これでは私が襲っています 3
……ニ、ニンジン、と思いながら、遥は冷たい手すりをつかんでいた。
『課長、真尋さんに聞きましたよ。
ニンジン食べられたんですってねー』
と明るく陽気に言いたかったのだが。
口から出たのは、
『……ニ、ニンジン』
という絞り出すような声だけだった。
我ながら意味がわからない。
だって、いきなりだったからーっ、と自分で自分に言い訳しながら、遥は手すりに額をぶつける。
「ねえ、ニンジンがどうかしたの?」
と背後から声がした。
振り返ると、何故か小宮が立っていた。
遥と目を合わすと、ぷっと笑い、
「面白いから見てた」
と言われる。
み、見られてた……。
「小宮さん~っ。
なんでこの電車乗ってんですかーっ」
とおのれの電車でもないのに、文句を言うと、
「いや、今日さ、大学の友だちが集まっててさ。
ちょっとでいいから顔を出せって言われたんで」
と言いながら、まだ笑っている。
「ねえねえ。
付き合ってるんじゃなかったの? 課長と。
なんであんなに緊張してんの?」
と言われてしまう。
「つ、付き合ってなんかないですよ。
あと、私、別に、課長を好きなわけでもないですからっ」
と早口にまくし立てると、
「いや、そんなことまで訊いてないけどね」
と勝手に弁解を始めた遥を笑う。
恨みがましく小宮を見上げたあとで、
「小宮さん。
小宮さんはどうしてそんなにいつも自信満々なんですか?」
と訊いてみた。
「いや、自信満々って……。
なにそれ、嫌味?」
と苦笑いされる。
「僕が女の子に手が早いってこと?」
「いやー、自信がないと、あんなにどんどんいけないだろうなと思って」
とそこは否定せず訊いてみた。
本当に知りたかったからだ。
確かに、小宮も真尋もチャラいのかもしれないが。
今はその堂々と異性に声をかけられる姿が眩しくもある。
いや……まあ、なにも意識していない相手なら、自分も簡単に声くらいはかけられるのだが、と思っていると、小宮は言う。
「別に自信があるわけじゃないよ。
でも、声かけないと始まらないじゃない、なにも。
何十年と経って、同窓会とかで、あのとき好きだったんです、私もよ、とか言い合って、なんになるの?
そのときにはきっと、お互い家庭もあるだろうし、好きな人も変わってるでしょ。
なんの発展性もないじゃない。
そのとき、ああこういう未来もあったんだなって思うより、今思ってるのなら、今、言わなきゃ。
そのとき幸せならいいけどさ。
不幸だったら、絶対後悔するし。
幸せでも、別の人生があったのかなとか思っちゃうと思うから」
「私、今、小宮さんになりたいです~」
と言いながら、そんなこと考えてたとは知らなかった、と思っていた。
小宮さんにも、なにか後悔するようなことがあったから、そんな風に考えるようになったのかもしれないと思ったが、訊いては悪い気がして、黙っていた。
「でも、そんな緊張するほど、課長が好きなんだねえ」
変わってるね、という口調で同情気味に言われる。
「ほっ、ほんとに、そんなんじゃないですけどっ。
いつも振り回されるばっかりで、なんか腹立つって言うか。
でも、全然話せないでいると、ちょっと顔が見たいかな、とか、思ってみたり。
自分でもよくわからないんです」
と本音を吐露すると、
「そうなの。
可愛いねえ、遥ちゃん。
そういうの恋の始まりだよね。
っていうか、まるで初恋だよね」
と言われ、はた、と気づいた。
「そういえば、今まで誰も好きな人とか居ませんでしたよ」
日々、それなり楽しく暮らしていたので、気づかなかった、と思っていると、
「えっ? うそっ」
と驚かれる。
「じゃあ、誰とも付き合ったことないの?
好きな人は居ないけど、付き合ってたことはあるっていうオチ?」
と何故か確認してくる。
「いや、誰もないですよ。
好きでもないのに、付き合ったりするわけないじゃないですか」
と言うと、
「ピュアだね、遥ちゃん。
女の子でも、興味本位だったり、彼氏居ないと格好悪いからって理由で付き合ったりするでしょ」
と感心したように言われた。
「別に彼氏居なくても、格好悪くないです。
これはこれで毎日楽しいので困りません」
「ほんと面白いね、遥ちゃんは」
まあ、じゃあ、男心もわからないか、と言われる。
「課長だって、遥ちゃんのこと意識してるかもしれないけど、あの人、あんまり顔に出さない人だからね。
本当は今、遥ちゃんと同じくらい動揺してたかもしれないよ」
いや、そんなこともないと思うが、と思う。
今日は酔ってもいないようだし。
正気のときとは、別人だからな、と思った。
……酔ったときだけ付き合うというのはどうだろう。
酔っているときに、婚姻届を出しに行って、酔っているときだけ夫婦だとか。
ああ、妄想の方向性がおかしい、と思っていると、小宮が、
「課長に告白しちゃえばいいじゃん」
と軽く言ってくる。
えっ、と詰まっていると、
「まあ、うまくいかなったから、僕のところにおいで。
いつでも受け止めてあげるから」
と笑って言ってくる。
「……なんでみんなが小宮さんをいいと言うのかわかりました」
と言うと、えっ? 今っ? と言われる。
「小宮さん、素晴らしいです。
神です。
私もそんな風にさらっとそんなこと言って人を慰めてみたいです」
まあ、私が受け止めてあげると言ったところで、誰も来ないだろうが、と思いながら、そう礼を言うと、小宮は、
「えっ? 慰めたわけじゃ……」
と言いかける。
「あ、着いた。
ありがとうございます。
では、また明日」
さよーならーと手を振り、遥はおのれの降りるべき駅で降りていった。
神ってなに? と固まったまま、小宮はホームから手を振る遥を見た。
……変わってる。
あの、人に興味のなさそうな課長が好きになるだけのことはある。
『……ニ、ニンジン』
と航に向かって振り絞るような声で言ったときの遥を思い出し、ひとり吹き出す。
いいねえ、古賀遥。
今まで、社内に居る可愛い子のひとりとしか認識してなかったけど。
そのまま友人の家に行って、お前、なに機嫌いいの? と言われてしまった。
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