第58話 追憶 ~覚悟と選択~ -The truth in the fake-
・1・
その日は結局、酒場『クローバー』を開くことはなかった。
店主であるリサがいくら待っても戻って来なかったからだ。彼女が帰ってきたのは深夜22時を過ぎる頃だった。
「……ただいま~」
ものすごく小さな声で店のドアを開けるリサ。彼女がそっと扉を閉めたその瞬間、店の明かりが一斉に点灯した。
「!?」
「……何してやがった?」
「何だよ、カインか。てっきり幽霊でも出たかと思っちまったじゃねぇか」
「質問に答えろ」
「ッ、……悪かったよ」
自分に非がある事を自覚しているからなのか、カインに問い詰められたリサは少しだけしゅんとした表情を見せる。
「あー、あれだ。ちょっとした野暮用だよ。騎士団時代の恩師に頼まれたんだ」
「……」
カインは険しい表情を崩さず、無言でリサを見下ろす。そして急に彼女の体を抱き寄せた。
「うぇ……ッ、何!? おいおいどうした!?」
「ちょっと黙ってろ……」
「……」
カインの抱きしめる力がより一層強くなる。彼自身でさえよくわからない感情がそうさせた。
カインにとってリサ・ストラーダは特別だ。保護者、母、姉、師……そのどれでもあり、どれでもない。
「ったく、でかくなってもお前はやっぱガキだな」
「……うるせぇ」
それでも一つだけ確かなことがある。
それは頬に触れる彼女の手の温もり。無機質な灰色一色だったカインの世界に色を与えてくれたこの手を、いつしか彼は
・2・
その夜――
日付が変わり、すっかり静まり返った大通りを一人歩く影があった。
全身を黒いローブで覆い、フードを被って顔を隠すその人物を誘うように、魔術で動く
しばらくすると、とある建物の前で足を止めた。
どこにでもあるような小さな教会。どうやらここが目的の場所のようだ。その証拠に光の蝶は目の前で静かに霧散した。加えて屋内に人の気配も感じる。
フードの人物はゆっくりと教会の扉を開いた。
「ようこそ。待っていましたよ」
中で待っていたのはグレゴリー司祭。事実上、ヨハネの神託の最高指導者。こんな時間に、こんな場所で一人でいるにはあまりにも不自然な立場の人間だった。
「早速で悪いが、
グレゴリー司祭は普段とは明らかに違う興奮気味な声音でそう言った。
しかし——
「ったく、悪い予感ばかり的中しやがって」
「!?」
悪態をつきながら彼はローブを脱ぎ捨てた。
「き、貴様は……ッ」
そこにいたのは王女を襲撃した刺客——リサ・ストラーダではない。
「司祭様がこんな所で密会か? いや……そんな事はどうだっていい。テメェに聞きたい事は一つだけだ」
カインは静かに、しかし今にも爆発しそうな怒りに満ちた声で剣を抜く。
修行で使う模擬刀ではない。振るえば簡単に命を奪える本物の刃だ。
覚悟はもう決めている。
「テメェ、リサに何をさせやがった?」
超えてはならない一線を目の前の男は超えた。
理由はそれだけで十分だった。
・3・
リサを抱きしめたあの時、カインは気付いていた。
確かに血の臭いは丁寧に隠されていた。だが彼女の体にはあの筆舌に尽くし難い独特な臭いが僅かに残っていた。皮膚を裂き、内蔵を抉り、人体の深奥から漏れ出す腐臭。
そう、あれは間違いなく死の臭いだ。
確実にリサは数人と剣を交えたはずだ。最悪、誰かの命を奪った可能性もある。そして時を同じくして飛び込んできた王女襲撃の知らせを踏まえて考えると、襲撃者の正体が彼女であることは容易に想像できた。
信じたくはなかった。だが彼女の目を盗み、部屋に残された手紙を頼りにここに辿り着いたことで疑念は確信に変わった。
「……クク……ククク」
「……何がおかしい?」
相手が魔術師としてどれほどのものか定かではないが、それでもおそらく自分の方が強い。策を弄される前に正面から仕掛ければ勝てる。リサ仕込みの観察眼はそう結論づけている。
だがそれでも司祭は笑っていた。まるで自らの勝利を疑わないかのように。
「リサ君に何をさせたか、だと? なるほど、君は本当に何も知らないのか」
虫唾が走る下品な嗤いを堪えるその姿は、人々に神の教えを説く聖職者のそれとはあまりにかけ離れていた。これがこの男の本性。
「そんなに知りたければ本人から聞くといい。君もその方が信用できるだろう?」
「何を——ッ!?」
声を出そうとしたその瞬間、カインの背中に衝撃が走った。
「ぐ……ッ、が……ッ!?」
視界が明滅する。直後、一切の抵抗を許されず、カインは地面に突っ伏した。
「お前にしては珍しい失態だな」
「……」
「フン、まぁいい、拘束しておけ。今はその小僧に構っている暇はない」
「……わかった」
声。聞き覚えのある声だ。
彼女が今、後ろにいる。
(何、で……)
薄れゆく意識の中、カインが最後に目にしたのは、見たこともない冷たい瞳で自分を見下ろすリサの姿だった。
・4・
「……つ……ッ」
どれだけ時間が経っただろうか?
意識を取り戻したカインの目に最初に映ったのは、薄暗い部屋の暖炉で揺らめく炎だった。
「ここ、は……」
椅子に座らされていた。両腕を後ろで縛られ、さらに魔術による拘束も掛けられている。カインの右腕を考慮した上での最適な方法だ。
「目ぇ覚めたか」
「リサ……」
暖炉の前に座るリサ・ストラーダは、剣の手入れをしている最中のようだ。
いつもの破天荒な雰囲気はどこかへ消え失せ、炎が照らす暗い瞳はカインの知らない彼女の姿だった。
「……どういうことだ?」
「どうって?」
リサはカインを見ようとせず、黙々と剣を研ぎ続ける。
もうとっくに済んでいるはずなのに。
「とぼけんな。アンタはそんなじゃないだろ!? 何で――」
「何で王女を襲ったか、か?」
リサに先を言われ、カインは言葉を失う。
彼女は困ったように頭を掻きながら、こう答えた。
「私は元々ヨハネの人間なんだよ。生まれた時からずっとな。だから司祭の言う事には従う。騎士団に入ったのもあの人の指示だった。内部から情報を流すためにな」
「何だよそれ……」
彼女の本当の姿。
それはヨハネの神託が送り込んだ
「まぁ、この傷を負ってからは間者としての役割も果たせなくなって、しばらくお役御免だったんだけどな」
リサは自身胸元を擦りながらそう言った。心臓の血栓の事はカインも知っている。それが手術では取り除けないことも。昔、本人から聞いた。だが同時にずっと引っかかっていたこともある。
「確か王女はどんな傷も癒す力を持ってたはずだ。役目を果たしたかったなら何で頼まなかった?」
カインの問い掛けに、リサは自嘲めいた笑みを浮かべる。
「頼んださ。治療もしてくれた……その上で、治らなかったんだよ」
「……は?」
「本人が気付いてるかどうかは知らないが、あの王女様の力は治癒じゃねぇ。おそらくもっと別の何か……まぁ何にせよ、私は対象外だったのさ」
カインは次の言葉を見つけることができなかった。
傷が治らなかったから彼女は間者を続けることができなくなった。だがその変わり、いつ急変するかもわからない爆弾を心臓に抱えている。仮に逆だったとしても最悪だ。どっちがマシだったかなんて言えない。憤りの捌け口も見つからない。
「ったく、普段はクールぶってるくせに甘ちゃんだなお前は。今更私の心配なんて必要ねぇだろ?」
「……うっせーよ」
「フッ、でもまぁ、治らなかったおかげでお前に会えた。面白いよな、人生ってやつは。何が起こるか分からねぇ」
ようやくだ。ようやくリサはいつもの天真爛漫な笑みをカインに見せた。だがそれが引き金となり、彼の感情は決壊する。
「何なんだよアンタは! 意味わかんねぇ……ずっと俺やシルヴィを騙してたなら……悪人なら悪人らしくしろよ! じゃないと俺は……俺、は……」
恨むことさえできない。
「……カイン」
「ヨハネは……あの
「万人を分け隔てなく救済する『天使』の創造。実現できるかどうかはさておき、その完成のために王女の聖血が必要なんだと」
言っている意味が全然理解できなかった。
万人を救う? 天使? そんなもののためにようやく見つけた居場所が壊されたのか?
「もうじき外は危険になる。聖血が手に入った以上、司祭は事を起こすだろうからな。だからそれまではここで――」
「ストラーダ、入るぞ?」
その時突然、鉄扉の向こうから声が聞こえてきた。
入ってきたのはヨハネの白い礼服を纏う信徒二人。顔を隠しているが、体格から見て男と女だ。彼らはリサの前に立つと、懐から取り出した書状を彼女に渡した。
「グレゴリー司祭様からの指示だ。予定通り、我らは聖戦を執行する。お前は騎士団に潜り込んだ同胞を束ね、王城を落とせ。
「……了解」
溜息を吐きながらリサは女の信徒から書状を受け取った。
「行くなリサ! 聖戦!? ふざけんなッ!! そんなのアンタの心臓が持たねぇ! そんな事、自分が一番分かってんだろ!!」
ガタガタと固定された椅子を必死に揺らし、カインは叫んだ。しかしリサは背を向けたまま振り返らない。
「ん? 何だこのガキは?」
「小僧、我らの聖戦を愚弄するか?」
大柄な男がカインの前に立ち、思いっきり彼の顔面を殴りつけた。避けることも許されずまともに受けたカインの血が壁に飛び散った。
「お、おい!」
さすがに見過ごすことができなかったリサは大男の腕を反射的に掴んだ。
固定が外れ、床に倒れたカインの目は男を睨んだままだった。憎悪に燃える瞳に呼応するように、彼の右腕から黒い瘴気が立ち上っていく。その瘴気はリサの拘束術式を侵食し、徐々に消滅させていった。
「……ッ、術が……喰われてるのか!?」
「その右腕……覚えがある。何年か前に巷を騒がせた『悪魔の子』だな?」
女の信徒の言葉に、男の信徒はカインを見下ろす。そして彼は床に落ちた剣を拾い上げ、リサに渡した。
「……何の冗談だ?」
「ここで始末しろ。司祭様の計画の障害となるものは全て排除しなければならない。それが例えガキだろうと例外は認めない」
「……ッ」
しばらく沈黙した後、リサはゆっくりと、恐る恐る剣に手を伸ばした。
「リ、サ……」
「……」
男の一撃が効いているせいか、カインの視界はまだグラグラと揺れている。そんな彼の前でリサは立ち止まった。
そして――
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