど続いた。カインにとって敵味方、勝利や敗北など関係ない。生きる目的を失った彼はただ死に場所だけを求め続けていた。世界中のあらゆる危険地帯をその足で走り続け、ただ目の前の敵を容赦なく屠っていく。いつか誰かが、ブレーキの壊れたこの愚かな自分を止めてくれると信じて。

 そんなことを続けていると、皮肉にも彼はその界隈では『悪魔』という二つ名で囁かれるようになった。


 そしてさらにその数年後――

 カイン・ストラーダの運命はようやく大きな転換点を迎えた。

 吉野ユウトと宗像冬馬むなかたとうま。二人と出会い、止まっていた彼の世界は再び時を刻み始めるのだ。

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