[黒い影法師]

 まるで猫のように、その男は音もなく現れる。

 僕は庭にある四阿あずまやでガーデンチェアに腰かけ本を読んでいた。ここからだと、庭でガーデニングをする君の姿がよく見える。車が使えなくてドライブに行けない君はイライラして、花壇の薔薇をいじってストレスを発散しているようだ。

 208GTiのキーと携帯電話を取り上げた日から、君は怒って僕と口を利こうとしない。

 今では同じ家に居ても、食事も寝室も別々になってしまった。――こんな状況でも、僕は君と離婚する気だけは絶対になかった。

 

 風が出てきて、本の頁を勝手に捲ろうとする。

 読みかけの頁に栞を挟んで本を閉じようとしたら、背後からいきなり声がした。

「ぼっちゃんから電話とは珍しい」

 長身で痩せた、黒いスーツを着た五十代の男が立っている。

「黒崎さんはいつも影のように現れるんだね」

「これは仕事柄です」

 黒崎は僕の父の裏秘書というべき存在であった。

 今まで政治絡みのヤバイ仕事を一手に引受けてきた。黒崎に依って闇に消された人物が何人もいるらしい。お陰で父は政治家として、今の地位が安泰に保てているのだと言えよう。光と影、それは表裏一体なのだ――。

 僕は黒崎を誘って、妻から見えないように裏庭を散策しながら話し始めた。ここから裏山の雑木林がよく見える。

「会うのは、母の葬儀以来だね」

「……見ていたんですか?」

 心不全で母が急死したのは、僕が大学を卒業した年だった。

 まだ母は四十代半ばで、その早過ぎる死に周囲は悲しみ、父には何人もの愛人がいたが、特に僕の母が気に入っていたので消沈していた。

 僕が小さい頃、忙しくて来られない父に代わって黒崎が家に来てよく遊んでくれた記憶がある。凶暴で残忍なやくざだったが、なぜか母や僕には優しかった。

 ある時、父と母が黒崎について話をしていた。「黒崎は危険な男だが、飼い主には忠実な番犬だ」と父が言うと、母が「黒崎さんは人間らしい心を隠して生きている人です」と即座に答えた。――その確信に満ちた母の言い方がとても印象に残った。

 母は神楽坂の芸者置屋の娘として生まれた。やはり僕と同じ妾の子だった。

 十八歳でお座敷に上がったが、ほどなく、父に見染められて愛人となった。その三年後に僕が生まれた、戸籍上は私生児だがDNA鑑定で実子だと父は認めていた。

 その頃、父のボディーガードだった黒崎がお届け物や連絡に足繁く家に訪れていた。彼は独身で天涯孤独だという話だ――。


「うん。道路を挟んだ向う側の道から、出棺する時、見送ってくれていただろう?」

「見られましたか」

 黒崎は頬に含羞の色を浮かべていた。

 母の葬儀には多くの参列者が訪れていた。神楽坂で料亭の女将だった上、政治家の父とは周知の間柄なので、政治関係の人たちが多く集まってくれた。――そんな中で、黒崎はひと目につかないように、そっと母の棺を見送ってくれていたのだ。

「ぼっちゃん、今日はどんな用件ですか?」

 これ以上、葬儀のことを言われたくないのか、話を切り替えてきた。

「相談にのって欲しいんだ」

 その後、妻の不貞や相手の男のこと、そして今の夫婦の状況について語った。

 黒崎は煙草を吸いながら僕の話に耳を傾けていた。吸い終えた煙草を携帯用の灰皿に仕舞いこんでから、腕組みをして訊ねた。

「――それで、私に何をして欲しいのですか?」

「河合幹也を消してくれ!」

 きっぱりとそう告げた。

「奥さんから遠ざけるだけではなく、その男に死んで欲しいんですか?」

「そうだ。あいつには死んで罪を償って貰う」

 頑とした僕の言葉に、黒崎は呆れたように黙り込んだが、しばらくして、ゆっくりとした口調でこう言った。

「ぼっちゃんは人の命を殺める罪の重さを分かっていますか? 私のような人間がいうのもなんですが……それをやったら、人間として幸せは望めません」

 妻との幸せな生活を取り戻すために、あの男に永遠に消えて貰いたい。河合幹也が死ねば、妻もきっと目が覚める筈なのだ。妻を誘惑して家庭を壊そうとする、河合幹也という男を絶対に許すことはできない!

 黒崎の問いには答えず、僕が黙って雑木林を凝視していた。その冷徹な瞳に――。

「――意思は固そうですね。分かりました。早く形を付けたいみたいなので今週中にやりましょう」

 あっさりと黒崎がそう宣言した。

 きびすを返して立ち去ろうとする黒崎に、一つだけ訊きたいことがあった。

「黒崎さん、あなたは母に好意を持っていたんですか?」

 背中がピクリとした。やはり図星ずぼしだったようだ。

「ぼっちゃんのお母さんに惚れてました。何度も先生から奪いたいと思った。――けれど、私の手は血に塗れています。だから、心底惚れた女は抱けません」

「黒崎さん……」

「大丈夫。約束は守りますから、待っていてください」

 そう言い残して、黒崎は帰っていった。

 黒崎は口が固く、絶対に約束を守る男だ。彼の配下には何人かの殺しのプロがいると聞いている。河合幹也、僕ら夫婦の前から早く消えてくれ!


 足元に延びる黒い影法師に、奴はまだ気づいていないだろう――。

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