[激情のパヴァーヌ]
ずっと体調不良を理由に、ひと月以上会社に顔を出していない。
さすがに自宅に電話やメールが届いた。目を通して欲しい書類や決定した事案に役員のサインと捺印が必要だということだ。出社できないようなら、『こちらから書類を持って社員を伺わせます』とまで言ってきた。――この家に会社の人間を通すのは断じて嫌だ!
いくら名前だけの役員でも、無断の長期休暇はマズイらしい。
政治家の父親の所へ様子を訊きに行かれても困るので、久しぶりに出社することにしたが……
僕の留守中に勝手に出て行かないかと心配になるが、車のキーは取り上げているし、携帯も持ってない、家の電話を使えなくすれば外部と連絡できないだろう。
ここから町まで徒歩で三時間はかかる筈だし、外から鍵を掛けて、屋敷に入る正門ゲートにも
――いわば、ここは陸の孤島のような場所にあるのだ。
今日こそ出社しなければいけないが、どうしても気が進まない。
往復だけで三時間は車でかかる、諸々の雑用に更に一時間は要するだろう。四時間も家を留守にしていても大丈夫なのか?
その気になれば、三時間かけて歩いてでも君は町に行って、河合幹也と連絡を取るかもしれない……まさか、大事な君をロープで縛って置いていく訳にはいかない。
――その時、いいことを思いついた。
その方法なら、いつもの半分の時間で帰って来られる。
駐車場から愛車のマセラティ・クアトロポルテを発進させて、仕事へと向かった。たぶん君は僕が車で出て行くのを部屋の窓から、そっと覗いていることだろう。
大急ぎで仕事を終わらせて帰ってきた――。
会社の者に必要な書類を持ってこさせ、うちの最寄の駅まで来て貰ったのだ。そこから、喫茶店に入って、会社の業績や業務の話などを聴いて、必要な書類にサインと捺印を押して社員に渡すと、すぐ帰ってきたので二時間ほどで用事が済んだ。
マセラティを正門から少し離れた場所に停めて通用門から、そっと敷地内に入って行った。
まだ、君がこの屋敷に居ることを祈りつつ、三階の君の居る部屋に向う。いつも固く閉ざされていた部屋のドアが少し開いているではないか。そっと忍び足で中を覗くと、クローゼットに頭を突っ込んで荷作りの真っ最中だった。
ボストンバッグ二つに荷物を押し込んでいて、背後のいる僕の存在には気づいていない様子だった。
やっぱり……この家から出てゆく気なんだ。そんな予感はしていたが、さすがにショックだった。――あの男を黒崎が消してくれるまで、何としても君をここに引き留めて置かなければならない。
その時、床に落ちていた携帯が鳴った。携帯? あの男との連絡用に君は二つ持っていたのか!? それに気づかなかったとは
すかさず携帯を拾い上げて、メールを覗いた。
『30分でそっちに着く。幹也』
そうか、あの男が君を迎えに来る手筈だったのか――。
僕が携帯を持って部屋の中に立っていたので、君は眼を見開いて驚愕の表情のまま固まってしまった。
「荷造りなんかして、どこに行くつもりなんだ?」
できるだけ冷静な声で訊いた。
しばらく君は口を閉ざしていたが……ふいに携帯を僕から奪い返えそうとしたので、その手をピシャリと叩いた。
「私の携帯返してよ!」
「駄目だ! もう二度とあの男と会ってはいけない」
「いやよ! 私は出ていくわ」
「君は僕の妻だ。どこにも行かせない」
「離婚するわ! 私は自由になりたいの!」
君は左のくすり指から結婚指輪を乱暴に外した。
「この指輪は私を縛る鎖だった!」
そう言って、僕に向って投げつけた。
慌てて、床に落ちた指輪を拾ったが、夫婦の証である結婚指輪をこんな粗末に扱うなんて信じられない。
「絶対に離婚なんかしない! 君は僕の妻として一生添い遂げる運命なんだ」
「いやよ! 幹也さんを愛してるの」
「君は騙されているんだ。あの男は女たらしの詐欺師だ!」
「違うわ! あなたと違って彼は私を一人前の人間として扱ってくれるのよ。私はあなたのペットじゃない」
ペット? それはどういう意味なんだ? 僕はいつだって君を大事に扱ってきたじゃないか――。
「私を自分の思い通りにしようとする、あなたの身勝手さが大嫌いだった!」
そう叫んで、憎しみを込めた瞳で君は僕を睨んだ。身勝手って……じゃあ、今までの僕の好意は君にとって善意の押し付けだったとでも?
「私、妊娠しているの」
「えっ!?」
「幹也さんの子どもよ。もちろん産むつもり。だから、ここから出て行くわ」
まさか妊娠していたなんて……君の言葉に、頭の中が真っ白になった――。
「もう出て行くから、そこを退いてよ!」
ボストンバッグを乱暴に提げて、それを振り回して僕を追い払おうとする。こんなヒステリックな行動を取るなんて、今までのお淑やかな君からは想像もできない。
あの生まれの卑しい男のせいで、君の品性がここまで落ちてしまった。もう僕の愛した女性とは全く別人のようだ。
その上、お腹に河合幹也の子を
出て行かせない! 君の腹の子は中絶させる。
中央階段は三階から一階まで吹き抜けになっている。
普段なら室内エレベーターを使う君は急いでいたせいで、階段を駆け降りようとしている。僕はその後を追い掛けて、三階の踊り場で君と揉み合いになった。君の腕を掴んで連れ戻そうとすると君は激しく抵抗して、バッグを振り回し、靴で僕を蹴ろうとする。
背後から羽交い締めにして、大人しくさせようとするが、イヤイヤをして無理やり解こうと君は暴れ出した。激しく振った頭が僕の顎にアッパーをくらわし、一瞬、ひるんだ隙に逃げ出そうとした。
河合幹也の元に行かせるものかっ!
手を伸ばして君の背中を掴もうとしたが、勢い余った君は前のめりになって、階段を踏み外し、踊り場から真っ逆さまに落ちていった。
三階の階段から転がりながら、一階まで落ちていった君の姿が小さく見えた。――茫然と、その有様を僕は眺めていた。
その光景は――まるでスローモーションで見ているようだった。
ふと我に返って、階段を駆け降りると倒れている君を抱き上げたが、鼻と口から血が流れていて、脈もなく、瞳孔が開いて、ピクリとも動かない。変な風に首が捻じれていたので、たぶん首の骨が折れているのだと思った。――たとえ救急車を呼んだとしても、この容態ではおそらく助からないだろう。
不可抗力とはいえ、自分から落ちて死んでしまったのだ。僕が殺した訳ではない。しかし、あんな場所で揉み合いにならなければ、君が落ちることもなかったはずだし……。
明確な記憶はないが、あの時、僕から逃げようとするた君の背中を怒りに任せて、強く突いたような気がする。――ああ、今はどっちだったか分からない。
その時、ポケットの中で携帯が鳴った。さっき、君から取り上げた時に自分のスーツに仕舞っていたようだ。
今度は電話だったから――耳にあてがった。
『もしもし、俺だよ。今着いたから、門の前で待ってる』
それは河合幹也の声だった。僕は無言のまま、長い沈黙だった――。
『――ん? どうしたの? 何かあったのかい?』
凍るような冷たい声で、河合幹也に告げた。
「――気様のせいで、もう妻は出れなくなったん……だ」
そして、手に持った携帯を床に叩きつけて足で踏んで粉々に壊した。あの男さえ現れなければ、僕ら夫婦は幸せに暮らしていたのに……僕は君を抱いて
君はすでに息絶えて、冷たい
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