[赫い薔薇]
「私も車が欲しいわ!」
突然、君が飛んでもないことを言い出した。
「車ならいつも僕が運転しているじゃないか?」
「違うの! 自分専用車を持ちたいの」
「ダメだ! 君は運転に不慣れだし危険過ぎる」
そう言って、即座に反対する。
「車の免許があるのに……運転しないと、いつまで経っても上達しないじゃないの」
珍しく君が反論したが、交通事故が怖くて僕はOKできない。
「こんな人里離れた場所に住んでいるのに車がないと不便だわ」
「タクシーを呼べばいいじゃないか、お金ならいくらかかっても構わない」
「私だって、たまには一人で気晴らしがしたいのよ!」
君はヒステリックに叫んだ。
いったい、どうしたことだ? いつも素直な君が僕に逆らうなんて……信じられない。
その後、すっかり不機嫌になった君は、夫婦の夜の行為を拒否するようになった。一緒のベッドに寝ているのに、君の肩に手を掛けただけで冷たく払われてしまうんだ。
毎晩、僕ら夫婦は一緒に風呂に入り、君の身体を丹念に洗い、ベッドに運ぶと長い時間をかけて全身隈なく愛撫する。胸は豊満ではなく、僕の掌に収まる大きさだが、清楚な美しさに満足している。たとえ他の女性の全裸を見ても勃起しない。なぜなら僕にとって君は完璧な女性だから、君以外の女性の肉体に欲情したりしないのだ。
いつもならセックスの後、満ち足りた気持ちで、君と抱き合って眠りにつくが……今は夫婦のベッドに見えない壁ができている。君を抱かないと僕は安心して眠れない、セックス拒否で精神的に参ってしまった。
仕方なく車を購入することを許可したら、さっそく君は自宅にディーラーを招いて、商談を始めた。どうやら買いたい車種は最初から決まっていたようだ。
選んだのはライオンのエンブレムで有名なフランス車だった。プジョー208GTi、カラーはリオハ・レッドという真っ赤な自動車である。
まさか、こんな派手な車を地味で控え目だった君が欲しがるなんて想像もできなかった。せめて、カラーは白かグレーにすればという僕の助言を無視して、「レッドがいい!」と言い張った君には心底驚いた。
「あの車はRose rougeなのよ!」
フランス語の赤い薔薇だと言って、自分の主張を譲らなかった。
ともあれ、この車に乗るのは君だし、そんなに欲しがるのならと購入を決めた。
――車の購入に関して、ここまで我を通した君を僕は初めてみたように思う。何だか、そんな君に言いようのない不安を感じていた。
君が自分専用の自動車を持つようになってから、ふたりの生活は大きく変化した。
僕が会社に行っている日には、君も車で出掛けるようになったので、携帯電話を持たせるようにしたが、その携帯に電話しても出ないことの方が多い。
時々、『運転中』と短いメールが返ってくるのだが、後は返事が来ない。何だかメールすら返すのが面倒臭そうな感じだった。
家に帰ったら、ドライブであそこへ行った、ここも見たと嬉しそうに話す君に、自分の知らない君の時間があること自体、僕はなんだか寂しい想いがした。
その内、僕が家に居る日でも目を離すと、君は勝手に車で出掛けてしまうようになった。自分の車を手に入れて自由を謳歌している感じなんだが……。
最近は化粧も服装も派手になってきた。クローゼットの中には僕の知らない服やバッグが並んでいる。以前の君なら「どうせ、外出しないから服は要らないわ」と、言っていたくせに……これは、どういうことなんだ!?
爪にまで『
華やかな美しさで君はひと目を惹く女性になっていく――。けれども、僕の描く君という女性のイメージから逸脱していくようで、急に社交的になって、個性を発揮し出した君に僕は戸惑っていた。
――ここにきて、やはり君に車を買い与えるべきではなかったと深く後悔していた。
一度だけ、真っ赤な208GTiで出掛ける君を尾行したことがあった。
会社に行く振りをして、裏山の雑木林の中に隠して置いたレンタカーで君の車の後を付けたんだ。何しろ、真っ赤な車は目立つので、距離を見計らいながら付かず離れず付いて行った。僕の乗ったレンタカーは何処でも走っているような平凡な車種だから、君は気にも留めなかったみたいだ。
尾行した結果、君の行き先は銀座のデパートの駐車場だった。
そこのパーキングに208GTiを停めて、どこかへ行ってしまった。同じ駐車場にレンタカーを停めて、僕は君の帰りをひたすら待っていた。その間、一度電話をして、三度メールを送ったが全てスルーされた。
三時間後、ようやく戻ってきた君は急いで車を発進させ、途中ガソリンを給油しただけで、真っすぐに自宅へ帰っていった。
何喰わぬ顔で、後から家に帰った僕は、
「今日はどこに行ったの?」
と、さり気なく君に訊いてみたら、
「今日は家で一日中ガーデニングをしてたわ」
と、さらりと嘘を言ってのけた。
「……電話したんだけど、なぜ出なかったの?」
「携帯は家の中に置いていたから、聴こえなかったの」
嘘を隠す為に、また嘘をついた。
まさか、君が嘘を付くなんて……素直で純真だった、あの君が僕に嘘を付いた!
ああ、最愛の妻を信じられなくなるなんて、ショックで頭の中がパニックになりそうだだった。すでに君の背後に僕以外の男の影がチラチラし始めていたことを、本能的に感じていたが……だけど、それだけは絶対に認めたくない気持ちの方がずっと大きかった。
あんなに仲の良かった、僕ら夫婦に何か深い溝ができてしまっている――。
僕の会社へ不動産会社から電話があった。
現在、空家になっている神楽坂の屋敷の件だった。そこで母が料亭を営んでいたが亡くなってしまったので閉店していたが、五百坪の広い敷地と立地条件も良いので売却しないで賃貸にしようと、そのまま土地を寝かせて不動産会社に管理して貰っていたのだ。
そこの社員の口から、驚くべきことを聞かされた。
「先日、奥様がお連れの方とご一緒に来社されて、神楽坂の物件を見たいとおっしゃられましたので、ご案内しました。そこで奥様が連れの方を紹介されて、『彼がここを借りるから、この物件はもう誰にも貸さないで欲しい』とおっしゃられました。うちの会社では、そういう話は聴いていませんし、二件ほど商談中のお客様もいらっしゃいますので、直接、個人での契約は困ります。うちの会社を通していただかないと……」
そういう内容の電話だった。
今まで、僕の資産について君は無関心だったし、神楽坂の屋敷も母の生前に二、三度しか行ったことはない。まさか、神楽坂の物件を見に行って、一緒にいたその連れとやらに貸すなんて僕は聞いてないし初耳だ。
第一、土地所有者である僕の許可もなく、勝手に決めようとしていることが信じられない。
「その連れの人物って、どんな人でした?」
僕に質問に、
「テレビに出ているタレントシェフの……河合幹也さんですよ。名刺もいただきました」
なんだと? あの男か!? 僕は『Rose bleue』での、にやけた奴の顔を思い出して不愉快な気分だった。尾行した日、君の車は銀座へ行った……そういうことか。――段々と分かってきた。
不動産会社の社員には、その件について妻とよく話し合うので、二件の商談は進めておいてくれと頼んでから電話を切った。
あまりの衝撃に、僕はリクライニングチェアに倒れ込んだまま動けなくなった。
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