Bone of Eve

泡沫恋歌

[永遠の褥]

『神は彼の肋骨を一本取り、そこを肉で塞いだ。

 そして神はアダムから取った肋骨で女性を作り、彼女をアダムの

 元に遣わせた。』


   ― 創世記2章21-22節 ―


 今宵の空は星もなく月灯りだけが庭を照らしている。

 ザクッザクッザック……スコップで土を掘り返す音だけが静寂の闇に響く。

 湿った土の匂いと冷たい空気が鼻孔から僕の肺に流れ込む、もうどれくらいの深さまで掘ったことだろうか? 

 ここは君が丹精して育てた美しい薔薇が咲き乱れる花壇だった。だから、この場所を君の“永遠のしとね”として選んだ。きっと薔薇の精になって生まれ変わってきてくれることだろうから……。

 ああ、掌に豆が出来てしまった。もう、このくらいの深さがあればいいだろう。さあ、君をここに葬ろう。この仄暗い穴の中へ――君の躯は、この“永遠の褥”にすっぽりと収まるに違いない。

 風が出てきたのか木々の梢がざわめき揺れ始めた。庭にぽっかりと開いた深い穴を月の光が照らしている。奥の方は暗くてよく見えないが、死体を埋めるのに人工の光は使えない。――だから今は、この月明かりだけが頼りなのだ。

 僕の足元に横たわる君を抱きあげた。

 冷たくなっているが、まだ死後硬直は始まっていない、醜い死斑が出る前に埋葬してしまおう。あの時、自分の指から外して僕に投げつけた、このマリッジリングをもう一度、君の左のくすり指に嵌めておくよ。これは僕ら夫婦の愛のあかしだから……たとえ、土の中で肉体が朽ち果てて白骨になろうとも、このプラチナの指輪は君の指で煌めいていることだろう。――そうさ、僕らの愛は永遠に終わらない。

 魂のない人形になった君を抱きしめて、お別れの口づけしたら、愛おしさが込み上げてきて、僕は子どもみたいに泣きじゃくっている。止めどなく流れる涙が君の冷たい頬を濡らしていく。

 ああ、まるで魂が引き裂かれるような悲しみ!

 こんなに愛していたのに……かけがえのない大切な君だったのに、なぜ殺してしまったのか。


                *


 僕が君と知り合ったのは大学三年生の時だった。

 先輩が主宰する「現代美術同好会」というサークルに、君は新入生としてやってきた。それが君との初めての出会いで、あの時、ひと目見るなり僕の中に衝撃が走った。

 心臓を鷲掴わしづかみされるような激しい感情で惹きつけられてしまった。霊感的な何か? そうかもしれない。深層の中で探し求めていた女性像そのもの、僕にとって、まさに“運命の人”だと感じた瞬間なんだ。

 ずっとミッション系の女子校だったという君は世間知らずというか、純粋無垢で脆弱ぜいじゃくそうに見えた。やたら自己主張をする生意気な女子大生たちと違って――おっとりと慎ましく大和撫子というか、今どき珍しい存在だった。

 飾りっ気のない君は本を読んだり絵を描いたりするのが好きで、友だちもそう多くはいなかった。目を惹くほどの美人ではないが、色白でスタイルも良く、黒く艶やかな髪と、化粧をしない素顔は清々しく、笑うとえくぼがチャーミング。

 野暮ったい眼鏡を外して、化粧をすれば別人のように美人になると、僕の眼には見てとれた。


 臆病な君とサークルの集まりで少しだけ話をするようになった。

 今まで異性と付き合ったことがないせいか男性を警戒しているように見えたが、半年も経つと自然に会話ができるようになってきた。

 男なら誰とでも馴れ馴れしくするような尻の軽い女は軽蔑する。これくらいガードが固くないと、女はすぐにビッチになってしまう。むしろ君の不器用さを僕は好ましくさえ思っていた。

 無口で冴えない新入生に誰も興味を示さなかった。

 いつも君に話し掛ける僕のことを友人たちは不思議がっていた――。実際、僕は大学では結構モテる方だったし、君と出会うまで、いつも二、三人は女の子をはべらせていたんだから。

 今のところ君の美しさに気づいているのはこの僕だけだった。気づいていない男たちも、いずれ大学の水に慣れて君が垢ぬけてきたら……きっと興味を示すだろう。

 世間知らずの君のような娘が大学の悪い男たちに騙されたりしないかと僕は心配でならなかった。

 ――その時思った。誰の手垢も付かない内に自分だけのものにしたい! 君の純潔を守りたい! 

 そう僕は強く思ったんだ。


 心の中で確固たる信念をもって一生の伴侶として、すでに君という女性を選んでいたのだ。


 一緒に学食を食べたり、図書館で本を読んだり、大学主宰の映画を観たりと、控えめな君の趣味に付き合う内に、僕のことも信頼するようになった。

 ある時、表情を曇らせて「家を出たい……」と君が呟いたので、僕が理由を訊ねると、母の再婚相手の義父が嫌いだと答えた。

 中学生の時に父親を病気で亡くした君は、父方の祖父母に経済的援助を受けながらミッション系の中学高校と卒業したが、去年、母親が再婚したので援助が受けられなくなり、学費の安い公立大学に仕方なく入学した。願わくば、大学までミッション系で卒業したかったと君は嘆く。――それは仕方ないとしても、義父が最近、お風呂を覗いたり、身体を触ったり、母が留守の時に自分の部屋に入ってこようとするのが怖くて堪らない。――そう言って彼女は泣き出した。

 その話を聞いた僕は、怒りで全身の毛が逆立つようだった! そんな危険な家に君を絶対に置いてはおけない。


 早速、僕は大学の近くに1LDKのマンションを借りた。

 君が安心して、ここで暮らせるように家具や家電品も必要な物はすべて買い揃えた。

 いきなりの僕の申し出に君は驚き戸惑い、下心があるのではと少し勘繰っていたようだが、自宅で義父に脅えて暮らすよりマシだと考えたようだ。

 そのマンションで一緒に暮らそうなんて気はさらさらない。ただ、自分の目の届く所に置いて保護したかっただけで、大切な人に指一本触れる気はない、男として君を守るんだ。――いずれ、僕の妻になる女性なのだから。


 君が家を出ることに、母親は反対しなかったという。

 娘のことよりも再婚した夫の方が大事なのだろう。むしろ、自分の夫が娘に興味を示していることに薄々感づいていて、ヤキモチを妬いていたのかもしれない。むしろ娘が出ていってくれて安堵しているのは母親の方だった。

 ――母親がそういう態度なら僕としてもやり易い。

 独立した君は薄情な親から金銭的援助もなく無一文だった。アルバイトをしたいと言い出したが僕が反対した。代わりに学費、生活費、小遣い、その他の諸々の生活費はすべて、この僕が面倒をみると宣言した。

 僕からの条件は、ただ一つ『この部屋に、僕以外の男性を絶対に入れないこと!』だった。それはセールスマンや電気工事屋だって然り、そういう相手にはこの僕が対応するからと君に言って置く――。

 一人暮らしの女性のセキュリティは厳重でなくてはいけないのだ。


 どうして、いっかいの大学生の僕にマンションを借りたり、家具や家電品をポンと買い揃えたりすることができるかというと――。


 僕は愛人の子として私生児で生まれた。

 元芸者だった母と政界の大物政治家との間にできた婚姻外の子だった。生まれた時にDNA鑑定して実子であると父親は認めていたが、政治家としての面子や世間体、相続の問題などがあって、どうしても実子として認知されなかった。

 すでに本妻との間には兄二人と姉がいて、父のあとを継いで政治家として活躍している。姉の夫は父の第一秘書だったし、他にも愛人に産ませた娘が二人おり、それぞれ有望な政治家に嫁がせていた。

 他の兄弟から、年が離れて生まれてきた僕には何ら期待されていない、本妻は僕について、「一生、表舞台に出ないように金だけ与えておけばいい」と語ったらしい。


 愛人である母と父は親子ほど年が離れている。だから、時々、家に泊りにくる立派な風体の老人のことを「おじいちゃん」と呼んで、中学生になるまで自分の実父だとは知らなかった。

 幼い頃から、僕は「おじいちゃん」がくると母が化粧を念入りにしたり、しなを作ったりして、媚びを売るのが不思議でならなかったが……それが愛人の姿だったと分かったのは――。中学三年の時、塾で帰りが遅くなった僕は、たまたま母の寝室から灯りが漏れていたので、つい室内を覗いてみたら……母とおじいちゃんは性交中だった。

 その情景に驚いた僕は、翌日、うちで長く働いている家族同然のお手伝いのおばさんに母のことをしつこく訊ねた。そして――母がおじいちゃんの愛人だということをついに聞き出したのだ。

 その事実を知った時、母にも父にも激しく嫌悪した。こんな汚い関係で生まれた自分の血さえも忌まわしいと呪った――。

 不純な男女の愛欲から、この世に生を受けた僕は純粋で美しい夫婦愛に憧れた。僕の妻になる女性は貞淑でなくてはいけないと強く思い込むようになっていた。


 もっとも僕ら親子は日陰の身だったけれど、父はかなりの資産家だったので、生活面は十分過ぎるほどの待遇だった。元芸者だった母は、一等地に建てた料亭の女将となり、父から与えられた二百坪以上の神楽坂の屋敷に住んでいた。五階建てビルと七階建ての分譲マンション、都内にパーキングを三箇所を所有して、オーストラリアには牧場もある。

 父の死後、僕ら親子が生活に困らないようにと法律の抜け道を使って、一生働かなくても食べていけるだけの財産を、この僕にも生前譲与してくれていたのだ。

 人並み以上に裕福な家庭の僕は幼稚園から大学までエスカレーター式に進学できる有名私立に中学までは通っていたが、父と母の関係を知ってからは、今まで気づきもしなかった『愛人の子』という言葉が耳に入ってくるようになった。

 親しい友人の誕生日会に呼んで貰えなかったり、学校行事にうちの母がくるとクラスの母親たちが冷ややかな態度をとったり、クラスの女子が僕の方を見て『愛人の子』と噂をしていたりする。

 そんなことを知って、僕は受験して公立高校に入学した。大学も一般人が通う国立大学にして、昔の知り合いと会わないように自分の素性を隠していたのだ。

 僕が資産家だということも秘密にしておこうと思っている。

 金持ちだと分かると、たかろうとする貧乏人や、騙そうとする詐欺師が金の匂いを嗅ぎつけて集まってくる。こんな奴らの喰い物にされるのは真っ平だから――。ちょっと、金回りが良いお坊っちゃんくらいに見せておく方が無難だった。


 新生活がスタートして、大学近くの君のマンションに週に二、三度訪れた。

 ふたりで食事に行ったり、ショッピングしたり、君の服やヘヤースタイルも僕が選んだ。少しずつ自分好みの女性に君を仕立てていこうと思っていた。素直な君は僕の選んだ服や小物を抵抗なく身に着けてくれる。――そういう従順な所が気に入ってるこの僕だった。

 入学当時は野暮ったかった君の格好も、僕のセンスで磨かれてブランドの服やバッグも似合う女性になってきた。みにくいアヒルの子が白鳥になったように、どんどん美しくなって人目を惹くようになった。

 今まで君の美しさに、気づきもしなかった男たちが俄かに注目し始めたが、君の傍らには常に僕が居て、二人はマンションで同棲しているらしいと噂にも立っていたので、さすがに君に手を出す奴はいなかった。もしもチョッカイを出す奴がいたら……この僕がタダでは置かない!

 そう、自分でも分っている、僕という人間は人より独占欲が強いのだ。


 僕が大学を卒業した年に、母が心不全で急死した。

 母の死は悲しみよりも、僕にとって汚い血の呪縛から解放された喜びの方が遥かに大きかった。

 遺産や税金問題は父の有能な秘書と弁護士が上手くやってくれたので、母の財産はすべて、そのまんま僕が相続することができた。その上、父が会社をひとつ僕に任せてくれた。出社してもしなくても良い、毎年、会社役員として役員報酬だけを受け取れる。そんな気楽な会社に大学を卒業した年に僕は入社した。

 そして、君の卒業を待って、イタリアの教会でふたりきりで結婚式を挙げた。

 新婚初夜、ペアのマリッジリングをくすり指に嵌めて、僕は初めて君を抱いた。ずっと守ってきたのだから、君は処女だった。シーツに付いた赤い染みに男として感動して泣いた。

 僕だけの女、僕の妻、君だけを生涯愛し続けることを深く心に誓った。


 ――心も身体も結ばれて、ふたりは仲睦ましき「比翼の鳥ひよくのとり」になったのだ。

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