これでは私が襲っています 5


 詰問されているようだ。


 遥は凍りついたまま、航を見上げていた。


 リストラ寸前の社員が、何故、真面目に働かなかった? と問い詰められている感じだった。


「何故、そんなことを訊く」


「あ……えーと」


 落ちたウロコを拾い上げそうになったが、念にも運にも頼らず、頑張った。


「か、課長。

 課長は、今日は何時に帰るんですか?」


「七時には出るが」


「あ、そ、そうなんですか?」


 ん?

 出るが? と思っていると、案の定、


「今日は、用事があるから」

と言う。


「ご、ご用事があるんですか」


 しょんぼりして言うと、どうかしたのかと問われる。


 ああ、なんでか、オブラートに包んで言わなければ、と思いながら、遥はぼんやりしたまま言っていた。


「課長と一緒に帰りたかったんです」


 ……なにも包めていなかったな、と思っていると、航は、仕事のスケジュールを部下に告げるように言ってくる。


「そうか。

 今日は無理だな。

 約束があるんだ」


「そうですか。

 すみませんでした。


 真尋さんの店にでも行って帰ります」


 とぼとぼと帰ろうとすると、

「待て」

と言われる。


 はい? と振り返ると、

「真尋の店には行くな。

 真っ直ぐ帰れ」

と言われた。


 何故、そこで理不尽な命令を大魔王様、と思いながら、放心状態のまま、

「じゃ、他の店に行って帰ります」

と振り返り言って帰ろうとしたが、


「駄目だ。

 何処にも寄り道せずに帰れ」

と言ってくる。


 遥は足を止め、さすがに文句を言った。


「なんでですかっ。

 いいじゃないですかっ。


 傷心の私がひととき憩いの場所に行くくらいっ。


 っていうか、貴方はなんの権利があって、私に命令してるんですかっ」


 そう言いながら、ああ、やばい、声が大きくなってきた、とは思っていた。


 もう遅い時間だが、結構人は居るし、通りすがりのおじさんが面白おかしくこちらを見て通っている。


「権利……」

と呟いた航は上を見て少し考え、言ってくる。


「確かにないな。

 ちょっと心配しただけだ。


 夜道は暗いし」


 夜道が暗いのは、当たり前です、大魔王様。


 うちの姉など、夜道は暮れないから、何時まででも遊んで大丈夫と申しております、大魔王様。


「お前は方向音痴だし」


 ……そこは反論できないな。



 路地の白い猫を目印にしているなどと言おうものなら、ますます帰れと言われることだろう、と思っていると、航は溜息をついて言った。


「……まあ、真っ直ぐ帰れ」


 結局、そこに辿り着くんだな、と思いながら、

「わかりました。

 じゃあ、帰りますっ。


 失礼しますっ」

と言って、遥は駆け出した。







 なんの権利が、か……。


 確かにないな、と思いながら、航は何故か、エレベーターを使わずに階段を駆け下りていく遥を見送っていた。


 そのとき、

「いやー、新海くんも、落ち着き払ってると思ってたけど、若いねー」

とさっきから、こちらを見ていたおじさんが言ってくる。


「あんなこと言ってたら、そのうち逃げちゃうよ」

と笑っている。


「まあ、あんなに可愛かったら心配だろうけどさ。

 ある程度は自由にさせてやらないと。


 うちの嫁とか今はもう、こっちが、なに言っても聞かないけどね」


 そう愚痴のように漏らし始めるおじさんに、通りかかった別の男が、

「嫁、幾つだよ。

 今更、他の男が声かけないだろ」

と笑って言う。


「いやいや。

 わからんぞ。


 最近は熟年の不倫が流行りだから」

と何故か張り合い、嫁に不倫をさせたがる。


「どうだかな。

 まあ、うちの嫁は今でも可愛いが」

と後から来た方の男が自慢げに言った。


「そりゃ、みっちゃんは可愛いが、うちの嫁の方が胸がデカいぞ」


 どうやら、どちらも社内恋愛だったらしく、嫁自慢で揉め始める。


 なんだか一気に平和になったな。


 俺はなんだか平和じゃないんだが……と思ったそのとき、

「新海、七時には出るぞ」

と通りかかった大葉に肩を叩かれた。


 つい、振り向いて、

「なんで今日にしたんだ」

と文句を言うと、なんなんだ、という顔で言われる。


「じゃあ、来るなよ」

「行くよ」


 仲間内の出産祝いを渡す会だ、行かないわけにもいかない。


「遥ちゃんか?

 今、追いかければいいだろうが」

と言われ、


「見てたのか?」

と訊くと、


「いや、他にお前が動揺することなんかなさそうだから」

と笑って言ってくる。


「ところで、なんで、遥ちゃんとか呼んでんだ」

と大葉に言うと、からかうように言ってきた。


「いや、いずれ、名前で呼ばないといけなくなるかな、と思って」


「……お前、遥に気があるのか?」


「お前、実は、莫迦なのか……?」

と同期で見つめ合った。






 上からなにかが降ってくる。


 階段を上がっていた小宮は、それを見ていた。


 足を踏み外した遥だ。


 うわっ、と声を上げながらも、片手で手すりを持ち、片手で遥のお腹辺りに手をかけ、抱きとめた。


「大丈夫!?」


「す、すみません」

と言いながら、まだ呆然としているのか、遥は自分に抱かれたまま、呟いていた。


「これは一体、何事でしょう……」


 いや、それは僕が聞きたいが、と思っていると、

「どうも足を踏み外したようで。

 すみません。


 ……あっ、すみませんっ」

とようやくそこで気づいたらしく、慌てて離れたが、その弾みで、また、ひっくり返る。


 尾てい骨を階段の角で打ったのか、ぐっ、と低い声を上げたきり、俯いて動かなくなった。


 燃え尽きた人のように、そのまま階段に座り込んでいる。


「……大丈夫?」


 しばらくして返事があった。


「だ、大丈夫じゃないです……」


「おんぶしてあげようか?」


 特に下心もなく、ほんとに子どもに言うように言ってしまう。


 遥が本気で弱っているように見えたからだ。


「うう。

 結構です。


 すみません。

 大変ご迷惑をおかけしました。


 土下座したいところなのですが、お尻が痛くて立てません」

と言うので、


「そりゃそうだろうね……」

と言った。


 っていうか、此処で土下座したら、また転がり落ちるけど、と思っていた。


「そのまま、少しじっとしてたら?」


「はい。

 ありがとうございます。


 どうぞ、小宮さん、行ってください。

 すみませんでした」


「いや、僕もう仕事終わってるから」

と言って、そのまま側に居る。


 少し痛みが治まったのか、顔色がちょっとよくなった遥が、

「大丈夫です。

 大丈夫ですから。


 あ、でも、そうだ。

 助けていただいたお礼になにか奢りますよ」

と言ってきた。


 だが、気づいたように、

「そうだ。

 すみません。


 今日以外で」

と付け加える。


「今日はなにかあるの?

 課長とお出かけとか?」

と訊くと、


「いいえ。

 課長に真っ直ぐ帰れと言われたんです」

と言う。


「課長と付き合ってるわけじゃないんだよね?

 なんで言うこと訊くの?」

と少し不満に思い、そう問うと、


「……そういや、そうですよね」


 いや、そうなんですよ、と遥はなにか思い出したように頷いて言った。


「そう文句言って、階段下りてて、落ちたんです」


「じゃあ、これで遥ちゃんが死んでたら、課長、殺人犯だったね」


「は?」


「殺人犯の言うことなんて聞くことないよ。

 出かけようよ」


 なんだかんだで航の言うことを聞こうとしていることが面白くなく、遥を誘う。


「そうだ。

 僕、噂の真尋さんの店に行ってみたいんだけど。


 連れていってよ。

 ニンジン入りの焼きそば食べてみたいから」

と言うと、


「いや……ニンジン、普通入ってますよね?」

と確認された。


「でも、ほんと真尋さんの焼きそば、美味しいんですよ。

 ナポリタンも最高です」

とようやく笑顔が出る。


「落ち着いた美人を紹介しろと言われたんですが。


 ああ、いや、落ち着いた美人に紹介しろだったかな?


 ……小宮さんは美人ですが、男ですし」

で、遥は言葉を切った。


 落ち着いてもいない、と言いたいのだろう。


「でも、僕に紹介しておくと、そのうち、美人をたくさん連れていくよ」

と微笑む。


 連れてきそうだ……、と思ったようだ。


「じゃ、しばらくそこに座ってなよ。

 僕、話し相手になってあげるから」

と言うと、遥は赤くなり、


「もう立てますよ。

 じゃあ、行きましょうか。


 あ、でも、小宮さん、あっち、帰る方向じゃないんじゃないですか?」


 いつも見ないけど、と言ってくる。


「大丈夫、大丈夫」


 実は今日、車なんだけど、と思いながら、とりあえず、そのことは伏せておくことにした。


 車だと警戒されそうな気がしたからだ。


 遥と一緒に電車に乗ることにする。




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