[比翼の鳥]

 イタリアで結婚式を挙げた僕らは、地中海の国々をめぐり、スペイン、フランス、ギリシャ、最後はトルコを観光して日本に帰ってきた。一ヶ月余りの長い新婚旅行だったが、僕の傍には君がいて満ち足りた日々だった。

 日本に帰ってから、母と住んでいた神楽坂の屋敷は人に貸して、結婚のお祝いに父が建ててくれた新居に僕らは引っ越しすることになった。


 その屋敷は郊外にあって、近所に家はなく、ちょっと人里離れた一軒家だった。

 後方に山、前方に海が見渡せる最高の景観地で、普通は別荘としてしか人は住まないような場所にあった。近くに商店もないし、車がないと町にも行けないような不便な土地だが、絵を描くことが好きな君には、ここの自然を全てキャンバスに写したいというほど素晴らしい環境である。

 敷地は約二千坪ほどで、建物の設計は有名建築家に依頼をした。それは中世の城のような荘厳さと近代的なモダンを合わせ持つ白亜の洋館だった。

 明るい屋内プールとジャグジー、母のコレクションだったワインを保管する地下室もあり、広い庭園には四季の花々が咲き乱れている。バラが大好きな君は庭の一角にバラ園を作って育てていた。週に三日家政婦とハウスクリーニングの業者が掃除にくるだけで、それ以外の日には来客などほとんど誰も来ない。

 週に一、二度、会社に顔を出すだけで、ずっと君の傍らで過ごして居られた。いくら見ていても見飽きるなんてことはない。僕にとって君は世界で一番の女性なんだから――。ここは誰にも邪魔されず、君と僕と二人きりの暮らし、二人の愛の楽園エデンだった。


 結婚して一年ほど経ったが、僕ら夫婦には子どもができなかった。

 僕は子どもが欲しいとは思わないが、君は子どもが欲しいと言いだした。それで……夫婦揃って病院で診察して貰った結果、子どもができない原因が僕の方にあったのだ。それで僕に不妊治療に協力して欲しい、どうしても子どもを産みたいと君がいうのだが……そんな不自然な形で子どもを作るのは反対だと、断固として受け入れなかった。僕の頑なな態度に君はひどく落胆したようだった。

 だって僕は君さえいれば、子どもなんか必要ないと思っていたんだ。二人きりの時間を、たとえ我が子であっても奪われたくない、それが僕のだから――。


 その反発からか、急に君は「働きたい」と言い出した。

 僕は驚いた、妻を外で働かすなんて絶対に駄目だ。僕の目の届かない所へ君をやることなんてできない。そんな要求には全力で反対するに決まっている。

「なぜ働く必要がある? 経済的には恵まれているだろう」僕の言葉に、君は「子どももいないし、毎日、やることもなくて……とても退屈なのよ」と答えた。

 大事な君が外で働くようになったら、僕は心配で何も手につかなくなる。

 子どもの代わりになるものを……と、考えて、ペットを飼うことにした。

 室内で飼える小型犬がいいと君がいうので、ミニチュアダックスフンドをペアで二匹飼うことにした。生後間もない仔犬の雄雌ペアに、それぞれアダムとイヴという名前を付けた。

 可愛い犬のプレゼントに喜んだ君は、仔犬たちの世話に追われて、もう働きたいとは言わなくなった。――これで何とか誤魔化し、少し安心をしたことは確かだ。


 ある日、二人で観ていたテレビのグルメ番組で、都心にあるフレンチやイタリアンの人気店の特集をやっていた。僕はさほど食べ物に興味はないが、君はグルメ特集や料理番組を好んで観たがる。君の趣味といえば、絵と料理とガーデニングだ。女性らしい趣味だと僕は好ましく思っている。

 ふたりが結婚する一年前に半年ほど料理教室に通っていたこともあった。アルバイトをするよりも習い事をさせた方が君のためになると思い、絵画、英語、フランス語、パソコン、フラワーアレンジメント、車の免許など君が希望することをさせてきた。――もちろん、送り迎えは可能な限り僕がしていた。

 料理教室に通っていたお陰で、君の作る料理は僕の舌を満足させてくれる。週に一度、二人で市街地にある大手スーパーへ車で買物に行くのだが、そこで君は新鮮な食材を吟味して、いろんな新しい料理を作って僕に食べさせてくれる。料理にかける熱意と向上心に、君の愛を感じて僕は幸せだった。

 料理の上手い君を専任のシェフとして一生、この僕が独占できるのだから――。

 グルメ番組を見終わって、

「ねぇ、このお店に行ってみたいの」

 ポツリと君が言った。

 そこはマスコミで評判のイケメンシェフが経営するフレンチのお店だった。

 銀座の一等地にあるようだが、値段の割には大したことないと、いつか会社のOLたちが噂しているのを小耳に挟んだことがあったが……。まあ、それでも君が行きたいというのなら仕方ない、すぐにネットから予約を入れた。

 

 数日後、二人で予約を入れたフレンチレストランで出掛けた。

 お店の名前は『Rose bleue』、フランス語の“ 青い薔薇 ”という意味で、五階建ての雑居ビルの三階にあり、あまり広くない店内には十二席ほどのテーブルしかなかった。だが、インテリアは凝っていて、植物模様や流れるような曲線が特徴のアール・ヌーボー風で、ミュシャやビアズリーのポスターが壁に貼っていたり、エミール・ガレと思われるガラスシェードのインテリアランプがさり気なく置かれてあった。

 店内に流れるBGMはドビュッシーの『牧神の午後』だろうか、なかなか雰囲気の良い店だといった印象である。 

 料理は完全予約制なので、僕ら夫婦がテーブルに着くとソムリエがワインの銘柄をあれこれ薦めにきたが、僕も妻もさほどアルコールは強くない。瓶の薔薇のラベルが素敵だからとChateau Coupe Roses赤のグラスワインにした。

 次々と運ばれるディナーコースは、美しい皿に見栄えよく装った料理とソースの華麗な彩り、トリフやフォアグラ、キャビアなど高級食材がふんだん使われている。いつも思うことだが、フランス料理というのは、まず目で味わってから、口で食するものなんだ――と。

 この日の君は襟開きの広い青いドレスで、少し俯くと胸の谷間が見えそうだった。それをシルクのストールで隠しているが、やはり白い乳房がチラチラ見えてセクシー過ぎる。夫の僕としては他の男に見られないか、気が気でならなかった。

 僕の心配をよそに、君は新しい皿が運ばれる度に感歎の声を挙げ胸を広げるんだ。

 フランス料理が好きな君は、お客の食事のペースに気を配って、一品一品ちょうどいいタイミングで提供してくれていると感激していた。スマートな流れで、きれいに盛り付けられた『Rose bleue』の料理が気に入ったようだった。しかし味に関しては、さほどではないと僕は思っていた――。

 やはり君の作る料理こそが、僕にとっては最高のご馳走なんだから。


 デザートプレートとエスプレッソが運ばれてコースが終了した。

 食後、美しい妻に見惚れながら談笑しているところへ、この店のオーナーシェフが挨拶にやってきた。確か、河合幹也(かわい みきや)とかいう、お昼の奥さま向けワイドショーにも出演しているタレントシェフだ。

 思いがけない河合シェフの登場に、君は目を輝かせて嬉しそうだった。

 スマートで長身、涼やかな目元と白い歯で爽やかな印象の河合シェフは料理人と言うより、ホストみたいな奴だと僕は内心思っていた。和やかな夫婦の会話に分け入って来られて不愉快だった。

 河合シェフに料理の感想を訊かれると、日頃、無口な君があれこれ細かく感想を述べている。

 この二人の会話を不機嫌な気分を押さえながら傍聴いていた。何となく、河合シャフに胡散臭さを感じている僕だった。《この女たらしのイケメンシェフがぁ……》と、心の中で彼に毒づいていたのだ。

 しかも、河合シェフは妻の席の側に立っているので、そこから妻の胸の谷間がよく見える筈で……こんな服を着せるんじゃなかったと、僕は深く後悔していた。

 家に帰り着いてからも、君は『Rose bleue』が気に入ったらしく、また連れてってと何度も僕にオネダリしていたが、河合シェフのあの白い歯を思い出す度、腹が立って《チッ! あんな店に二度と行くもんか!》と、心の中で舌打ちをした。


 週に二、三日は父に任された会社へ出社している。

 郊外の僕の家から、そこまでは車で片道一時間半かかるが毎日ではないので苦にならない。愛車マセラティ・クアトロポルテのカーステレオを聴きながらドライブ気分で運転している。

 ただ、君をひとり家に残していくのだけが心残りなのだ――。

 僕は会社に行っても、何もやることがない。

 決定した事案の書類に確認の判子を押すか、会議と称した食事会や酒の席に着くだけだった。会社の奴らは僕が有名政治家の息子だと知っているので、政治家との繋がりを深め、いろいろ便宜を図って貰うために、大学を卒業して数年しか経たない若造を至極大事に扱ってくれている。

 まあ、会社のことはどうだって構わないし、会社の経営にはノータッチなのだ。

 名前だけ役員の僕には仕事もなく、まるで暇だったので、役員室で音楽を聴いたり、本を読んだり、パソコンを弄ったりして、ただ時間を潰している。

 時々、君のことが気がかりになり声を聴きたくなって、会社から自宅に日に二、三度電話するが……ここのところ、電話に出ない日が時々あった。一人では外出させない妻には携帯電話を持たせていないのだ――。

 電話に出ない時、帰ってから僕が理由を訊くと、プールで泳いでいたとか、ガーデニングで庭に居たとか、犬の散歩に出ていたとか、尤もらしい理由を言うのだが……。

 電話が繋がらないと、君のことが心配で僕は居ても立っても居られない。


 君が嘘をつく筈がないと信じているから、僕は君の言うことを鵜呑うのみするしかなかった――。

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