行間1-2 -赫い悪魔-

 ドッ!! ガッ!!


 時刻は午後20時。

 すでに日は落ち、竹林に隠された石動の屋敷の中に灯篭が灯り始めた頃。


 ゴッ!! グシャッ!!


 絶えず一定のリズムで刻まれる粘質な鈍い音。


「オラ、お前今なんて言った? ガキ共を逃がしただぁ?」

 普段は応接の間として使われている広々とした和室には石動曹叡、そして彼が作り上げた『鬼影隊』――その頭目である神無月織江の二人。

 曹叡は織江を木柱に叩きつけ、抵抗できない彼女の顔面を何度も踏みつける。

「…………申し訳、ございません……」

 まるで感覚がなくなったようにだらんと垂れた織江の体が、踏みつけられる度にびくびくと痙攣していく。


「そのくらいにしておけ。石動曹叡」


 虚空からその姿を現す伊弉諾いざなぎ

 彼の左右で異なる緋色と黄金の瞳は、今の主である曹叡を睨みつけていた。

「あぁ? 亡霊風情が俺に説教する気か? つか勝手に出てくるなって言ってんだろ。無駄な魔力を使わせんじゃねぇよ」

「貴様――」

 曹叡が振り払うような仕草をするだけで、肉体を持たない伊弉諾の姿は幻のように掻き消える。そして入れ替わるように、彼の手中には黒い刀身の魔具が収まっていた。


「さて……随分他所者よそもんが増えちまったな。こりゃ、抵抗派の連中も含めてしなくちゃ、かな」

「……おね、がい……ッ……ゆるして……ぁっ……あの子達、だけ……は……」


 血が入り込んでまともに見えなくなった織江の右目から、一筋の赤い涙が流れ落ちた。

 彼女が守るべき孤児院を生かすも殺すも曹叡の気分次第。

 レイナたちを捕まえられなかった以上、彼の怒りを買うことは避けられないと分かっていた。だからもしもの時は自分の命で償うことすら本気で考えた。

 何が何でも曹叡の言う『大掃除』の中に子供たちを入れる訳にはいかない。それが果たされなければ、自分を殺してまで貫いてきたものが意味を失ってしまう。

 だが掠れた声で必死に懇願する織江を他所に、




「チャオーッ!!」




 障子の戸を勢いよく開き、場の空気を一瞬にしてぶち壊す陽気な声が舞い込んだ。

「ん? 何この空気? あ、もしかしてお姉さん暗殺失敗しちゃった?」

「……ッ」

 客人として屋敷に滞在している神凪明羅かんなぎあきらの無遠慮なその一言で、織江の体はぞわっと震えた。

「あ、ゴメンゴメン違うよねー? お姉さん、もんねー」

「わ、私は……ッ」

 織江が弁解しようと顔を上げると、鼻と鼻が当たるほどの至近距離に明羅の顔があった。彼女と目が合ったその瞬間、喉まで出かけていた言葉は全て消え失せてしまった。

「…………」

 暗い暗い深淵を思わせる瞳。まるで全てを見透かされているかのような感覚に、織江の背筋は凍り付く。


「ねぇ曹叡、このお姉さんどうするつもり?」

「どういう意味だ? 使えないヤツに用はねぇよ」

「いやさ、使えないから切り捨てるってのはちょっと勿体ないなーって、明羅は思うんだよねぇ」


 まるで天使のような無邪気な笑顔で彼女はそう言うと、織江の耳元で小さくこう呟く。


「別にお姉さんが悪いわけじゃないよ。お姉さんのことを曹叡が悪いのさ」

「……ッ!!」


 痛みや恐怖、力で従わせるのは、相手を人間扱いしてるから。

 そもそも道具にそんなものは必要ない。


 そう、彼女は言っているのだ。

 明羅はポケットから何かを取り出し、織江の前に置いた。

「ニヒヒ」


 黒いに見える。

 決して比喩などではない。ただ単純に、目で見たものを頭が理解できないのだ。

 その何かが放つ膨大な情報という名の凶器は、少女の目を介して喰らいつくように一気に脳を侵食した。

「……ッ!!」


 それは――

 理由は定かではないが、誰が見ても必ず嫌悪感を抱く。そんな得体のしれない物。


 それは――

 ただそこにあるだけで、世界の方がバグって見える説明不能な物体X。


 それは――

 人の理解のさらに外側にある叡智の産物。


 それは――


「ッッッ、おぇエっ……ッ!!」

 気付いたら胃の中の物を全て吐き出していた。

 みっともなく涎を垂れ流し、目から涙を溢れさせ、まるで脳みそをグチャグチャに掻き回されたような嫌悪感が全身を駆け巡る。

 体が、頭が、心が、神無月織江という少女の全てがそれを理解することを全力で拒否している。


「……な、に……?」


 なのに口は、彼女の意に反して全く真逆の事を口にしていた。さらなる苦しみを求めるかのように。

 それを見た明羅は得意気にこう語った。

「フフン♪ これはねー、外神機フォールギアっていう私ら神凪の発☆明☆品♪ 魔装とは違った方向性で魔具の力をブーストできる優れものー! ……でもまだ実戦データとか皆無なんだよねー」

 今度は理解できた……できてしまった。

 今、この瞬間をもって織江の退路が断たれたことを。

「……あくっ……あっ……」

 息ができない。声が出ない。


 神凪明羅。


 もはや織江には、この少女が悪魔そのものに見えていた。

 怖くてたまらない。あんなに恐ろしいと思っていた石動曹叡がひどく小さく感じてしまう程に。

 そして同時に……それは底知れない快楽でもあった。

 彼女の目が怖い気持ちいい

 彼女の声が怖い気持ちいい

 彼女の指先が怖い気持ちいい

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 しかしその全てから目が離せない。抗えない。心奪われる。

 ダメだと頭では分かっているはずなのに、悪魔が差し出した『何か』が最後に残された唯一の希望に思えて仕方がない。

 そしてそれを自分に授けてくれるこの悪魔神様こそが絶対なのだと刻み込まれる。

 本人さえも気付くことはない。

 まるで心酔しているかのように、いつしか織江の心は破滅を望んでいることを。


「……ねぇお姉さん」


 故に奪われるのではない。自らの意志で全て捨て去るのだ。

 苦しみも、恐怖も、願いさえも一つ残らず。


「ただの道具になってみる気……ある?」


 心が壊れてしまった少女の耳元で、赤毛の悪魔は甘美な言葉を囁いた。

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