[連理の枝]
最愛の君を亡くして、僕は脱殻のようになってしまった。
会社には鬱病のために自宅療養中ということで長期休暇を申請して置いた。役員なので別に医者の診断証明書も要らないらしい。元々、居ても居なくてもいいような存在でしかない僕だから……。
あの時、救急車も警察も呼ばず、君の遺体を勝手に埋葬してしまったのは、法律的にはマズイことだと分かってはいた。だがしかし、君の身体をもう誰にも触れさせたくなかったんだ。
僕が止めるのもきかずに、君が家から出て行こうとしたから……あんな結果になってしまったのかもしれない。ボストンバッグの中に神楽坂の家の権利書と僕の実印まで入っていたのには驚いた。それを持って河合幹也の元に行く気だったのか、それらをあの男が持って来るように要求したんだね。
世間知らずの君に、そんな悪知恵を仕込むなんて、忌々しい詐欺師め!
君が死んだ二日後、河合幹也の乗ったプジョー208GTiが東京湾の海底から引き揚げられたとニュースが流れた。
遺体からは相当量のアルコールが検出されて、事故と自殺の両面から捜査されていると報じていた。前日、銀座のクラブでお酒を飲み、車の運転を自分でして、真夜中に東京湾の埠頭から落下したらしい、目撃者はいないということだ。このままだと、おそらく事故死として片付けられることだろう。
この世に君がいない今となっては、河合幹也の死もさほど意味がなくなってしまったが……。けれども、あの男に復讐できたことがせめてもの救いだ。――黒崎さん、ありがとう。あの人は本当に頼りになる番犬だ。
だから、もう一度だけ黒崎に電話をすることにした。
「えっ!? 今、なんておっしゃたんですか?」
「僕は自分の妻を殺しました」
その言葉に、驚きのあまり黒崎は咥えていた煙草を落としてしまった。
いつもポーカーフェイスの彼が、こんなに狼狽するのを初めて見たような気がする。
まさか赤ん坊の時から知っている、惚れた女の忘れ形見、この僕が妻を殺して殺人犯になったとは、俄かに信じがたい事実であろう――。
大事な話があるからと電話を入れた、その翌日、猫のように気配もなく黒崎が現れたのは、ウッディデッキでランチを食べている時だった。
この場所から広い庭が見渡せて、その向う遥か海まで見える最高のロケーションだ。以前、ここで君とよくランチを食べたものだった。
妻もメイドもいないので、今日は僕がコーヒーを淹れて彼の前に置いた。
僕と黒崎はウッディデッキの上で、木のテーブルセットに向かい合って座っている。大事な話があるからと電話で呼び出されて、僕から衝撃的な告白を聴かされた黒崎の心中はいかに……だが、こんな事態になったら頼れるのは彼しかないのだ。
「奥さんの死体はどうなさった」
「妻はバラ園に埋めてある」
「穴の深さはどれくらい?」
「1メートル50センチくらいかなあ」
「う~ん、もうちょっと深い方が安心ですが、蟲が這い出したり、獣が掘り返したりしますから……」
「そうか……」
死体を横たえて埋めるためには、結構な広さまで掘っていかないといけない。日頃、力仕事をしない僕には、あの深さが精いっぱいだった。
「しかし、まあ、ぼっちゃんがここに住んでいる限りは大丈夫でしょう」
「ここで一生暮らすつもりだ」
君が眠るこの場所から離れるなんて考えられない。
「――で、今度は何をやって欲しいんですか?」
「殺人がバレないよう、
返事の代わりに、僕の淹れたコーヒーをひと口飲んで、新しい煙草に火を付け深く吸い込んでから、思案顔でゆっくりと煙を吐き出している。
「奥さんのパスポートはありますか?」
「ある」
「それを使って、奥さんは海外に出国していることにしましょう」
「妻は生きているってことで?」
「そうです。誰かに身代りをさせます。もしも奥さんの所在を訊かれたら外国に居ると答えてください。河合幹也の件で奥さんのことも少し調べさせて貰いましたが、母親とは絶縁状態でしたね? あまり友人もいないし、この屋敷から外に出ていないので奥さんを知る人は非常に少ない。だから、消えても誰も気づかないでしょう」
君を生存していることにして、海外に出国させるとは上手い方法だ。
今までも、そういうやり方で死者を行方不明にして闇に葬ってきたのだろう。日本国内で年間一万人近くの人間が行方不明になっている、この社会情勢で人ひとり消えたぐらいでは誰も気づかないってことか?
黒崎はダークサイトのプロフェッシュナルだから全て任せておけば、上手くやってくれる筈だ。
僕との話が終わり、立ち去るために黒崎は椅子から立ち上がった。ふと思い出したように立ち止まると、
「ぼっちゃん、これが私にできる最後の仕事です。実は身体を壊しまして、病院に行ったら肝臓がんで余命三ヶ月と医者に宣言されました」
フッと自虐的に笑った。
黒崎は痩せているし、ギョロリと眼光鋭く、まるで幽霊みたいな顔色である。
「抗がん治療はやってるの?」
「――いや。もう手遅れだと医者にハッキリ宣言されてます。ホスピス緩和ケア病棟に入院して、抗がん治療は受けずに死を待つことにします。私のような人間がベッドの上で死ねるなんて神様も慈悲深い」
いつも仕事で滅多にうちに来られない父に代わって、黒崎が僕ら親子の面倒をよくみてくれていた。
小さい頃、黒崎と母と僕の三人でお祭りの縁日に行ったことがある。僕を肩車した黒崎の隣を浴衣姿の母が寄り添うように歩く、まるで本当の家族のように見えるだろう。その時の母は、
おそらく母の方も黒崎に好意を抱いていたとしか思えない。
小さい頃、何度も思った《黒崎のおじちゃんが、僕のお父さんだったらいいのに……》と――。いつも僕ら親子を陰ながら支えてくれた黒崎には感謝してもしきれない。
「実の父親よりも黒崎さんの方が好きだった」
不覚にも僕は涙ぐんでしまった。
「ぼっちゃん……」
「僕は大事なものを失くしていくんだ」
君亡き後、黒崎は唯一信頼できる人間だったのに……。
「私は嘘を付いていました。実はあなたのお母さんを一度だけ抱いたことがあります」
黒崎の告白に、なんだかそんな気がしていた。
「女将さんは好きで先生の妾になった訳じゃないんです。親の借金があって、それを助けるために十八歳でふた周りも年の多い男の愛人になったのです。先生には気に入られて、ずいぶん可愛がって贅沢させて貰ってましたが……それは本当に愛じゃない。女将さんは籠の鳥で自由がなかったんです。――そんな時に先生の用心棒だった私と親しくなりました。年も近かったし、お互い話も合った。一度だけ、私たちは過ちを犯しました。一緒に逃げてと女将さんに言われましたが、幸せにする自信がなかったんです」
そこまで喋って、黒崎は白い煙とため息を吐いた。
生前、母は一度も父との関係を説明したことがなかった、そんな母の態度を僕は軽蔑していた。ところが母が自分の意思で愛人になった訳ではなく、心に秘めた真実の愛があったのだと聞いて、なぜか……少し救われた気がする。
「孤児院育ちの私は、かけ出しのやくざで組を抜けるのも、先生の女をさらうのも怖かった。二人で逃げても破滅は目に見えている。だから先生に言われるまま、汚い仕事にも手を染めました。忠実な番犬でいれば……ずっと女将さんの傍にいられると思ったからです」
番犬になってでも、惚れた女の傍にいることを選んだ黒崎の一途なその想い。――僕は心打たれた。
「意気地無しだったんです。私って男は……」
「黒崎さん」
「ぼっちゃん、私が死んだら女将さんの近くに埋葬して貰えませんか」
そう言い残して黒崎は帰って行った。たぶん、これが彼を見た最後になるだろう。
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