8.温かい食事-Ⅰ

 顔中を何かに蹂躙される感覚に目を覚ますと、目の前には犬の顔があった。

 シベリアン・ハスキーというやつだろうか。

 パッと見怖そうな顔をしているが――


(こうやって顔を舐めてこられるとなかなかどうして愛らしい……)


 ただ一つ疑問点があるとすれば――


(角の生えた犬なんていたっけ……)


 彼のおでこからはそれはそれは立派な角が生えていた。

 顔中をベロベロと蹂躙されながらそんなことを考えていると、角突きハスキーとは違い随分と小さな舌も蹂躙に加わってきた。

 というかキュウだった。


(おお。キュウは今日も可愛いな……。にしても今日の寝床は地面にしては随分と安定して……。ッ!?)


 そこで、自分の最後に見た光景を思い出して慌てて上半身を起こす。

 角突きハスキーは驚きもせずゆっくりと離れ、扉に向かったと思うと器用に開けてどこかに去っていった。

 ここにきてようやく、自分がベッドの上に寝ていたことに気がつく。

 辺りには木製の家具がいくつかあるだけの簡素な部屋で壁も床も全て木で出来ているようだ。

 鼻から息を吸い込めばむき出しの木材の軽く爽やかな香りが肺を満たす。


「ログハウス、というやつかな?」


 相も変わらずキュウは肩の上で自分の頬を蹂躙するが如くペロペロと舐めているが、それよりも木の香りに混じって感じたどことなく甘いような香りに興味を惹かれた。


 それは開け放たれた外へと繋がる扉から香ってきているようで、その香りに誘われるようにそちらへと足を運ぶ。

 若干ふらつくが、不思議と体にそれほどの痛みはない。

 扉を出るとそこはベランダのようで、陽光の眩しさに少し目が眩む。

 今一度目を開けると、そこには色彩豊かな花畑が広がっていた。


「……すごいな」


「キュウッ♪」


 花畑は見える限りではログハウスを取り囲むようにぐるりと遠くまで植えられており、その向こうに見える木々が寂しげな枝を振っているのも相まって、この空間だけ世界から切り取られているのではないかと錯覚してしまいそうだ。


 ようやく舐めるのに満足がいった様子のキュウも同意を示すように鳴き声をあげる。

 よく見ると花畑の所々に水路が通っているようで、時折不規則に反射する陽光からは魚が泳いでいることがわかった。


 まさに絶景と呼ぶべき景色に呆気に取られていると、先ほど犬が出ていった扉が開かれて、そこから先ほど自分の顔を蹂躙して起こしてくれた角つきハスキーと、意識を失う前に見た覚えのあるムキムキお爺さんがいた。


「ようやっと目覚めたかボウズ。体の調子はどうじゃ? 一通り手当てはしておいたが、まったく呪いまで受けおってからに。解呪に貴重な薬を使ってしもうたわい」


「へ? あ、あぁ! 手当てしてくださったんですか! ありがとうございます。体の方はある程度大丈夫そうです。その……解呪? というのが何の事なのかよくわからないんですけど……その……薬というのは高いんですかね……?」


 取り敢えず言葉が通じることに安堵しつつも、自分にとっては依然としてピンチである。

 何を隠そうこのお爺さん、頭はスキンヘッドで、顔は刻み込まれた皺で厳つく装飾されており、右目には縦に一筋の古傷が走り、左頬には何と争ったのか引っ掻いたような三本の古傷がついている。


――正直怖い。


(有り金全部巻き上げられそうだ……巻き上げられる金が無いけど……)


「ん? まあボウズに使った分でこのログハウスくらいならポンと建つだろうなぁ」


「なっ!?」


 家一軒がいったいいくらするかなんて詳しくは知らないが、それでも家がしばしば"財産"として扱われることぐらいなら知っている。


 そう、"財産"である。


「あの……いったい僕はどうすれば良いのでしょうか……?」


「ん? いやあれの材料ならボウズの持ってた……まあここで立ち話もなんだ。ちょうど飯を作ったところだから食いながら話でもしよう」


「はあ、わかりました」


 そうして食卓らしき場所までついていったのだが、ここに来るまで結構な数の扉が目に入り、依然として値段はわからないが自分の中でのこのログハウスの価値はうなぎ登りであった。


「あの……それで薬のお代の事なんですが……」


「その事なら後でちゃんと説明してやるから、今はしっかり飯を食え。ボウズは二日と半日も眠っとったんじゃし、見たところしばらく満足に食事をしとらんかったんじゃろ? まずは腹を満たせ。話はそれからじゃ。ほれ、お前さんとテッチはこっちじゃ」


 そう言ってお爺さんはキュウとテッチという名前らしい角つきハスキーに何やら果物のようなものを差し出した。


(二日も眠ってたのか……言われてみれば凄くお腹が空いてる気がする……)


「それじゃあ……いただきます」


 目の前にあるシチューのようなスープをスプーンに一杯口に入れる。

 程よく温かい。

 それに――


「……おいしい。……おいしい……です」


 ひと口、またひと口と口に投入する。

 そうしていくうちに、気がつけば皿の中身は無くなっていた。


「……おかわりはいるかのぅ?」


「……お願い……じばず……」


「泣くほど旨かったか。これは作った甲斐があったというものじゃの」


「え……? ……あれ?」


(いつの間に泣いていたのだろう)


「あれ? すみません、こんな、つもりじゃ……」


 何故か涙は止まらない。


――キュウと出逢った時といい、いったいいつからこんなに涙もろくなったんだろう……。


 泣き止まない自分に対して、お爺さんは穏やかな声で話しかける。


「良い良い。どうやら随分と大変な思いをしたようじゃしの。温かいものを食べてホッとして涙腺が緩んだのじゃろ。遠慮せず泣いて、遠慮せず食べるが良い。ほれ、おかわりじゃ」


「はい……ありがとう、ござい、ます」


 この時のお爺さんの目は、厳つい顔に似合わずとても優しい目であった。


(ああ、そうか……)


 遅ればせながらに自分の涙の理由を理解した。

 確かにホッとしたのもある。

 だがそれ以上に――


(誰かに作ってもらった料理なんて……いつぶりだろう……)


――料理を食べる手が止まらない。


 引き取られてからは、叔父は仕事の忙しい人だったから基本食事は一人であったし、ひとり暮しを始めてからは言わずもがなである。


――両親と共にした食事が懐かしい。


――これが家庭の味というものだったであろうか。


 そんなことを考えていると、尚も泣き止まない自分を心配したのかキュウが肩に乗り頬を舐めてきた。


「ありがとう、キュウ、大丈夫だから、ありがとう」


「キュウ……」


「……随分と、慕われておるのじゃな」


「そう……ですね。お互い様というところでしょうか。自惚れでなければきっと、僕が持つ親愛と同じだけの気持ちを持ってくれていると思います」


「キュウッ♪」


「ふむ、だいぶ落ち着いたようじゃし、まずは自己紹介と行こうかの。わしはセイルという者じゃ。まあこの森の中で隠居をしとる爺というところじゃの。それでこっちは精霊のテッチじゃ。契約はしとらんが、まあ悪友というところかいのぅ」


 あまりにもファンタジーな内容に、言葉に詰まる。


「は、はあ、精霊ですか」


「何を驚いておる。確かに世間的にはある程度珍しい存在ではあるが、ボウズも精霊を連れておるじゃないか」


「それって、やっぱり……」


 キュウを見やるが、キュウは素知らぬ感じに耳の裏を後ろ足で掻いている。


「……何やら訳ありという感じじゃのぅ。まずはボウズの話から聞こうかいのぅ」


「あ、はい。まず僕の名前は武と言います。それでこっちが……」


「キュウッ♪」


「……キュウといいます」


「自分の名前を言えるとは賢い子じゃのぅ」


 自分のネーミングが安直なだけである。


「あはは……えーとそれでですね――



 それから、森で目覚めてから体験した事を話した。


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