なー子の永遠

九良川文蔵

なー子の永遠

『……地球に接近……てい……る巨……隕石……明日に……研……者……見解に……ると地……の……滅はさけられ……い……』


「よく聞こえない」

 古ぼけたラジオを指先でとんとんと叩きながら、なー子はそう呟いた。

 海沿いの道にはおれとなー子以外誰も居ない。聞こえるのは遠いカモメの鳴き声ばかりだ。晩夏にも関わらず日差しがきつくて、おれは汗ばんだ顔をタオルでぬぐった。

溝呂木みぞろぎくん、ラジオがよく聞こえない」

 なー子が繰り返す。

「貸してみ」

「うん」

 つまみをぐりぐりいじってヘルツを合わせる。なにぶん骨董品レベルのポンコツラジオだからノイズは消えないが、なんとなくでも言っていることが聞き取れればそれで良いだろう。

 世界の終わりが告げられたのは今から半年前。春も近づいた日のことだった。巨大隕石なんて間抜けな理由で地球滅亡だなんて、正直笑える。

 当然人類は上を下への大混乱だったが、フィクションの物語のように暴動や戦争は起こらなかった。最初は騒いでいた人々もみんな恋人や家族と静かに最後を待つことにしたらしく、それ以降はどこへ行ってもがらんとしている。

 それから半年。夏の終わり。

「明日かあ」

 空を見上げると巨大な星がある。あの星が明日落ちてきて、おれ達は全員死ぬ。それでおしまい。

「溝呂木くんも死ぬの?」

 なー子が大きな目でこちらを見る。そうだよ、とおれは答えた。

「みんな死ぬよ」

「なんで? どうして生き物って死んじゃうの?」

 ……出た、なー子の哲学。

「そりゃ、あれだよ。増えすぎたら困るからだよ」

「じゃあ増えなきゃ良いじゃん」

「そうだけどさ……」

「どうして困るって分かってて増やすの?」

「うーん、増えると困るから減るんじゃなくて減ったら困るから増やす、とか……あー、上手く言えない。分かんない」

「なー子も分かんない」

「分かんない者同士だな」

「うん、おそろいだね」

 特に何が面白いわけでもないのに、二人でくすくすと笑う。

 おれとなー子の付き合いは、赤ん坊の頃にまで遡る。同じ日に、同じ時間に、同じ病院で生まれた。家も近所でおまけに気が合う。嘘のようだが、ところがどっこい全て本当のことなのだ。

 仁科にしな阿子あこだから、なー子。おれがつけたあだ名。おれがなー子なー子と呼ぶからクラスでもこの呼び方が定着して、教師までもがなー子さんだなんて呼んでいた。

 なー子との関係について双子だとか夫婦だとか言われてからかわれることもあったが、そこそこ楽しい毎日だった。

 世界滅亡が確定してから学校には行っていない。当然だ、勉強なんかしたってもう意味はないのだから。教師だって仕事をする意味がない。わざわざ『明日から学校は閉鎖します、みなさん悔いのないように生きてください』と書いてあるプリントが配られて、おれ達の学生生活は終わった。

「春休みと夏休みくっついちゃったねえ」

 そのプリントを見たとき、なー子はそう言った。

 全くお気楽だ。いっぱい休めるじゃんラッキーくらいにしか思っていないのだろう。

 ……なー子はいつもそうだ。いつも少しずれている。いつも何かが少しだけ足りない。そんな彼女がどうしても危うく見えて、おれはなー子の隣を離れられない。

「ねえねえ溝呂木くん」

「ん?」

「来年受験じゃん。高校入ったら部活何やりたい?」

「……」

 ほら、やっぱりずれている。明日にはみんな死ぬのに。来年なんかやって来ないのに。

 おれはもう一度空を見上げた。相変わらず大きな星が、地球を滅ぼす最終兵器が、こちらを見ている。

「あの星綺麗だよね」

 なー子は呑気にそんなことを言って、ラジオを耳に近づけた。

「やっぱりこれよく聞こえないよ」

「……新しいの買うか?」

 店なんかどこも開いていないことを承知の上で言う。なー子の言動を決して否定せず、なー子の歩幅に合わせてゆっくりと一緒に歩く。

 不思議なことに、おれはそんな毎日が嫌いではなかった。……いや、大好きだった。将来の夢も目標も特にないが、これだけは大人になっても続けようと密かに決めていた。

「駄目だよ、これ大事だもん。溝呂木くんにもらったやつだもん」

「……そっか」

 古雑貨屋で安かったから買っただけの、なんのレアリティもないポンコツなのに。よくまあここまで大切にしてくれているものだ。少し嬉しいじゃないか。

「ねえ」

「ん?」

「溝呂木くん、死ぬの怖い?」

 せっかく逃避していたのに、唐突に現実に戻された。

 ああそうか、おれ明日死ぬんだ、と再認識する。

「怖い……かな」

「なんで?」

「だって死んだあとどうなるか、死ぬまで分かんないし」

「そっか、『分からない』は『怖い』なんだね」

「……なー子は?」

「溝呂木くんと一緒なら怖くないよ」

「一緒ねえ……」

 一緒に死んだとして、その先も一緒に居られるかは分からない。そもそも死んだあともおれはおれで居られるのだろうか。

 天国、地獄、輪廻、虚無。……死んだあとは引く手あまただ。どれが正解なのか分からない。だから、なー子の言うとおりなのだろう。『分からない』は、とても『怖い』。

「ねえ、死んじゃったら全部消えちゃうのかなあ。命は消えちゃうでしょ、それが死ぬってことなんでしょ。でも心と命は違うよね。心は消えるのかな。そういうの全部、一個も残らないのかなあ」

 なー子は言う。呑気な声で、哲学じみたことを。

「……全部ではないんじゃないか? ほら、過去は消えないだろ」

「なんで?」

「なんでって……時間は不可逆的なものだからだよ。一回起きた出来事をなかったことにはできないだろ、だからおれやなー子が死んでも、おれとなー子が生きていた事実は消えない。続きはなくなるけど、過程はなくならないんじゃないかな」

「ふーん。じゃあなー子達の過去は消えなくて、でも未来は消えちゃうの?」

「おれはそうだと思う」

「今は? 『今』は消える? 残る?」

 それは分かんない、と答えると、なー子はちょっと怪訝な顔をした。

「なー子も分かんない」

「分かる人なんか居ないよ」

「なー子達、このこと分かんないまま死んじゃうんだね」

「……そうだな」

 おれと一緒なら怖くないとなー子は言ったが、おれはなー子が一緒でも死ぬのは怖い。

 なー子はどうして怖くないのだろう。死に対する恐怖心や不安はないのだろうか。未練とか後悔とか将来の夢とか、そういう『まだ生きていたい理由』もないのだろうか。どうしてなのだろう。分からない。

 分からないのだ。十四年間、ずっと隣同士で居たのに。

 なー子は不意に海の方を見た。つられておれもそっちを見る。

 海の他に何もない片田舎なものだから、特にすることがない日は砂浜に座って無駄話をしたり波打ち際を走り回ったりしていた。

 そんな海にも、今は誰も居ない。波が押し寄せる音と、風が木々を揺らしてざわざわと鳴る音が重なって聞こえた。

「海、貸し切りだねえ」

「そうだな」

「泳ぐ?」

「やめとく、水着持ってきてないし」

「じゃあなー子もやめとく」

「やめとくも何も、なー子カナヅチだろ」

「うん」

 なー子は少し笑った。

 もう太陽は傾きかけている。空が徐々に赤くなっていく。

「溝呂木くん」

「ん?」

「明日も一緒に遊んでくれる?」

「……うん」

 いいよ、と答える。

 おれは最後の一日を、なー子と過ごすと決めた。

 おかしなことに、この期に及んでまだなー子が危うく見えたのだ。一人にしたらどこかに消えてしまいそうな気がした。

 ……それに、なー子は言ったのだ。おれが一緒に居たら死ぬのは怖くないと。ならば一緒に居てやろうじゃないか。生まれたときから死ぬまで隣同士というのも悪くない。

 消えるも何も明日には地球ごと消えるのだが、おれは本気でそう思った。

「明日は何しよっかな。海来よっか」

「海以外行くところないしな、この町」

「だよね。電車も動いてないしね」

 おれとなー子しか居ない海と、朱色に変わり始めた空。

「空ってどこまでが空なのかなあ」

「また哲学か」

「そもそも哲学って何?」

「哲学って何、か……。なー子、答えに困る質問ばっかりするよなあ……」

 哲学とは何かを考えること自体が哲学だ。

 なー子は無自覚に哲学をしている。いろんなことを考えている。だからこそ少しずれているのだと、おれは勝手に解釈している。

「で、空の話だっけ」

「うん」

「分かんないけど、オゾン層の内側までじゃないか?」

「そっか。じゃあオゾン層の内側の、どこからが空なの?」

「うーん……空中って『そらのなか』って書くし、地面とか海より上だったらそれはもう空なんじゃないかな」

「じゃあ」

 なー子はぴょんと跳ねた。

「今なー子空に居た?」

「居たと思う」

「そうなんだ。すごいね、なー子空飛べるよ」

「すごいな」

 なー子が幼稚園児みたいなことできゃあきゃあと喜んでいるから、思わずおれも笑った。

 昨日から、半年前から、一年前から、もっと昔から、ずっと変わらないやり取り。たぶん明日も……。

 そこまで考えて、おれは急に不安に襲われた。

 もし明日、なー子が変わってしまったら。そしたら、おれはとても悲しい。死ぬのは怖いが、なー子が変わってしまうことも同じくらい怖い。……どうしてこんなことを思うのだろう。

「なー子はなー子だよ。なー子以外にはなれないよ」

 なー子がおれの顔を覗き込む。

「過去は不可逆だから消えないんでしょ。だったらやっぱり、なー子がなー子として生まれて生きたことはもう変えられないよ。なー子はそれで良いよ」

「……そうだよな、なー子はなー子だよな」

「うん。なー子はなー子で、溝呂木くんは溝呂木くんだよ」

 当たり前のことを言われただけなのだが、おれはひどく安堵した。救われたような気さえした。明日、誰も救われないし誰も救えない、とても大きな『死』がやって来るというのに。

 それでも、なー子の言葉にほっとしている自分が居た。きっと彼女と一緒に居すぎて、なー子が隣に居ることが当たり前になっていたのだ。だからこそ怖かった。人間は変化を恐れる生き物だから。

 そのとき、例のポンコツがノイズまみれの音を鳴らした。


『……こんにちは、夕暮れラジオのお時間です……』


「あ、聞こえた」

 なー子が嬉しそうな声を上げる。

「物好きなもんだな。世界の最後までラジオやってんだ」

「仕事熱心だねえ」

 ラジオが流す不思議な声を、砂浜に突っ立ったまま二人で聞いた。なー子はこの『夕暮れラジオ』という番組が大好きで、毎日毎日飽きもせずに聞いている。

 テレビも雑誌も何もなくなった今、夕暮れラジオだけが楽しみなようで。なー子が喜ぶから、最後まで放送してくれるのはとてもありがたい。

 少女とも大人の女性とも取れる不思議な声。その声が物語を朗読したり、聞いたこともない歌を流したりして番組は進んでいく。

 空が赤から藍色になり始めた頃に夕暮れラジオは『では、また明日』と告げて、それから再びノイズが大きくなる。

「……そろそろ帰るか」

「うん」

 頷いて、なー子はラジオのスイッチを切った。




 意外と眠れた。

 布団の中で朝を迎えて、おれは最初にそう思った。窓の外はよく晴れている。きっと今日も暑いのだろう。

 顔を洗って、服を着替えて、髪を整えて。朝食を食べようと思ったが、冷蔵庫が空っぽだったから諦めた。

 今日、地球が終わる。みんな終わる。老人も子供も男も女も動物も植物も、全部。

「溝呂木くーん、あーそーぼー」

 外からなー子の大声が聞こえた。

「はーい」

 張り合うように大声で返事をしながら、サンダルを履いて外に出る。

 なー子はいつもどおりの姿でそこに居た。

 服も髪型も、ラジオを大切そうに抱える小さな両手もいつもどおり。おれは一瞬、今日が普通の日であるかのように錯覚した。昨日があって今日があるように、明日もあるような気がした。

「おはよう、なー子」

「おはよー」

 何をしに行くわけでもなしに海沿いの道へ向かう。やっぱり暑い。日差しで頭がくらくらしそうだ。

「暑いねえ」

「そうだな。もう九月なのにな」

「九月って夏?」

「上旬までは夏のうちに入ると思うよ」

「そっか。夏長いねえ」

「夏と冬ばっか長くて、春とか秋とかほとんどないようなもんだもんな」

「春と秋はそれで良いって思ってるのかな」

 言いながら、なー子はちらりとこちらを見た。おれは少し考えてから口を開く。

「本当は嫌だって思ってるかもな。でも夏と冬が暴君だから逆らえないんだよ」

「夏と冬の独裁政治?」

「うん」

「やだね、意地悪だね、理不尽だね」

「そうだな」

 二人でくすくすと笑う。

 あまりにもすっきりと晴れているから、空と海の境界が曖昧だ。見飽きたはずの景色なのに今日はひどく綺麗に見えた。……これはやっぱり、今日が最後だからなのだろうか。

 昨日より大きくなった星を見る。

 夏や冬と同じくらい意地悪で理不尽な隕石だ。地球が何か迷惑をかけたわけじゃあるまいし。

 やい隕石。お前って嫌なやつだな。

 心の中で毒づいて、おれはゆっくり息を吸い込んだ。夏の香りだ。夏の終わりの香りがする。こんな悲しい日なのに、変わらず死ぬのは怖いのに、どうしてかとても穏やかな気持ちだ。

 なー子がラジオのスイッチを入れる。もうニュースもやっていない。ただ、ざあざあと汚いノイズが聞こえるばかりだ。

「夕暮れラジオ、今日もやるかな」

「どうだろうな」

「やってほしいなあ。溝呂木くん、もし今日もやったら、一緒に聞こうね」

「うん」

 砂浜に下りて海を眺める。ふとなー子がこちらを見た。

「あのさ、溝呂木くん幼稚園の頃にここで綺麗な貝殻集めてて、コケた拍子に拾った貝殻入れといた巾着袋踏んづけちゃって、全部粉々になったの覚えてる?」

「あー、覚えてる」

「大泣きしてたね」

「大泣きしたな」

「カッコ悪かった」

「言ってくれるな……。しょうがないだろ、幼稚園児にとっての綺麗な貝殻にどれだけの価値があると思ってるんだ」

「なー子中学生になっても綺麗な貝殻大好きだよ。なー子の感性幼稚園児レベル?」

「むしろ幼稚園児の方が感性豊かなんじゃないか? 当たり障りのないものを好きで居られるのは立派な才能だと思うよ」

 へへへ、となー子は心底嬉しそうに頬を緩める。おれは笑顔を返しつつ、少し切なくなった。

 いつでも何回でも見られると思っていたこの笑顔も、もう見納めか。

 改めて自分に死が近づいていることを実感する。

 そして、なー子も死んでしまうんだな、と思った。

 死んだあとのことは『分からない』から『怖い』。もしこの瞬間に死後の世界の正解が分かったとして、そうしたら怖くはなくなるのだろうか。もしかしたら、なー子はそれを知っているからあんなことを言うのだろうか……なんて、馬鹿なことを考えてしまう。

 穏やかな気持ちだと自分で思い込んでいただけで、本当はかなりパニックになってしまっているのだろう。それに気づいた途端、泣きそうになった。全く情けない。なー子は笑っているというのに。

 ここで大泣きしたら、また『カッコ悪い』と言われるだろうか。

「あのさ、なー子」

「何?」

「生き残る方法、とか、ないかなって……ちょっと思った」

「例えば?」

「うーん……シェルターに籠るとか?」

「地球ごと消えちゃうんだから意味ないよ」

「じゃあ、ロケット作って飛んでくとか、なんかすごいビームで隕石砕くとか……はは、何言ってんだろな、おれ」

「良いね、すごいビーム。溝呂木くんの貝殻みたいに木っ端微塵だ」

 なー子は笑った。

 おれは上手く笑えなかった。

「おれ……やっぱり死ぬの怖い」

「……うん」

「まだ生きてたい」

「そっか」

「なー子は? なー子は、本当におれと一緒なら怖くないのか?」

「どうだろうね」

 なー子の笑顔が、ひどく大人びて見えた。全てを悟った哲学者みたいな顔をして彼女は笑っている。その顔を見て、余計に泣きそうになった。

 逃げるように空を見ると、太陽は頭の真上にまで来ていて、おれはやっと朝から昼になったことを知った。

「……腹、減ったな」

「飴あるよ」

 言って、なー子はポケットから飴玉を数個を取り出した。

「なー子のとっておき。一緒に食べよう」

「できればご飯食べたいんだけどな……」

「でも飴ちゃん美味しいよ」

「それは分かってるよ」

 差し出されたそれを受け取り、包み紙を開いて中身を口に放る。

「美味い」

「でしょでしょ」

 もう一個あげる、とまた渡された。

 人生最後の食事はフルーツ味の飴か。……本当にどこまでも間抜けだ。でもまあ、これくらいの方がおれ達らしいのかもしれない。

 それから無駄話をしている間にやがて昼過ぎになり、夕暮れが近づいてくる。隕石はもうほとんど空を覆うほど大きくなっていた。

 おれはぎゅっと両の拳を握って空を睨む。

 なー子がラジオのスイッチを入れた。

 当然人の声は聞こえない。ノイズさえ途切れ途切れだ。

「……なー子」

「何?」

「おれ演劇部入りたいな」

「演劇部?」

「昨日訊いてきたろ、高校入ったら部活何やりたいかって」

「あ、そういや訊いたね。そっか、溝呂木くんは演劇部か」

「うん、せっかく中学でも演劇部だったんだから、続けたいなって」

「良きこと良きこと。継続は力なりだよ」

 んふふ、となー子は喉の奥で笑った。

 どうでも良い話をしよう、なー子。今なら少し分かるよ。怖いことに変わりはないけれど、おれもなー子と一緒なら、死ぬときまで笑っていられる気がする。

 心の中で呼びかけて、おれも少し笑った。泣きそうだったけれど、笑った。

 今度こそ本当に穏やかな気分だ。諦めがついたからだろうか。それとも、なー子の笑顔に影響されたのか。

 ……きっと両方だ。

「なー子は部活何やる?」

「なー子はね、陸上部入りたい」

「運動部に入るのか? なー子が?」

「うん、足速くなりたいの」

「茶道部から陸上部かあ。大胆な転身だな」

「ふっふっふ、新しいなー子の可能性を見せてあげよう」

「楽しみにしてる。目指せオリンピック」

「それは無理」

「諦めんなよ」

 空はもう、異様な色になっていた。赤黒い不気味な色。まさに『この世の終わり』だ。

 なー子はふと黙り込んで、体ごと視線をこちらに向けた。

「溝呂木くん」

「ん?」

「ほんとのこと言うね」

 ほんとのこと? ……何だろう、なー子がおれに隠し事をするようなことがあっただろうか。

「なー子、ほんとは死ぬの怖い」

「……え」

「溝呂木くんと一緒でも怖い。まだ死にたくない。今もどうにかして生き残れないかって思ってる。だからさっきのビームの話、ちょっとだけ本気にした」

「なー子……」

 唐突な告白についに堪えきれなくなり、おれの頬を涙が伝った。そんな俺を見て、なー子は静かに笑っている。

 ああ、格好悪いな、おれ。本当は頭でも撫でて、気休めにさえならないのは分かっていても『大丈夫だ』と言うべきなのに。今のおれは、泣くことしかできない。

「……溝呂木くん、ありがとう。今日も一緒に居てくれて。なー子、一人だったらどうにかなっちゃいそうだったよ」

 なー子はすぐ傍まで歩いてきて、おれの肩をぽんぽんと軽く叩いた。

「聞いて、溝呂木くん。昨日の夜、怖くて怖くて仕方なくて、一晩中ずっと考えてたの。でね、考えた末に、なー子は一つ仮説を立てました」

「……仮説? こんなときまで哲学かよ」

 涙を流しながら、それでも笑えてきた。これで良い。なー子とおれは、これで良い。

「時間は不可逆的で、死んじゃったら未来は消えるけど過去は消えないって話したよね」

「したな」

「だから、なー子はなー子以外にはなれないし、溝呂木くんも溝呂木くん以外にはなれない」

「そうだな」

 おれの相づちを聞いて、なー子は何度か軽く頷いた。よしよし、ちゃんと聞いてるな、とでも言いたげに。

「で、問題は『今』は残るかって話だよね。死んだその瞬間はどこに行くのか」

「うん」

「なー子はどこにも行かないと思う」

「……どこにも行かない? どういうことだ?」

「その瞬間が永遠になるんだよ。ずーっとずーっと、永遠にその瞬間なの」

「ふうん……死んだ瞬間で時間が止まるって感じか? ……ちょっと違うか」

「うん、ちょっと違う。止まるんじゃなくて進まなくなるの。永遠に進まないの」

 だから、となー子は言葉を続ける。

 ポンコツラジオを大切そうに抱きしめて。

「だからね、なー子、宝物とか大好きなものを傍に置いて死ぬことにしたの。飴と、ラジオと、溝呂木くん。そしたらずっと一緒だよ。永遠に。……あ、この言い方だとちょっとヤンデレっぽいかな」

 なー子は照れくさそうに笑った。全てを悟った哲学者なんかじゃない、普通の女の子のような笑顔で。

 おれはぐしゃぐしゃになった顔をぬぐって笑顔を返した。ちゃんと笑えているのかは分からないが、心の底から笑った。

「いや……おれは良いと思う。永遠の一瞬って文学的でロマンがあるし、けっこう腑に落ちた。すごく素敵な答えだ」

「へへ、そうかなあ、ありがとう。なー子、やっぱり溝呂木くんと友達で居られて良かった」

 空を覆う星。意地悪で理不尽な隕石。人類を滅ぼす最終兵器。

 死ぬ。おれもなー子も死ぬ。頭の中でそれを確認するのももう何度目だろうか。なー子の仮説が正しいか確かめるすべは一つもないが、それでもおれの中では正解だ。そうだったら良いなあ、きっとそうなんだろうなあ、と本気で思っている。

「じゃあ、おれとなー子はずっと一緒だな」

「うん。死ぬのは怖いけど、寂しくはないよ。これってけっこう大きなことだよね」

「ああ、大事なことだな」

 笑い合う。二人で、内緒話でもするかのように。何でもないことのように。明日があるかのように。

 なー子の言うとおりだ。怖いが、寂しくない。

 不意に、黙り込んでいたラジオがざあざあと声を上げた。途切れ途切れで歪んでいて、それでも確かにラジオは鳴った。


『……んに……は……夕暮……ジ……の……時……です……』


「あ、夕暮れラジオだ」

 なー子が嬉しそうに叫ぶ。

「なー子ね、この番組大好きなの」

「……知ってる」

 世界の終わり。

 おれ達は小さく笑いあって、崩れていく空を見ながら永遠になりうる一瞬を待った。

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