通勤電車は恐怖の時間 3
降りたことのない駅だった。
大魔王様が降りる駅とは違うようだが、と思いながらついていく。
どうでもいいが、足速いな、この人。
普通に歩いてるように見えるのに。
歩幅が違うのだろうか。
足の長さか。
うーむ。
不愉快なり。
などと考えながら、歩いているうちに、昔ながらの商店街を通り、閑静な住宅街へと出た。
落ち着いた雰囲気の町だ。
来たこともないのに、懐かしい感じがする、と今来た道を一瞬振り返った隙に、大魔王様は消えていた。
ええーっ。
なんでーっ!?
遥は慌てて辺りを見回す。
もう遅い時間だ。
後ろの商店街も開いておらず、人気がない。
大魔王様っ、何処ですかっ。
しかも、道を覚えていなかったので、駅へ戻ることもできない。
ど、どうしよう、と思ったとき、誰かが腕をつかんだ。
ひゃーっ、と寝ているニワトリも飛び起きそうな声を上げかけたが、すぐに大きな手で口を塞がれる。
「莫迦かっ、俺だっ」
と、頭のすぐ上で航の声がした。
「あ、大魔王様」
つい、ほっとしてそう呼んでしまう。
「……お前、陰で呼ばれているだけのはずの俺のあだ名が口から出てるが、大丈夫か」
す、すみません、と思いながら、うつむいたとき、手を握られた。
「迷うな、こんな簡単な道で」
と言いながら、そのまま、航は遥の手を引き、細い路地へと曲がっていく。
が、街灯もあまりないのですが。
私は何処へ連れていかれるのでしょうか。
低いブロック塀の上。
ちょうど目線の高さを、ととととっと青白い月明かりに照らされた白い猫が歩いていく。
不思議な町にでも迷い込んだような、なんとも幻想的な光景だ。
夢かな? とふと思う。
私、本当は、あのまま電車で、本を読みながら寝ちゃってるとか。
そして、薄情な大魔王様は私を置いて、さっさと降りてしまったに違いない。
そして、私は今日も車庫に入っていって、車掌さんやお掃除の人に、
「うわっ」
と驚かれるのだ。
いっそ、そっちが現実のような気もしてきたが、これは夢ではない、と自分の手が知っていた。
っていうか、こんなに長い間、こんなにしっかりと男の人に手を握られたの、初めてなんですけどっ、と思う。
学校の行事で手をつながざるを得なくても、中学生を過ぎた頃になると、みんな、恥ずかしそうに、そっと触れるくらいになってくるから。
大魔王様の手は、肩幅と同じくらいがっしりとした造りの、熱い手だった。
そんな航の手の熱を感じながら、男の人は体温が高いから冬はこたつ代わりになるってえみちゃんが、とよくわからない考えが頭をぐるぐる回る。
ふいに、前を歩く航が歩くペースを落とした。
目の前に、明るい光がある。
住宅街に、ぽつんと喫茶店があった。
その光だ。
その明るさとこの新しい住宅地に馴染んだ、お洒落な感じに、ほっとしていると、中から男の人が出て来た。
暗がりでよく見えないが、背の高い細身の男のようだった。
看板の灯りを消して、しまおうとしている。
「
と航は彼に向かい、呼びかけた。
「なに?
今、来たの?
もうオーダーストップだよ」
真尋と呼ばれたその青年が顔を上げて言う。
店内からの灯りで、ぼんやり真尋の顔が見えた。
黒髪の、やたら整った顔だ。
だが、何処かで見たことがあると思った。
「入れろ」
と真尋に向かい、航は言う。
「オーダーストップだよ」
「入れろ」
「オーダーストッ……」
言いかけ、航の目つきに、はいはい、と諦めたように真尋は溜息をつき、ガラス扉を押し開けた。
此処でも大魔王様なんだな、と思っていると、真尋は、
「なに?
また、晩ご飯食べそびれたの?」
と航に訊いたあとで、こちらを見、
「……彼女?」
と訊いてくる。
その目線は下の方を見ていた。
そっ、そういえば、手をつながれたままだった!
慌てて振りほどこうとしたが、この頑丈な手は、ちょっとやそっとでは外れはしない。
「はははは、離してくださいっ」
と慌てふためいたところで、ようやく、航は手をつないでいることに気づいたようで、離してくれた。
まったく動じていませんね……。
これでは私が馬鹿みたいではないですか。
そんなことを考えていたら、カウンターに入った真尋が、こちらを見て笑い、
「いらっしゃい。
なんにする?」
と訊いてきた。
うわああああっ。
絵に描いたような美青年って、どんなのだっ、と長年、思ってたが、こんなのだっ、と思った。
髪、私より、さらさらだしっ。
住宅街のわかりにくい場所だが、幾らでも女の子が来そうだ。
だが、やはり、この顔は知っている、と思った。
「こ、古賀遥と申します」
と遥が頭を下げると、航が、
「弟だ」
と言ってきた。
……ですよね。
よく見たら、そっくりですよ、とマジマジと見てしまう。
受ける印象はかなり違うが。
「でもあの、ほんとに弟さんなんですか?
顔はそっくりですけど、細いですよ?」
と思わず言ってしまい、真尋に、
「遥ちゃん、筋肉フェチ?」
と笑われる。
「まあ、兄貴と付き合うくらいだからね」
つっ、付き合ってませんーっ!
「よくこんなめんどくさいのと付き合う気になったね」
「いえ、付き合っては……」
と声に出して、否定しかけたとき、
「遥。
夕食は食べたのなら、なにか飲め、奢ってやる」
と言いながら、窓際のテーブル席に航は座ろうとする。
「なんでそんな離れるのさ。
カウンターでいいじゃん」
ねえ? と真尋が微笑みながら、目の前のカウンターを遥に目で示す。
「遥ちゃん、此処に座りなよ。
兄貴はそっちでいいよ」
と言い出したので、航も仕方なくカウンターに戻ってきた。
「遥ちゃん、なんにする?」
「あ、えーと……。
じゃあ、紅茶で」
とメニューを目で探しながら言うと、真尋は笑顔のまま、
「うち、実は珈琲専門店なんだけど」
と言ってくる。
そっ、そういえば、表にそう書いてあったっ、と気づき、
「あっ。
じゃあ、珈琲でって。
いろいろ種類ありますよね」
と言うと、
「嘘、嘘。
いいよ、紅茶で。
淹れてあげるよ。
一応、メニューにはあるから」
と笑う。
「いえ、真尋さん、お薦めので」
真尋さんとか呼んじゃっていいのかなと思ったが、向こうも遥ちゃんって呼んでるし、新海さんとは呼べないしな、とチラと航を見ると、航は、
「この店のお薦めはナポリタンだ」
と言ってくる。
「だから、珈琲専門店って言ってるだろ」
「珈琲を主に置いているナポリタンのうまい店だ。
ナポリタン」
はいはい、と真尋は紅茶を淹れながら、ナポリタンを作り始めた。
それにしても、私は何故、此処に連れてこられたんでしょうね、と思いながら、遥はスツールに座っていた。
店内はシックな色合いでまとめられていて落ち着いている。
ようやくメニューを見つけ、眺めていると、小さなスキレットのようなものに入っているフレンチトーストが美味しそうだ。
頼もうかな。
でも、オーダーストップだったよね、と思ったとき、いい匂いがしてきた。
ケチャップが焦げる匂いだ。
思わず、真尋の手許を覗き込むと、真尋が少し笑った。
「はい、どうぞ」
と航の前にそれは置かれた。
鉄板にのったナポリタンだ。
大きなウインナーがど真ん中にのっている。
凝った味付けでなく、やはり、ケチャップ!
この匂いがたまらないっ、と遥は拳を作る。
オレンジの中の緑のピーマンが目にも鮮やかだ。
「喫茶店のスパゲティって、なんでこんなに美味しそうなんでしょうね」
思わずそう呟き、
「パスタじゃなくてスパゲティなんですよっ」
と力説するとと、
「それ、ディスってんの?
一応、メニューには、パスタって書いてんだけど」
と真尋が笑う。
「いえいえいえ。
最上級に褒めてるんですっ」
と言うと、航が、なんだ、そんなに好きなのか、という顔をして、
「じゃあ、食え、遥」
と言ってきた。
えっ。
ほら、と鉄板をこちらに押してくるが。
ええええっ?
でもそれ、大魔王様が食べてたフォークですよねっ、と赤くなったまま、手を出さずに眺めていると、
「はい」
と真尋がフォークを出してきた。
出しておいて、
「ああ、ごめん。
余計なことしちゃった?」
と航を振り返り、からかうように笑う。
「ところで紅茶飲んでよ」
ああっ、すみませんっ、と既に出されていた紅茶にようやく気がついた。
つい、ナポリタンに目を奪われていたが、琥珀色の美しい紅茶だ。
そういえば、紅茶としか頼まなかったけど、なんの紅茶なんだろうな。
一口、口にし、いつも飲むのより、香り高い感じだな、と思う。
「はい」
と目の前にスコーンののったお皿が置かれた。
「紅茶といえば、スコーンでしょ。
今日はもう閉店だからあげる」
と真尋が微笑んで言う。
この微笑みを見るために通いつめる人とか居そうだな……と思いながら、
「ありがとうございますっ」
と頭を下げた。
「っていうか、今日はいいよ。
兄貴もタダで。
彼女連れてきた記念ってことで」
「えっ?
いえ、私はただの通りすがりの……」
航は、通りすがりってなんだ? という目でこちらを見ながら、
「幾らだ」
と言う。
真尋が顔をしかめて言った。
「おにーちゃん、今、タダでいいって言わなかったかな?」
「幾らだ」
「本当に人の話を聞かない人だよね。
っていうか、いい加減、値段覚えてよ。
これしか頼まないくせに。
650円になりますー。
遥ちゃんは今日のは奢り。
今度、友だちでも連れてきて、店の宣伝してくれたらいいから。
女の子の口コミってすごいからね」
「あ、でも……」
「はい。
ごちゃごちゃ言わないで。
もうレジ閉めたからね」
はいっ、と650円レジに放り込んだだけで、そう言う。
「あ、ありがとうございます。
ばっちり宣伝しておきますっ」
「ありがとう」
と微笑んだ真尋は、
「店の雰囲気を壊さない落ち着いた感じの美人を中心に宣伝しておいて」
と無茶を言う。
「まあ、またおいでよ。
兄貴は居なくてもいいから」
「あ、ありがとうございます」
確かに、いい店だ。
スコーンもいただいてしまったし、これは、ぜひ、宣伝せねば。
ただ……ひとりでは二度と来られない気もするのだが。
「ところで、もう店閉めるから、二人とも送っていってあげようか」
と言われる。
「えっ。
私はいいですっ」
と手を振ると、
「なんで?
僕に家を知られないようにとか?」
と真尋は笑って言ってくる。
「そ、そうじゃなくて、ご迷惑かなって」
「全然ご迷惑じゃないよ。
久しぶりに兄貴ともゆっくり話したいしね」
ついでついで、と言いながら、真尋は店の戸締まりを始めた。
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