第34話 夢に焦がれて -A stray cat wanna know outside the jail-

 真っ黒で静かな空間。

 少女は体を丸めて、蹲っていた。


(……何も見えない……何も聞こえない……何も感じない……)


 よくよく考えてみれば、それは少女の日常と何ら変わりはない。


 変わることのない日常。

 向けられる奇異と憎悪の視線。

 居場所なんてどこにもない。


 全てを諦め、感情を殺し、五感を閉ざす。

 ただ命令に従うだけの機械でいなければ、とっくの昔に壊れていた。


 喜びなんて知らない。

 楽しさなんて必要ない。

 夢なんて――




「真紀那!!」




 少女――夜式真紀那やじきまきなは、この虚無の中で初めての刺激こえにピクリと反応した。


「吉野……さま……」

「よかった。ようやく見つけ――」


 ユウトが手を伸ばしたその瞬間、真紀那は目の色を変える。闇を斬り裂く鋭利な爪が彼に襲い掛かった。


「ッ、うわッ!?」


 足場を認識できない暗闇の中、ユウトは何とか彼女から距離を取る。そして膝を付いた。

 鵺の中に入り込んだユウトは実体を持たない、いわば精神だけの存在だ。掠った程度の痛みでさえ、かなりの苦痛を伴う。当然だ。何せ肉体という最大のからは存在せず、魂を直接抉られるのだから。


「こんなところまで……何をしに来たんですか?」


 髪の色と同じ、濡羽色ぬればいろの猫耳と尻尾。それ以外は何もない。真紀那は一糸纏わぬ姿で、急激に伸びた爪を仕舞う。

 どうやらこの空間では、彼女は魔具アストラとしての『鵺』の力を自由にできるらしい。


 百獣混在――それはこの地球ほしに生ける『全ての生物の能力』を行使できる力。


 古来より人は自分たちと違うもの……異物を怖れ、排除してきた。

 鵺とは、そうした怖れの集合体。人によって恐怖の形が違うからこそ、ここまで肥大化してしまった。人が人である以上、これは必定だ。


「何って、助けに来たに決まってるだろ!」


 頬の傷口から血を拭いながら、ユウトは少女を見据えた。


「私は……ここで朽ち果てたい。ここなら何も考えなくていい。怖くない……」


 真紀那は自分の体を抱きしめながら、震えている。


「……ダメだ。帰るぞ」


 それでも、その望みをユウトは強く否定した。


「私の望みをッ! ……あなたは叶えてくれるんじゃないんですか? 私はここで死にたい! もう外は嫌なんです! 怖いのも痛いのも我慢するのも全部嫌!!」


 少女は慟哭する。

 ここには彼女を守るころす殻はない。抑えを失った剥き出しの感情。きっとこれが今まで目を逸らし続けてきた彼女の本当の気持ちなのだろう。


「それでも……それでもあなたは、私にここから出ろと言うんですか?」

「あぁ……そのつもりだ」


 その言葉を聞いた瞬間、真紀那の目は殺意に彩られた。


 


(ッ……囲まれてる)

 闇の中で蠢く無数の眼光。全方位から何かに見られている。

 ここは真紀那の深層心理そのものだが、同時に何百年と鵺の中に積もり続けた夜式の怨念が集約する場所でもある。

 一つ一つの視線が、彼女と同じ……またはそれ以上の理不尽を味わった魂たち。

 そんな彼らの視線は、ユウトに絶えずこう訴えかける。


 ――死にたくなければここから出て行け、と。


「余計なお世話です! そんなの私は望んでない! 私が忌み子だからですか? 私が憐れだからですか!? 可哀想な私を助けて自己満足に浸りたいだけでしょう!?」

「……フッ」

「!?」


 突然ユウトが噴き出したので、真紀那は虚を突かれて黙り込む。


「……何が……おかしいんですか?」

「ああ、ごめん。いや、だって自分の事、『可哀想な子』だって自覚はあるんだなって」

「……え……」


 真紀那は何も言い返せなかった。

 自分が憐れだと、それを自分自身が自覚していることに、今初めて気が付いたからだ。


「俺にはさ、どうしても救いたい友達がいるんだよ」

「……」


 ユウトは唐突に遠くを見るような、どこか懐かしい眼差しで話を続ける。


「俺はいつも彼女に助けられてばっかりだった。だから少しでも追いつきたくて……その隣に胸を張って立ちたくて……必死で自分が誇れるものを探してた」


 吉野ユウトという人間が存在する唯一にして絶対的な価値。

 それさえあれば、彼女に相応しい自分であれると思い込んでいた。


「けどさ、結局彼女も普通の女の子だったんだ。最初から俺にそんなもの求めてなかった。欲しかったのは普通の女の子としての当たり前の幸せ。それだけだった。なのに俺の勝手な空回りが彼女をずっと苦しめて、挙句大勢のための犠牲になる道を選ばせてしまった」


 ユウトはほんの一瞬苦しげに笑い、そしてすぐに真剣な面持ちで真紀那と向かい合う。


「確かに君の言う通り、これは俺の自己満足……ただのエゴだ。あの時助けられなかった友達と君を、俺は心のどこかで重ねてる。それでも! ……俺は君を助けるよ」

「どうして……」


 嗚咽おえつ混じりの小さな声で、真紀那は尋ねた。

 気付けば数多の視線は消え、彼女の殺意も鳴りを潜めていた。

 残ったのは、肩を震わせて怯える少女一人だけ。



「自分を犠牲にしようとしてるヤツを見て、放っておけるわけないだろッ!!」

「……ッ」



 怒号に言葉を詰まらせる真紀那。その表情でユウトは確信する。

 。あの時と。

 きっと真紀那の言う『死』は、本当の死ではない。

 もしここで彼女の肉体が死ねば、鵺は新たな宿主を求めて世界に解き放たれてしまう。それが寄生型の魔具の性質。この里が人知れず封じ続けてきた災厄に他ならない。

 バラバラだった鵺を統合したことで、彼女も過去の真実を知ったはず。だから里の人間として、自分に課せられるべき御役目を理解している。


 彼女の言う『死』が意味するのは、詰まるところ精神の死。

 心を殺して、無に帰すということ。


 このまま進めば、真紀那の意識は本能のままに暴れる鵺と同化する。それはこの空間で鵺の力を自在に扱える彼女を見れば明らかだ。

 完全に融合を果たしたその時、怨嗟の海に沈んだ彼女が最後に望むのはきっと、鵺の完全停止。

 里を脅かす落とし子を鎮め、その上で彼女自身が人柱となり封印されることだ。


「自分さえ我慢すれば、他の夜式の人間は鵺の呪いから解放される。そうなればもう里に縛られる必要はない。夜式は自由になれる!」

「そこまで理解して――」

「けどそれじゃあ、君が救われない!!」

「……ッ!?」


 立ち竦む少女に向けて、ユウトはもう一度手を伸ばす。今度はゆっくりと。


「真紀那……君はまだこの世界の事を何も知らない。この世界は君が諦めたいと思うほど色褪せてなんかない。それを俺が証明する」



 その言葉を聞いた瞬間、



 青空の下に広がる緑の草原。その先に待つ青い海。どこまでも続いていく広い世界。

 二人は今、そのスタートラインに立っている。

「……うっ……ううっ……」

 真紀那の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。


「帰ろう。君が『夜式』だろうが『鵺』だろうが関係ない。君は自分の足でこの牢獄から抜け出して、自分だけの幸せを見つけるんだ。それをこの里が邪魔するっていうのなら、俺が君の味方になる」

「……吉野、さま……」


 涙が止まらない。もうとっくに枯れ果てたと思っていたのに。

 頬を伝う温かさが、凍てつく少女の心を溶かしていく。


「真紀那、もう一度聞くよ?」


 少女はコクンと頷く。


「君の夢は何? ここから出て、何をしたい?」

「私の……夢は――」


 少女がそれを口にしたとき、世界は鮮やかな光で満たされた。

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