第18話 夜猫の見る空は -Stray cat cannot walk anywhere-

・1・


 その日の夜は宝石のように散りばめられた無数の星が、空に息を呑むほどの絶景を描いていた。

「……」

 夜式真紀那やじきまきなは、竜胆りんどう邸の庭にある大岩の上にポツンと座り、そんな夜空を見上げていた。


 ザッ。


 砂の上を歩く足音。飾りではない彼女の頭部に生えた猫の耳がピクリと反応する。

 真紀那はゆっくりと、足音の主に振り返った。

「やっ」

「……」

 軽く手を振ってそのまま近づいてきた吉野ユウトは、真紀那が座る大岩に右手を当てて、彼女が眺めていた夜空を見上げた。

「都会の光がないと、星空ってこんなに綺麗に見えるんだな」

「……私はこの空しか知りません」

 淡々と、真紀那は機械のように無機質な言葉を返す。

 その理由を、今のユウトは知っていた。


「竜胆さんから君のことも聞いたよ」


 そう言ったユウトは、真紀那に向かって頭を下げた。

「何を……ッ」

燕儀えんぎ姉さんを助けてくれてありがとう」

 突然の事に戸惑う真紀那に向かって、ユウトは感謝の言葉を口にする。


 元々、今回の刹那の婚儀とその裏にある石動の思惑。それらをユウトたちに伝える役割を担っていたのは橘燕儀だった。

 彼女は刹那の母――御巫の現当主から直々に依頼を受けたらしい。

 命令ではない。当主としてでもなく、一人の母として。

 一族の仇だと心底憎み続けていた女性からの、対等な立場での頼み事だ。

 いくら海上都市で過去の真相を知ったとはいえ、父親を殺されたことは紛れもない事実。一族を闇に葬られたのもまた事実。何より飢える程の復讐心だけが、かつての橘――断刃無たちばな燕儀という少女の原動力だった。

 それを今更全部なかったことにできるわけがない。きっと彼女には未だ割り切れない感情があったはずだ。


 それでも、彼女は引き受けた。


 他ならぬ妹分のため――復讐の鬼と堕ち、最後の一線を越えようとしてもなお自分の手を離さなかった刹那のために。

 だが件の石動曹叡に気取られ、逃げ切れず伊弉諾いざなぎの一太刀を受けてしまった。


「私は……追手を撒いただけです」

「だとしても、だよ。それに君が直接姉さんを守れなかった理由も聞いた……その……物憑きのことも」

「……ッ」


 ほんの一瞬、その忌み名で呼ばれることに真紀那は怯えたような反応を示したが、すぐにいつもの感情のない機械のような雰囲気に戻る。

 その様を見て、ユウトはずっと気になっていたことに一つの結論を見出した。


 きっと彼女は、こうやって自分を殺す生き方しか知らないのだ。


 何も感じないこと。何も期待しないこと。

 身を刺すほどの痛みを麻酔に変え、心を麻痺させて、どんな理不尽を前にしても仕方がないことだと割り切ってしまう。

 それが自分を守る唯一の手段になってしまっている。


 真紀那の事を聞かせてくれたあの竜胆司も、そんな彼女を憂いていた。

 彼女だけではない。迫害され続ける夜式一族は、他の分家と違い特定の領地を持つことを許されていない。徒党を組んで謀反を起こさせないためと謳ってはいるが、人の数が一定以上増えないように管理までする徹底ぶりは、もはや異常としか思えない。

 積み重ねられたその日々が、夜式に道具としての生き方を刷り込んでいったのだ。


 そんな彼女らに仕事を与え、陣頭に立って管理しているのが竜胆家――つまり司だ。表に出れば迫害される身故、与えられる仕事は決して安全とは言えないものばかり。それでも、今や彼の存在だけが夜式一族に価値を与えている。

 真紀那が燕儀を助けたのも、彼の指示によるものだった。

 しかし直接追手と刃を交えれば、管理を任されている竜胆が疑われる。当然、夜式の罪も問われてしまうだろう。だから司は真紀那に一切の交戦を禁じ、エクスピアに救難信号を送らせたのだ。

 初めから彼女を道具として切り捨てるつもりなら、こんな面倒な指示はしない。彼が真紀那を信じ、夜式を人間だと認識した上で、彼女たちの事をちゃんと考えているからこそ下せる決断だ。

 だが例えどんなに竜胆司という人間が善人であったとしても、彼は御巫の人間。鎖を握る側の人間だ。拠り所には決してなれない。

 だから――


「聞いてもいいかな? 夜式さんのこと」

「……」


 だから、ユウトは彼女の言葉を聞きたいと思った。


「君の力になりたいんだ。その……おせっかいかもしれないけど、俺に姉さんを助けてくれた恩返しをさせてくれ」


 夜式真紀那は間違いなく人間だ。誰であろうと、どんな理由があろうと、その生き方を縛っていいはずがない。

 怖いものは怖い。嫌なものは嫌だ。

 彼女が少しでも人並みの弱音を口にするなら、報いたい。

「……」

 真紀那は口を閉ざしたままだ。

 もしかすると、自分はとても残酷な事を言っているのかもしれない。

 言葉にすれば、彼女は今まで目を逸らし続けてきた痛みと向き合わなければならない。一度ひとたび心の麻酔が切れてしまえば、きっともう後戻りはできない。

 ユウトもそれは分かっている。分かっているのだ。

 それでも……この少女がこの里で死ぬまでいたぶられ続ける様を見過ごすことなど、吉野ユウトという人間にはできない。絶対に。


・2・


「…………」

 しばらく黙り込む真紀那。時折こちらを見ては、すぐに目線を逸らしている。

(警戒されてる……本当に猫を相手にしてるみたいだ)

 まだ出会って数時間。いきなりあんなことを言われれば警戒されるのも当然だ。

 ユウトは彼女が話してくれるのをただ待ち続けた。別にこのまま黙ってくれていても構わない。無理強いをするつもりもない。

 けどもし、彼女が口を開くのなら。

 そう思った矢先に、真紀那はポツリとこう呟く。



「大昔に、一族を裏切って里を壊滅間近まで陥れた男がいたそうです」



 それが裏切りの一族と呼ばれる理由。

 夜式真紀那という少女……いや彼女だけではない。一族全ての運命を決定づけたもの。


「だからその末裔である私たち夜式の人間は、生まれてすぐにある『のろい』をかけられます」


 真紀那は意識してかしてないのか、耳と尻尾をクイクイ動かしてユウトに説明を続ける。


「同時期に生まれた動物をすぐ横で殺して、その魂魄を取り出して赤子に移植する。この耳と尻尾はその時に生まれたものです」


 魂の融合。その呪いを受けた者の外見に個人差こそあれど、確実に人とはかけ離れる。それは普通の生活など望めない、ましてや里の外で生きることは不可能だということを意味している。

 まさに彼女たちにとってこの里は牢獄で、呪いは首輪だ。

 そして、動物の特性に則った調教も可能。本能レベルで主を裏切ることができないように徹底的に恐怖で躾けられる。


「生まれ落ちたその瞬間から、私たちに自由は許されません」

 一族への絶対服従。加えて里から一歩も出ることは許されない。

 それが『物憑き』と呼ばれる囚人に課せられた運命ばつなのだ。


「自由になりたいとは思わないの?」

「……わかりません」


 真紀那は特にこれといって悲しそうな表情を見せない。ただ困惑している。

 おそらく今以上の生き方なんてものを、彼女には本当に想像できないのだろう。


「ごめん。嫌なことを喋らせすぎたかな?」

「……いえ、構いません。…………でも……」

 謝罪するユウトに真紀那は口ごもる。胸を押さえて、まるでどう言葉にしていいのかわからないというように。

「……」

 何か、伝えたいことがある。今それがすぐそこまで出かけている。ユウトは静かに待った。

 そして少女は言葉を紡ぐ。たどたどしく。ゆっくりと。


「でも……自分のことを、誰かに話したのは……初めて、です」


 それが今できる精一杯だった。

 だがその言葉には、確かに夜式真紀那の心がある。

 誰かに自分を知ってほしい。伝えたい。そんな機械では持ちえない欲求が。


 ユウトは大岩から降りた真紀那の前に立ち、そして膝を付いて彼女と目線の高さを合わせた。


「いつか……君が本当に何かを望んだ時、俺が君の力になる。だからどうか今のその気持ちを忘れないでほしい」


 ――それは人を人たらしめる、温もりだから。


 ゆっくりとユウトは彼女の頭を撫でる。

「?」

「あ、ごめん。嫌だったか? つい癖で……」

「……いえ」

 少女は俯き、小さく微笑む。

 その様は、見方によればまるで教師と教え子のようだった。


・3・


「ありがとう。彼女の話し相手になってくれて」


 屋敷に戻ったユウトの背に、竜胆司は声をかけた。

「君が思っている通り、この里は真紀那君たちにとって檻そのものだ。でも、彼女たちはそれを正しく認識していない」

 司は木柱に背を預け、夜空に浮かぶ月を見上げる。

「これからどう転んでも、この里は大きく揺らぐ」


 君が来たからだ。


 言葉にはしていないが、彼はそう言っている気がする。

「竜胆さん、あなたは――」

「今日はもう寝るといい。部屋を用意してある」

「……ありがとうございます」

 司にそう促され、出かけた言葉を仕舞ったユウトはうぐいす張りの廊下を歩いて行った。


***


 月光の下――


「大丈夫。きっと全部上手くいくさ」


 吉野ユウトの背中が見えなくなると、司の言葉は誰に届くでもなく、夜空の海へと静かに消えていった。

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