通勤電車は恐怖の時間 2


「ねえ、遥。

 朝、リストラ大魔王と話してたってほんと?」

と社食でトレーを手にした同期の朝子が訊いてくる。


「いやだ。

 クビにならないでね」

と雅美が言った。


 いや、話しただけで、首切られるとかないだろうよ、と昨日まで自分もそう思っていたくせに、遥は思う。


 そのとき、空いている席を探していた朝子が、しっ、と話を止めた。


 航が小堺たちとちょうど社食に入ってくるところだった。


 航を目で追いながら、朝子が言う。


「……リストラしなきゃ、いい男なのに」


「人事課長じゃなきゃ、いい男なのに」

と同時に言った雅美に、朝子が、


「あら人事課長自体はいいじゃない。

 出世頭よ。


 しかも、あんな若くてさー」


 イケメンなのに、残念だ、と言いたいらしい。


 しかし、本人、課長になったことをさして喜んでもいなさそうなんだが、と思ったとき、航の目がこちらを向いた。


 朝子たちと一緒に、ビクッとしてしまう。


「古賀遥」

と呼びかけられ、


 ひいっ。

 気づかないでくださいっ、と身構えると、周囲から、


 あいつ、クビか?

 お前、クビか?

という視線が飛んでくる。


 ひいいいいいっ。


 だが、つかつかとこちらに来た航は、

「お前、コンパの話はどうなった?」

と訊いてきた。


 声がデカいですっ、大魔王様っ。


「……て、手配しておきます」

とトレーを手にしたまま、俯きがちに言った遥に、うむ、と航は重々しく頷いた。


 ――ように見えた。


 いや、実際は、そうか、と軽く言っただけだったのだが、遥の耳にはそのように聞こえたのだ。


 おいおい、と大葉が航を肘でつつきながら言ってくる。


「なんだよ、コンパって」


「お前らも来るか?」

と言った航に、


「行く行くーっ」

とちょっとノリの軽い大葉は勢い良く答え、小堺は静かに手を挙げ、参戦の意志を伝えていた。


「参加するからには、一人引き受けろよ」

と言う航に、大葉が、


「なんの話だよ」

と言う。


「結婚退職だ」


 ひっ、と航の近くで食べていた女子社員たちが固まった。


 航は特に気にする風でもなく、少し考え、

「……あと十人だからな」

とぼそりと呟いていた。


 騒がしい社食の中では、それは小さな呟きに聞こえた。


 だが、聞き耳を立てていたみんなの耳にはよく聞こえたようで、航の周りから、波紋を描くように静まっていった。


 大魔王様、破壊力凄まじ過ぎです……。


「で、では、大……

 課長、失礼致します」


 震えるトレーを手に、既に移動してしまっているみんなのところに行こうとしたが、

「遥」

と呼び止められる。


 遥? と、どきりとしながら、振り向くと、航は大葉たちにからかわれていた。


「お前、なに名前で呼んでんの?

 古賀さんと付き合ってんの?」


「そういえば、今朝も話してだけど」

と笑って言う小堺に、航は淡々と言う。


「いや、好きな女にコンパを頼む趣味はない」


 うっ。


 そして、

「そうか。

 古賀が名字だったな」

と呟き、行ってしまった。


 ……大魔王様~っ!


 遥って名字、なかなかありませんよね~っ?


 この人にとっては、私は、古賀が名字か、遥が名字かわからない程度の存在なんだな、と思った。


 古賀が名字か、遥が名字か。


 蝶が私か、私が蝶か、と大魔王様に借りた本を思い出しながら思う。


 本も読み終わったから、放っただけのことだっただろう。


 おのれ、ありがとうございます、とか言うんじゃなかった。


 面白かったですっ、とか感謝するんじゃなかったーっ。


 おのれ、新海~っ! と遥は大魔王様の背を睨みつけていたのだが、みなは、航が通ると、一斉に視線をそらしていた。


 いつか見た映画のワンシーンを思い出していた。


 十戒だ。


 海が割れている……。


「なにやってんの、遥。

 早く席、座ってっ。


 それから、大魔王様とのコンパ、呼んでよねっ」

と近くのテーブルに座っている朝子に言われ、遥は、はあっ? と振り向く。


 嫌なんじゃなかったのか、と思いながら、言われた席に着くと、みんな、既に今のコンパの話で盛り上がっていた。


「誰が来るんだろ?

 小堺さんと大葉さんは来そうだよね」


 いつの間にか、先輩女子たちも話に混ざっている。


「大王様の周り、わりとイケメンが多いわよね。

 大王様がダントツだけど」


 そうでしたっけねーっ、と遥は反抗心丸出しで思いながら、ささみの梅肉和えを食べていた。


「目が合って、クビになるのは嫌だけど、行ってみたいわね」

と先輩が言う。


 いや、そんな……目についたもの皆、皆殺しみたいなことはないと思うんですが。


 第一、それなら、まず、大葉さんと小堺さんが殺されている。


 いや、クビになっているはずだ。


「でも、例えば、大魔王様が、俺が嫁にもらってやるから、辞めろとか言ってきたら」


 その先輩の言葉に、何故か、遥は、ぎくりとしていた。


「……辞めてもいいかも」


 きゃーっ、と先輩女子たちが騒ぎ出す。


 大魔王様、嫌いなんじゃなかったんですか、皆さん、と思いながら、遥は黙って定食を食べていた。


 航たちは離れた席に座ったようだ。


 あちらも盛り上がっているから、同じようにコンパの話をしているのかもしれない。


 いや、盛り上がっているのは、航以外だが。


 だが、珍しく、通りすがりに、他の男性社員が航に話しかけたりしていて。


 なんとなく、ほっとしながら、遥はそれを眺めていた。






「……おモテになっていいことですね」


 帰りの電車。


 今日は少し空いていたので、航とは少し距離を取って、遥は座っていた。


「なんでお前、この時間に乗ってんだ」

とまた本を開いている航がチラとこちらを見て言う。


「いえ、大学のときの友だちとちょっとご飯食べに行って、遅くなったんです」

と言うと、ふーん、とどうでもよさそうに航は相槌を打つ。


 じゃあ、訊くなーっ、と航を見たが、彼はそれきりこちらを見るでもなく、ただ本を読んでいた。


 ふんっだ。

 今日は私も持ってるもんねーっ、と子どものように張り合いながら、遥も本を開いた。


 さっき、友だちと書店で待ち合わせたときに買った新刊だ。


 敵はこちらを見たようだ。


 カバーをかけていない表紙を凝視している。


「……貸して欲しいですか?」

となんとなく勝ち誇ったように言ってしまう。


 航がくれた本と似た系統の本だったからだ。


 ……だから、買ってしまったのだが。


「いや、別に。

 自分で買うからいい」

と航は本に視線を戻してしまう。


 ……やはり、これを読むのか。


 大魔王様の好みがわかったな。


 頭を下げたら、貸してやらないこともないですよ、大魔王様っ、と思っていたのだが、それきり無視だった。


 だが、電車が次の駅に着く前、ふいに本を閉じた航が言って来た。


「遥」


 また、呼び捨てかっ、と思っていると、航は立ち上がると、こちらを見て、

「ちょっと降りるか?」

と言ってきた。


「は?」


 電車が止まり、扉が開く。


「行くぞ」

と言って、さっさと航は降りていってしまった。


 私、返事してません、大魔王様っ、と心の中で叫びながらも、遥は読みかけの本を鞄に突っ込み、慌てて航を追いかけた。







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