痛みのポラリス

武田章利

痛みのポラリス

  1 ポラリスーー北極星


たくさんの人のなかで道標のような存在になってほしいーー

それが私の名前の由来。

小さな頃から何度も母親に聞かされて、その度に呪いの言葉を噛み殺してきた。

友達はいない、明るい顔ができない、声は小さい、

人見知りが激しい、運動が苦手、それから、何を考えているのか分からない。

十歳の夏に不治の病を発症。

全身性の強い痛みが悪夢のように延々と続く体。治療法はなし。

大きな病院に入れられて、いつの間にか……

両親は来なくなった。

私は病院から出ることもなく、毎日、点滴と検査の日々。

繰り返される激痛のため、どんどん痩せ細り、何度も死を考え、そのたびはっとしてきた。

私の目に映る、無数の痛みたち。

そう、世界はどこも痛みを抱えている。

すれ違うどんな人も、病院の白い壁も、点滴のバックもチューブも、

無限に青い空も、そよ風も木々も花々も、電柱も塀も屋根も、スーツもスカートも、

ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ、痛みがあることを見つけて死ねなくなった。

そして私は十六歳。この全ての激痛は私のもの。だから……だから誰か、

私の涙を見つけてほしい。



  2 朝



朝の目覚めは格別な痛みの体験。

体の動かない場所にさらなる痛みを追加して、

今日は何本の点滴を使うだろうとほくそ笑む。苦しいけれど、辛くはない。

声も出せないほどに、目眩と吐き気に襲われながら、

注射針の刺さった腕を渾身限り握りつぶす。

岩の下から這い出るような、おぞましい唸り声。

若い女の看護師がやってきて、おどおどしながら言ってくれる言葉ーー「大丈夫?」

彼女には何もできない。何をしたって、誰が来たって、何も変わらない。

痛み止めの量を増やすなんて言うから、私は猛烈に反対した。

ああ、この女は何も言えず、何もできず、手と唇をわずかに震わせながら、今にも泣き出しそう。

なんて気持ちいい表情。

同情されるのは嫌。私の前に立つのなら、ただ怯えてほしい。

自分の無力さに自我を押しつぶされながら、

決して助けることのできない病人を恐れたらいい。


痛みが少し薄れてきたら、

彼女は何も言わずに立ち去っていく。

ああ、痛み止めが効いてきた。痛みがどんどんなくなって、

私の感覚は、どこか世界と隔絶される。

点滴に入っているのはケシの夢。私は起きながらに夢を見せられ、

地上に立っている足裏の感触が奪われていく。

私はまだ生きていける。

痛みが終わりなく続くのなら、どこかで命を断ち切りたいーー

そう思ったのは昔の話。

激痛のなかで、私は「もう死んでしまう」と思う。

だけど、この痛みがいつかまったくなくなるのなら、

私はいつまで生きられるだろう。



  3 虫



体力のある限りは、どんな痛みのなかでも動いていたい。

止まってしまったら最後。白衣を着た機械のような男がやってくる。

この痛みがなくなるのならーー

そう思っていたのは最初の二年だけ。

たくさんの薬がごちゃ混ぜにされた点滴カクテル。

その正体の分からないまま打たれ続けて失った私の時間。

ある日、虫が大好きだという変わった薬剤師に、

カクテルの中身を聞き出した。


ケシ、安定剤数種類、ビタミン剤、その他栄養……


奪われていたのは尊厳じゃない。

きっと私の個性そのものだった。

「もう死んでやる」と叫んで、医者をはじめ、

この狭い病室に来る人たちを困らせた。ただ、

あの気味悪い薬剤師だけは、いつもニヤニヤと私を見ながら、

「今度毒虫を見せてあげるよ」と言うのだった。


私が泣いて、それが痛みのせいではないと伝わると、

医者はカクテルから安定剤を抜いてくれた。

代わりの薬をひとつ増やして、「しばらくゆっくりするんだ」と言われた。

だんだん強くなっていく痛みを必死に抑えつけながら、

「この人でなし!」と、ほとんどかすれた声を医者の背中に投げつけた。


次の日、頭がぼーっとして起き上がれないので、薬剤師を呼んだ。

彼はコオロギのたくさん入った虫かごを持ってきて、

私の部屋で蓋を開けた。この人は頭がおかしい。でも、

きっと私のことが好きなんだと思えて嬉しかった。

口元だけ少し笑えて、彼もなんだか嬉しそうだった。

コオロギがあちこち飛び跳ね、ときに鳴き声を出し、それらを、

彼は踏み潰した。何匹も何匹も、踏み潰した。

「こいつらには死の痛みが分からないだろうな」

と彼が言ったので、

「あなたには生の痛みが分からないでしょうね」

と言ってやった。

するとくすくす笑い始めて、彼は私の手に触れてくれた。

「ポラリス、君はどれくらい痛いんだ?」

「このコオロギが全部死んでも足らないくらい」

「それじゃあ、試しに全部殺してみよう」

彼は自分の仕事など忘れて、ひたすら大量のコオロギを殺し続けた。

踏んで、叩いて、潰して、投げて……

その体液が頬に散ってきたので、微妙な痛みがある舌で舐めとった。


痛い……


「やめて!」

気付いた時には、叫んでいた。

彼はぴたっと動きを止めて、何も言わずに窓を開けると、

ふっと笑ってそのまま部屋を出ていった。


増やされた薬は、次の日からなくなっていた。



  4 荊の血



誰かに嘘をついて傷付けた日。

後悔は痛みを甘美な罰にしていく。

これは私に与えられた1日の過ごし方。

どんな喧嘩をしても次の日には忘れているなんて、まったく考えられない。

不確かな連続が世界を一瞬で変えていく。

次にはもう、私の知っている全ての風景がなくなって、

それらは痛みという腐食に耐えられず、いずれ養分となる。

「今」はどんな花を咲かせるかなんて、痛みを知らない者の言うこと。

そんなものは一生経っても開かない。

蕾すらなく、私はただ、自分という棘付きの茎を握りしめるだけ。

「それくらい自分にもできる」なんて言ってきた隣の病室の少年に、

丸めた荊を握らせて、

「二度と来ないで。目障りだから」と言ってしまった。

私の部屋の床に数滴の血液が落ちたから、すぐに薬剤師のズュートを呼んだ。


「彼はきっと、血が流せるだけ幸せだ」

「私が不幸みたいに言わないで」


血を拭き終わったズュートは、大きな目を開いて私を見下ろす。


「君は不幸だ。僕のように、他人の不幸で興奮できないんだから」

「自分の不幸に悦びを感じられたら幸せよ」


彼は血の付いた布切れを投げつけてきて嘲笑する。


「じゃあ少年に言ってあげなよ。こんな血くらいで幸せなんて思うなよって」

「穢らわしい……」


ズュートは急に醒めた目をして、何も言わずに出て行った。

痛みが強くなってきたけど、点滴の追加は頼まない。

ほとんど喘ぎ声のような声を出して、血の染みた布切れを強く噛みしめた。

痛い……痛い、痛い痛い痛いいたいいたいいたいたいたいあいたいたいいぃぃぃ


血の臭いが気持ち悪くて、私は激しく嘔吐した。



  5 窓辺の耳鳴り



窓から見える無数の……

空気や光を数えていると言ったら、医者に「馬鹿なことはやめろ」と言われた。

ズュートは何も言わず窓に近付いて、

思い切りガラスを殴って割ってしまった。


「下に人がいたらどうするの?」

「その時は痛みを数えてやればいい」


もう1枚も割ろうとするから、

彼の腕にしがみついて止めた。

痛みと息切れ、動悸、震え……


「薬……薬ちょうだい……薬を……」


ズュートは黙ったまま、拳の血が落ちないようにしながら部屋を出て行った。

風が吹いて私の髪を撫でると、内在する痛みが全身を激しく揺さぶる。

ああ、空いたままの窓……

ぎしぎしと痛みを訴える惨めな窓枠。

その向こうの青い空は憐憫のように痛みを生成して、

涎のように垂らしている。

その下に歩いている青年、私より少し年上くらいの顔つき。

その二重瞼の裏には刺すような痛み。

耳の奥にはどんな痛みが隠れているだろう。


「ここまで来られるかい?」

と青年は手招きする。

でも返事すらできずに、私は暗くなっていく視界を操縦する。

無理……

手を伸ばして、何かが掴めると思ったのは間違い。


「そこまで行く。待っててくれ」

駆けだす青年の足音が、鼓膜と三半規管に突き刺さる。

世界が耳鳴りに支配されると、どこまでが現実なのかもう分からない。

指先にかすかな痛みを感じて目を開ける。

息ができなくて目を閉じる。


耳鳴りが酸っぱい鉄の味に変わって目を焼こうとする。

背中に当たる床の固さが、痛みに満ちて笑っていた。



  6 正義感と小さな花



今日も痛い……

赤い視界の端に小鳥が見えた気がして、

その羽はどんな痛みを運んでいるのか尋ねたかった。

骨の軋む音が聞こえたら、もうすぐ死んでしまうだろう。

私はまだ、生きている。

痛みが夢のなかで何度も私を殺しても……

いいえ、私は死ぬことなく、

血まみれだったり、臓腑を出したり、体の一部を失ったりしながら、

固い地面を這いずり回っている。

現実は、点滴をしながら細い体を引きずっている。


青年はトン・イータと名乗って、突然私の部屋にやってきた。

痛みのことを話すと、

「半分だけでもその痛みを肩代わりできたら……」

と言ってくれた。

優しそうな目は、時々どこか遠くを見つめて、

静かに、柔らかそうな唇から言葉を発する。

「痛くて動けない」と言うと、

何も言わずに腕から背中を撫でてくれた。

帰り際に、彼は小さな白い花をくれて、

「いつか痛みが消えますように」

と祈ってくれた。


夕方の痛みが夕陽に焼かれて、「ろくな世界じゃない」と呻いていると、

薄ら笑いを浮かべながらズュートがやってきた。


「昼間の彼は、悪が許せないタイプの人間だね」

「あなたとは正反対」


彼はベッド横の棚に置いておいた花を見つけると、

取り上げてまじまじ眺め始めた。


「返して。あなたには必要ないものでしょ」

「もし君の痛みが悪だとしたら、僕は点滴の中身を毒に変えるよ」


ズュートは花をそっと棚に置いて、つまらなさそうな顔をする。


「もしそうだとしたら、世界には悪しかないことになるわ」

「彼は自分か君か、どちらかを破滅させるだろうね」


痛みを我慢することにして、

ズュートに薬の追加はお願いしなかった。

私の持つものが本当に悪ではないのだと、

ただ、やり方も分からず証明したいと思ったーー



  7 木々から昇る命



どんどん酷くなる、神経への重圧。

綺麗に映し出されなかった幻みたいに、

私はバグを持ってこの世界に立っている。だから、

痛みは肯定の印。否定の否定。

この体の奥に、痛みを持っている本当の存在がいることの証し。

もっと重圧を。ぼろ雑巾を絞りあげるような力強さでーー


今朝もトン・イータが花を持ってきた。

小さな黄色い花をたくさんつけている緑色の茎ーー

菜の花だと彼は言った。

「君の痛みが少しだけでも散っていくように」

なんて言うから、私はその花をぐしゃぐしゃにして床に投げ捨てた。

彼は素直に「ごめん」と言って俯く。

「でも、痛みのない世界も知ってほしいんだ」

彼は純粋な汚れない瞳をしている。

でも私には、その眼球がとても曇っているように見える。

ズュートは、それが悪を知らないということだと言っていた。


「あなたはどうしていつも機嫌がよさそうなの?」

「ずっと春みたいだったらいいなって思うんだ」


窓の外では、痛みに傷付いた木々の幹から、

かすかな靄のようなものが立ち昇っている。

それらはまだ、互いにくっつき合おうとしていて、

丸みを求めながらゆっくりと空へ解放されていく。

いったいどんな痛みを抱えているのだろう。

それらが生きることのなかにある生命は、

トン・イータよりも純粋な在り方をしている。

彼は、憧れているのかもしれない。


「そのために悪を忘れようとするのは愚かだね」

とズュートは言う。

「私もそう思う」

と返したものの、私だってーー

悪は嫌いだ。



  8 命の上に雨が降る



恐ろしい光景、

であると同時に安心する光景。

今日は雨。世界が痛みに濡れて、絶望的な色を帯びながら声も出せなくなる日。

私は今日も動けなくて、

点滴をしながら窓の外を見ている。

看護師に窓を開けてと言ったら駄目だと言われた。

ズュートを呼んでと言ったら、今日は休みだと言われた。

私よりも休日を選択する彼は気が狂っている。

だからせめて、トン・イータを部屋に入れないよう言っておいた。


今日の意識はひどく朦朧としていて、

あまり喋る気になれない。

ただ、外を眺めているのが気持ちいい。

雨は痛みの形。

世界の外側を痛みで襲う絶え間ない音。

何もかも濡れて、

誰もかもが困った顔をしている。

とっても気持ちよくて落ち着く、静かな騒音。

眠るのがもったいない。

だけど、もう眠たいーー



  9 新緑までの数メートル



足掻こうとしてやってきたいくつものことが、

勝ち目のない戦いそのものだった。

痛みの不治のことではなくて、その承認のこと。

私は私の生き方が欲しかっただけ。

歪んだ正義感に閉じ込められた私は、

無駄な治療と同情をもらえることに。

私はーーあの新緑に手を伸ばして、

「私とは違う瑞々しさがあるね」って、言いたい。

その周りに漂うたくさんの意志たちと話をして、

最後には「面白いね」って笑いたい。

痛みを持ったまま、

叫び声をあげて止めようもなく涙を流して、醜く顔を歪ませながら、

痛み止めもケシの夢もなくていいから、

「クソみたいな世界!」って罵りながら、でも、

「面白いね」って笑っていたい。


今日も点滴……


音もなく落ちていく薬液のなかに、

私の欲しいもの全部が閉じ込められている。

体のなかに入ってきた時、

それらはすでに死んでいる。でも、

手の届かないわずかな距離の先にあるあの緑色、

立ち昇る嬉しさを見せつけてくる木々の揺れ方が、

痛みの浸透する体を苛立たせる。

私は、

死を丸めてペットにしたい。



  10 生まれ変わり



「もう季節が終わっていくね」と、ズュートが言った。

「あなたも春が好きなの?」と訊くと、

「まさか! 浮かれているやつを見ると憂鬱になる」

と、とても攻撃的な口調で返してくれた。


「殺したいとは思わないの? いつかのコオロギみたいに」

「何人も何人も殺したよ。でもしぶとく生き返るんだ」

「それは魂の話?」

「生き返るなんて、もちろん肉体さ」


ズュートはきっと病気だ。だけど彼は嘘を言わない。

自分の思考が現実に対して歪んでいるとは思っていないだろうし、

事実、彼はとても正常だ。


「今度は私の前で殺して。例えば、トン・イータとか」

「冗談じゃない。顔も見たくないよ」

「じゃあ、どんな人なら殺せるの?」

「生きてる実感のないやつらさ。でもそんなやつでも生にしがみついている。

 この世界には、素材がたくさんあるからね。

 でもそんなやつらの魂まで大事にする必要があるのか?」

「悪を知らないがゆえに滅びていく。いつもあなたが言っているじゃない」

「放っておけるほど、僕は人でなしじゃないんだ」


ズュートはいつも、窓を開けてくれる。

風が暖かくなってきたら春の終わりだと看護師は言った。

医者は興味がないと言った。

ズュートは、風の中身が興奮してきたら春が消える、と言った。

私の呼吸が興奮してきたら、薬の量は少しでいい。

痛みが消えるわけじゃない。ずっと続く永遠を真実と呼ぶのなら、

私の痛みは間違っていない。


今日はもう一本点滴を頼んで、

春にさようならと言った。



  11 嫉妬



珍しく看護師が窓を開けてくれたので、

セミの声が痛みを充満させてくれる。

夏は痛みの季節。最も激しい苦痛で世界中が暴れている。

それは、自身も激痛に耐えながら落下して破裂する爆弾のよう。

いたるところで爆炎があがる。

汗の一粒にすら、痛みを滲ませながら。


ズュートが来たのは昼過ぎ。

顔の半分を赤黒く腫らしていて、なのにやっぱりニヤニヤしている。

どうしたのと訊くと、

「昨日、付き合ってる女に別れを告げたら殺されかけた」

と嬉しそうに喋るから、私はいらいらして

「死ねばよかったのに、このクズ」

と言ってしまった。するとズュートは首を横に振りながら、

「君のためだよ、ポラリス」

とため息混じりに言う。


「私と結婚してくれるの?」

「君とだったら喜んで」


彼の本心が分からなくて、私は嫉妬する。

きっと私は、ズュートに愛されたいわけじゃない。

でもこの痛みを認めてくれる彼のことを、私の所有にしていたい。

だから、私以外の女と抱き合うことは許せない。


「いっそ焼かれて死んでしまえばいい」

「火にも痛みがあるのか」

「何にでもあるわ。私の魂にだって」


ズュートは静かになって、悲しそうに目を伏せる。

そんな彼は、とても正常な人間のようで、きっと……

私はそんなズュートの表情を愛している。


セミの声が絶え間なく、空間いっぱいに見えない意志が広がっている。

他のどの季節よりも風は自由。

痛みの具合も好き放題。


「足が痛い」と言うと、

ズュートは「薬を増やそうか」と普通のことを言う。

「違う」と言うと彼はわずかに笑った。


「全ての存在に、痛みを感じてほしいだけよ」

「君が長生きできることを祈っているよ」


ズュートが優しいので、彼が部屋を出た後、

私は泣いた。

痛みのせいじゃない。夏の縦横無尽な激痛のせいじゃない。

ケシの夢が足りないわけでも、眠りが浅いからでもない。

私は、ズュートの優しさを愛している。



  12 セミの廃墟



その日も看護師が窓を開けてくれて、

「暖かいと痛みも和らぎますか?」と訊いてきた。

この人は季節が分かっていない。

太陽が燃やしている世界は死にたがりを増やし、

私の語りかけは彼らの行為を一瞬だけ引き止める。

でも風が止まることはない。

上昇に次ぐ上昇を繰り返し、休む間もなく大気に充満していく。

全てが全てに満ちている。もちろん、痛みも。


「私の体は燃えているの。痛くないわけないじゃない」

そう言うと看護師は嫌そうな顔をして出ていった。


部屋に誰もいなくても、夏はいつも騒がしい。

昼も夜も変わりなく活動している。

星だってその声を私まで届けることができる。

そこにもやっぱり痛みがあって、

その明滅を見るたびに、私は泣きそうになる。


でも夏は何よりもセミ。

窓のすぐ側にある木が激痛に取り憑かれて、

セミがその痛みを吸い取りながら絶叫している。

でも、今日は少しおかしい。

時折、セミが突然鳴くのを止めてしまう。

全身の痺れと痛みと震えを引きずりながら窓辺に近付いて見下ろすと、

ズュートがいた。

しゃがんで何かをしているから、「暑くないの?」と声をかけた。

かすれてほとんど音も出なかったけど、彼はちゃんと気付いてくれて、

ニヤニヤしながら振り向いてくれた。


「あまりにもうるさいから殺しているんだ」

「彼らは痛みを叫んでいるだけよ」

「ポラリス、君はそれによって、少なからず痛みを忘れている」

「そうかもしれない」


また、セミの引きつるような声がして、ズュートの足元にその死骸が落ちた。

彼は握りつぶしている。


「あなたがどれだけ殺しても、セミはいなくならないわ」

「だろうね。でもあまりにも君が理不尽で」


私はズュートに愛されている。きっと愛されている。

でもそれに対してどう接したらいいか分からず、

私は泣いた。

少なからず痛みを閉じ込めた涙が伝って、

窓の外に落ちる。

それはズュートのすぐ側に落下して、

力なく萎びた痛みを拡散した。


「やめてあげて」


私はそう言うのが精一杯だった。

セミがかわいそうだったんじゃない。

ズュートが理不尽だった。


彼は小さな声で「ありがとう」と言って、

はっきりしない足取りでどこかに行ってしまった。

木の下には、大量のセミが死んでいた。



  13 愛



愛とは何かと尋ねるのは、

私がそれを知らないからじゃない。

むしろ私は、愛のことをよく知っている。

例えばこの全身に存在する痛みの強弱のなかには、

語りかけようとしてくる愛の意志を感じる。

それから、ズュートの私に対する、頭のおかしい行為の全て。

あれは紛れもなく愛に貫かれた行動で、

だけど……

私はその全てを受け取ることができない。

あまりにも大きな感情がそこにはあって、

私の持っている小さな器では汲み取りきれない。

だから、私は尋ねたいーー愛の大きさに怯まない方法を。


ズュートが大量のセミを殺した日の午後、

トン・イータがやってきたので、

「あのセミの死骸を全て取ってきて。私が食べるから」

と言うと、「何のために?」と訊かれた。


「愛のためと言ったら納得できるの?」

「君は間違っている。それは愛じゃない。狂った性向だ」

「じゃあ、あなたの愛を教えて」

「君の痛みを取り除いて、君に明るい世界を見てもらいたいと思うこの心」


どうして私なのかと訊きたかったけど、

その答えが恐くて、私はそれ以上何も言わなかった。

トン・イータは寂しそうに笑って、

「また来るよ」と囁くように言って、出ていった。


彼と一緒に夏まで出ていってしまったような気がして、

私は生暖かいシーツを掴む。

大丈夫……ここにはまだ痛みがある。

暑さのなかで躍動している痛みがある。

だけど……ひとりになった部屋は、なぜかとても静かだった。



  14 ヒグラシの遠い空



どこからともなくカナカナカナカナと声が聞こえてくると、

私はその背後にある喪失感が辛くて立てなくなる。

あんなに嬉しそうにはしゃぎ回っていたたくさんの意志たちが、

これから何かをなくしていかなくてはならないことに気付いて呆然としている。

たぶん、今日は1日中ベッドで寝ている。

誰が来ても最低限の返事だけして、

私は窓から見える空を眺め続ける。

ヒグラシの声は、空を昇らない。

私と同じくらいの高さで、

夏の日差しから消えていく色を惜しんでいる。


ズュートが来ても、私はほとんど喋らず、

トン・イータが来ても、すぐ帰ってもらった。


空が遠い。

とても遠い……

存在する痛みすら薄れていきそうなほど、

空が遠かった。



  15 魔女



夏の終わりは、痛みと痛みの境目みたいにはっきりしている。

この時期にはみんなの口数が減っていく。

看護師も医師もあまり喋らなくなって、

窓の外を歩いている人たちも、どこか静か。

ズュートも少しだけ無言の時間が増える。

「何を考えているの?」と訊くと、

「この季節には、ポラリスの面影を強く感じるよ」と言われた。

世界全体がうなだれているような、そんな感じ。


「私はそんなんじゃない」

「いいや、喪失に抗うことを諦めている」

「私はもう、何も失わないわ」

「ポラリス、君は今もやっぱり、失い続けているよ」


私は何も言い返せず、

ズュートもそれ以上何も言わず、そして、部屋を出ていった。


悲しいわけでも寂しいわけでもない。

でも……私はきっと悲しくて寂しい。

それを心地いいと感じているだけ。

もしかするとーー

日々の痛みは私から何かを、

ひとつひとつ、確実に、奪っているのかもしれない。

そしてたぶん、最後にこの激痛だけが残って、

私は……セミのようにあっけなく死ぬのかもしれない。


夕方近くになって、トン・イータがやってきた。

ひとりで、ではなく、誰かを連れて。

その人はまだ暑い世界のなかでフードを被り、

よく見えない視線と曲がった口で静かに笑っていた。


「はじめまして、あなたがポラリスね。私はオヴェスト」


響いたのは女の声。若いのか年を取っているのか分からない。

ゆったりとした話し方がちょっと気持ち悪くて、私は何も返さなかった。


「ポラリス、これで君の痛みが和らぐんだ。

 この人はね、分割することができるんだよ。もちろん、君の痛みだって」


興奮するトン・イータと、目を見せずにふっと笑うオヴェスト。


「トン・イータ、今日は帰って。私は……」

痛みをなくしたくないの、と言いたかったのに、言葉が出なかった。

それはきっと無意識。

私は、「なくす」という言葉に反応したのだと思う。

私から何かを奪っている原因が痛みだとすれば、

痛みがなくなるというのは、私にとってどんな意味を持つだろう。


ただ、窓の外を見て、やっぱりうなだれた世界だと思い、

そこに自分を重ねられたことに反発して、私は、

痛みの喪失に抵抗した。


動かせない足、背中から腹部までの連続する激痛、痺れ続ける手、

割れそうな頭、燃えるような眼球、セミの声より大きな耳鳴り……


それら全てが愛おしく思えて、私は叫んだーー


「出ていって!」


「待ってくれ、ポラリス!

 僕は、僕は君に……」


「二度と来ないで、この気狂い!」


トン・イータは泣きそうな顔。

オヴェストに連れられるようにして、二人はいなくなった。


息切れと動悸が酷くて、すぐにナースコールを押す。

本当は使いたくない。使いたくないけど……

今日は痛み止めがないと、きっと明日まで、私は生きられない。



  16 気持ちの最終落下点



もう空を元気よく漂っているような意志はいない。

うなだれているわけでもない。

全ては、世界の全てのものは、

自分が落ちていくべき場所を知っている。

だから何も言わずに、彼らはそこへ向かっていく。

ただ、それだけ。

秋には落下があるだけ。


昼を過ぎて、ズュートがやってきた。

虫かごを持っていて、なかには大きなムカデが一匹入っている。


「どうだい、この大きさ。見ているだけでうっとりしてくるよ」

「やめて、気持ち悪いだけだから」


ズュートはふふんと鼻で笑って、

私の視界に虫かごが入らないようにしてくれた。


「どうしてそんなに優しいの?」

「何を言っているんだ。人間は普通、優しいものだよ。

 そうじゃないやつが異常なだけさ」

「私、トン・イータに酷いことを言ってしまった」

「何の問題が?」


ズュートの後ろで、かたかたと音がする。

きっとムカデが動いている。

この気持ち悪い虫の落下地点はどこだろうーー

でもたぶん、そうじゃない。

このムカデ自身が、何ものかの落下地点なんだと思う。


「彼は純粋に私の幸せを望んでくれているのに、

 私は彼を理解できなかった」

「彼を理解できる人間なんているのかな。

 いたとしても、僕はそんなやつに近付きたくないね」

「でもきっと彼は、ズュートより優しいわ」

「そう……君がそう思うなら、仕方ないな」


ズュートが虫かごを持って、そのまま部屋を出ていこうとしたので、

私は咄嗟に「待って」と呼び止めた。

彼は立ち止まってくれたけれど、振り向いてはくれない。


「ごめんなさい。あなたを傷付けるつもりはなかったの」

「大切なのは、ポラリスの気持ちをどこに落下させるかってことだよ」

「どうしてそんなまともなことを言うの?

 怒ったのなら私を罵ればいいのに!」


ズュートが、ゆっくりと振り向く。


「僕はね、君の痛みを愛しているだけさ」


私は泣いた。突然湧きだした泉のように、

目からぼろぼろと涙がこぼれた。

よく分からない。嬉しいのか悲しいのか虚しいのか、

むしろこの涙は、罪悪感なのかもしれない。


「お願い、ズュート。

 この涙を舐め取って」


彼はゆっくりと近付いてきて、

かすかに白衣の擦れる音を立てて私の顔までかがんでくれた。

赤いズュートの舌が伸びてくる。そして、

それは器用に私の涙をすくっていった。

彼の舌が私の皮膚に当たるたび、無数の針で刺すような激痛が生まれる。

それはやがて全身に広がっていき、

頭のてっぺんから足の指の先にまで、図太い電流のような激痛が走る。

私は耐えられなくて声を出し、体は自然に弓反りとなり、

酸欠状態になりながら必死に喘いだ。

ズュートはやめてくれない。

私の涙が流れているから、彼はひたすらその舌ですくってくれる。

私は、この感情に名前を付けることができない。

痛みは、苦しい。でもその苦しさが快感になるとしたら、

私はどうすればいいだろう。


ああーー

私の落下点は……

いったいどこにすればいいだろう。



  17 向かう先



快楽を知る季節は選んだほうがいい。

窓の下に落ち葉が積もって、

迷い込んだ赤トンボがズュートによって撃墜される。


「羽をなくしても生きていかなければならないトンボの痛みを、

 ポラリス、君はどう思う?」

「生きることに拷問以外の意味があるの?

 生物だけじゃない。全てのものが、

 お前はどうしてそこにいるのかって問われているでしょ」


ズュートは窓の下から笑ってくれた。

その響きは骨に浸透して、私の痩せこけた生肉に黒い痛みを感じさせる。

歯を食いしばって耐えたい。私は、

彼の魂が痛みとなる瞬間を捉えたい。

私の肉体に入ってきて、死せる神経をかき乱すその暴力を。


「もし君がそこから出ようと決心したなら、

 君の落下を、僕はここで受け止めてあげるよ」

「いいえ、落下するのはあなたよ、ズュート。

 私はまだ、どこにも行けないから、

 あなたが私に落下してくるの」


ズュートは黙り込んで、私の顔を見つめてくる。

そして足元にいる羽のないトンボを踏み潰し、


「君はいつか、世界の全てを蹂躙するんだろうね」


と言った。


「その時はあなたが私を止めてくれる?」

「もちろん。快楽というのは、そういうものだよ」


ズュートは落ち葉をすくって白衣のポケットに押し込んだ。

私は足元に積もっていく鱗片のような痛みを、

魂の水底に沈めた。



  18 いななきの高い空



「あのいななきが聞こえるかな?」とズュートが訊いてきたので、

「今日は誰が死んだの?」と返すと、

「まだ幼い少年だよ」と答えてくれた。


「いまだに分からないの。

 あのいななきは、光のほうからやってくるの?

 それとも闇のなかから現れるの?」

「君がいななきの鼻息を感じ取った時に教えてくれよ」


空にはもう何もないから、

私はきっと落ちていけると思いながら、宇宙までの道のりを見つめる。

暗闇にただよう太陽の熱と光も、痛みの表情で通り過ぎていく。


めまいが意識にノイズを生んで、

ひとつひとつ視界の色を消していきながら、私の存在そのものを切り刻んでいく。

自分の苦痛の呼吸が聞こえたら、

まだここには空気があったのだと知って、床へと墜落する。

頭はまるで、自分とは違う物質のように大きな音を立て、

全身を痙攣させる。でもーー


まだ私のためのいななきは聞こえない。



  19 火



「紅葉がきれいですよ」と看護師が言い、

「すっかり秋だな」と医師が言う。その横でズュートが、

「飛来した隕石に焼かれる地上みたいだ」なんて言うから、

それ以上誰も喋らなくなってしまった。でも、

私の痛みが黙ることはない。他の誰もが口を閉ざしたとしても、

痛みは常に語り続ける。暗い言葉と、火花のような叫び声を。


「ポラリス、君の人生はいつ終わるだろう」


突然、ズュートが口を開き、看護師と医師が彼を凝視する。

私が痛みのなかで半笑いをするから、二人ともきっと、

私たちを異常者だと思っただろう。


「今はまだ、死ぬのが恐い」

「みんな、人生がいつまでも続くと思っているからね。

 君にとって死はどのあたりにいるのかな」

「すぐそこからずっと見つめられているわ。

 きっとそれは、わたしのなか……」


「君はまだ何十年だって生きられる」と、医師が呟く。

つまり、痛みは私にとって死の慰めにはならないということ。

「それじゃあ、私の命を奪うのはこの薬たちね」と言うと、

「薬漬けで死んでいくなんて、なかなか君らしいな」とズュートが笑う。


医師も看護師も出ていって、ズュートもいなくなると、

私は自分の体が紅葉しているような気がしてきた。

燃えているーー

自分の体の内側に見えない火があって、

私は真っ赤に色付きながら、これまで自分だったものを落としていく。

でもそれはきっと、本当に不必要だから。

例えば、死んだあとにまで肉体はいらない。

それを維持するための生命力もいらない。

それを浄化と呼ぶのだとすれば、私は秋を好きになれる。

紅葉した葉が音もなく枝から離れて落ちていく。それがーー

とても幸せだと思った。



  20 鳥の飛ぶ空間



赤く近付いてくる空の下を鳥が横切っていって、

その、飛ぶ姿がとても綺麗だと思った。

ひどく……ひどく……綺麗だと思った。

背中が痛くて起き上がれないから、空はひどく遠い場所。

鳥に憧れても空は飛べないから、

私はたまに死にたくなる。

痛みに引きつる体を捨てて、空に溶けていけたらと思う。

楽になりたいわけじゃない。

逃げだしたいわけでもない。ただ、

あの空を体験したいと思っているだけ。


ドアをノックする音がして、オヴェストが入ってきた。

伝言だと言って、

「君の痛みを僕に分けてほしい」と、トン・イータの言葉を語った。


「君の痛みが半分になるのならどうだろう?」

「痛みに数えらえるような量はないの」

「私に分割できないものはない」

「彼は私の痛みを抱えてどうするつもり?」

「君と一緒に、外の世界を歩いてみたいんだよ」


フードに隠れてオヴェストの目が見えない。

彼女はきっと、嘘であっても本心だと思い込むことができる、そんな人間だ。

彼女が幸せや喜びを語ることがあっても、

それを信じてはいけない気がした。

トン・イータはきっと、外の世界が大好きで、それを望み、憧れ、生きている。

オヴェストは彼の願いを叶えてくれるだろう。でも、

だとしても……いいえ、だからこそ、

トン・イータは馬鹿だ……

私の世界を知らず、知ろうともせず、でも、

私の幸せを願ってくれる。

私たちの生きている世界がすでに分割されていることに気付きもせず、

自由に行き来できる空間だと思っている。

それができるのは鳥たちだけ。

私たちは重苦しい肉体を引きずりながら、魂を必要以上に押さえつけている。

だから痛みは希望。肉体を信じ込まないための機能。

ーーそうだ、

私から、私の思う幸せを、

トン・イータに願ってあげることも、できるんだ。



  21 固まった大地



落下しながらもまだ存在していた意志たちが、

窓の景色から完全にいなくなってしまった。

「何もかもなくなってしまった世界」と呟くと、

「何言ってるんだい。地球は最高に生き生きしている。

 目覚めだよ。ようやく地球が目を覚ましたんだ」と、

ズュートははしゃぐように言ってくれる。


「だめ。ぜんぜん何も感じられない」

「それが冬ってことさ」


私だけ適切な場所に行くことができず、

この地上にひとり取り残されたような感覚。

それは恐い。死を思う時よりも恐い。

私が痛みを持って叫び続ける様々な声を聞く者がいないということは、

私から存在する意味を奪っていく。

誰かのために生きるのではない。としても、

誰かがいないと、人間はきっと、生きていけない。


「でもここにはもう、君の手足を動かしてくれる者は存在しないね」

「私にはまだ、誰かの意志が必要なのよ」


一瞬ーーズュートの顔が父親のように見えた。

まったく似ていない二人の顔が重なったわけじゃない。

私はズュートが父親だったらよかったのにと思い、たぶん、

ズュートも私が娘だったらよかったのにと思った。

でも最後には視線を落とし、瞼と睫毛に暗い影を差し込ませて、

ズュートは無言で部屋を出ていく。

捨てられたような気がして、私は泣いた。

痛みも少しずつ強くなっていき、自分の体を抱きしめながら、私は泣いた。

段々どうして泣いているのか分からなくなってきて、

喘ぎながらナースコールを押し、力一杯の声を出して罵った。

何と言ったか覚えていない。でも、

私は否定の言葉を使いながら、ズュートにただ、

「愛している」と言いたかった……ただ、それだけだった。



  22 土がため



昼寝からの目覚めは最悪な鉄の味。

口のどこかから出血している。

そのうえ渇いていて、まともに開けることもできない。

背中も腹部も手も足も痛くて動けない。

見ていた夢は体中を八つ裂きにされて、それでもなお生きているという内容。

私の肉片が部屋のそこら中に散らばって、どす黒く沈殿している。

意識だけはしっかりしていて、私の体を切断した犯人を探している。

それはいつも両親。顔ももう覚えていない、私の両親……。


ナースコールすら押せないまま喘いでいると、

ズュートがバケツを持ってやってきた。

「痛み止めを……」と言う私の声は自分にも聞こえないくらいかすれていて、

ズュートはただ、立っている。


「痛み止めにしようか。それとも土がいいかな」


彼は私の苦しみを積極的に止めようとはしてくれない。

痛がっている私をいつも側で見つめている。

白衣のポケットにはたくさん薬が入っていて、

そのひとつを私の口に入れさえすれば、とりあえず落ち着く。だけど、

彼はそうしようとしない。

私も、それを望んでいない。


「もっと見ていたいけれど、今日は時間もなくてね」


突然、ズュートはバケツの中身を床にぶちまける。

それは土だった。濃い茶色の柔らかそうな土。

床に広がった土を、ズュートは踊るように踏みしめる。

私の呻き声を聞きながら、彼はしばらく土を踏み続けた。


「まあ、こんなものでいいかな。

 あとはポラリス、君がこの土を固めるんだ。

 そうすればこの部屋でだって冬が感じられる」


たまらなくなって喚き声を出し、私は暴れるようにベッドから落ちた。

そこには冷たい土があって、すぐ側にズュートの足がある。


「お願い、私の顔を踏みつけて!」

「そう言ってくれると思ったよ」


彼の足が、土まみれの彼の靴が、

私の右頬にゆっくりと力を加えていく。冷たくて重くて痛い。

左頬には土の痛みを感じて、私はただ喘いだ。

体全体が痙攣ーーそれが落ち着きそうにないのできっと、

私は失禁している。

意識が朦朧としてきて、耳鳴りと割れそうな頭痛のなかで、

ズュートの声が聞こえた。


「かわいいね、ポラリス」


何度も何度も、こだまするように、彼の声が聞こえた。



  23 雪



世界のあらゆるものが意識の底に固まっていく。

動くことを放棄して眠りにつくのは、窓の外の自然だけじゃない。

人間も目を開けて歩きながら、肉体は眠気のなかにある。

そしてーー

そんな世界に子守唄を奏でるように、静かに雪が降る。

白くて冷たい落下物を受け取るものは、

静寂のなかに響きわたる地球の声を聴く。

私はその時はじめて、声に出して「冬」と言う。

景色が真っ白になって動きがなくなれば、

私はそこに、躍動する地球やいなくなったはずの意志を見る。

同時に、痛みも。


ズュートに「雪を持ってきて」とお願いした。

彼は首を横に振って、「それは無理だね」と言った。

どうして駄目なのか訊いても答えてくれず、

「私の痛みが麻痺するから?」と訊くと、

「単純に寒いのが嫌なだけさ」と笑われた。


「ただね、君が血を流してくれるなら、ここまで持ってきてもいい」

私はすぐに「分かった」と答える。


「用意しておくから早く持ってきて」

「すぐに持ってくるよ」


そうしてズュートはバケツふたつ分の雪を持ってきて、

部屋の床にぶちまける。

また踏みつけて雪を固め、ところどころに足跡をつけて、

「あとは血だけだ。たっぷりかけておくれ」

と言ったので、私は彼に支えてもらいながら立ち上がり、

冷たい雪を裸足で踏みしめ、少しずつ、股から流れ落ちる経血を注いだ。

赤く、どす黒く、真っ白な雪が染まっていきながら溶けていく。

血の色は薄まりながら滲み広がり、それを見ながら、「気持ちいい」と言った。

「痛みは?」と訊かれたので、

「とても痛い」と答えると、ズュートは私をベッドまで運んでくれた。


「どうしてそんなに優しいの?」

「優しさが存在しなければ、人間はこの世界で生きていけないだろう」

「普通のことを言うのね」

「雪が溶けるまで、君の苦痛の表情を眺めているよ」


私はとても安心しながら、冷たくなった体の軋む音を聞いた。

今日は痛み止めがなくても大丈夫。

ズュートが……ズュートが見ていてくれる。

私の体を、私の痛みを、私の……私の……命を。



  24 真夜中の月を聞いて



窓の向こうの下弦の月が破滅的なことを喋るから、

私は寝られずに起きている。

あそこまで私の声は届かない。

だからこの夜が過ぎるまで、私はずっと聞き続けなければならない。


「月まで来た人間は、かぴかぴに乾燥して死んでいくよ。

 繋ぎとめる力なんてないんだ。

 崩壊につぐ崩壊が、灰色をした月の力」


月は歌うように喋って、私の魂を痛めつける。

どうして太陽がないのだろうと思った。

でもあの月が半分だけぼんやり光っているのは、この夜の望み。

眩しくて直視できない太陽の光を、私は地球の夜に見ることができる。


「せっかく体を手に入れたのに、お前たちの魂には不釣り合いだ。

 だから壊してやっているのさ。それくらいがちょうどいい。

 完璧な体なんて使えないから、どこかに欠陥を持っているのさ。

 馬鹿だったり、阿呆だったり、見えなかったり、聞こえなかったり。

 動けなかったり、敏感だったり、痛みを抱えたり」


私は耳を塞いで懇願するーーお願い、やめて。

膝の上のシーツに涙が落ちて、それが、月の影みたいだった。


「分からず屋には教えてやるよ。1足す1は3だってこと。

 1割る2は1だってこと。

 みっつ数えて抜け穴見つけて、そこから誰かがやってくる。

 神様だったら嬉しいなあ。悪魔だったら嬉しいなあ。

 友達増えたら嬉しいなあ。みんなみんな嬉しいなあ」


私は涙を流しながら笑う。目を見開いて、涎を垂らしながら笑う。

窓ガラスが痛くて軋んでいるから、きっと今夜は闇が深い。

薬が欲しくてナースコールを何度も押した。

「ちょうだい……ちょうだい……

 いつもの倍のケシの夢をちょうだい……

 私は耐えられないから、もう終わりにしたいから……

 ちょうだい……ちょうだい……」


がらがらと音がして、長い針の光るのが見えた。

細い腕の細い血管を素早く探して、看護師が注射を打つ。

針の刺さる瞬間が気持ちよくて吐息を漏らすと、わずかに看護師の手が震えた。

「もっとちょうだい」と言うと、「大人しく寝ていなさい」と言われた。


「その昔、刃物を刺された背中はどうだい?

 酷い傷だね。ああ、酷い。酷くて酷くて涙が出るよ。

 全身めった刺しの気狂い祭り! 血が欲しいわけじゃない。

 悲鳴が欲しい。涙が欲しい。痛みが痛みが痛みが痛みが、

 痛みが欲しいいいいいいいいいいいいい」


視界が真っ赤になって大声で金切声を出し、その場で嘔吐した。

何かが落ちる音がして看護師が助けを求めたので、

その頭をねじ伏せるように床に叩きつけてやった。

鈍い音がしたので、私は月が落ちてきたのかと思った。

ズュートの名前を呼んで、呂律が回らないのでそのままもう一度嘔吐した。

腰の力が抜けて床に座り込み、もう一度ズュートの名前を呼ぶ。

誰も来ないので、私はそのまま夜を過ごした。

ケシの夢が景色の色を奪っていって、そのなかで、

私は忘れるために大声で泣いた。



  25 儀式の準備



光が私のなかまで差し込んできたので、

きっとここには考える力があるのだと思った。

宇宙が冷気を送ってくるから、私は今日も考えることができる。

痛みのこと、ズュートのこと、それから……

トン・イータのことも。


オヴェストがやってきて、「いつでも準備はできているよ」と言った。

「勝手にしないで」と言うと、

「てっきり望んでいるのかと思って」と彼女は答えた。

それが間違ってはいなかったので、全部をトン・イータのせいにして、

「彼は本当にかわいそうな人間よ」と返した。


「どんなことがあっても、彼は君の愛をもらえない」

「それは分からないわ」

「それじゃあ彼は、自分自身のために破滅するんだね」


それも違うような気がして、私は首を横に振る。


「彼を破滅させるのは、私よ」

「それだけできっと、彼は救われるわ」


はじめてオヴェストと意見が合った気がする。

私が笑うので、彼女も笑った。

握手するために手を差し伸べると、彼女はすぐに握ってくれた。

とても、冷たい、生きているとは思えない手で。


「せっかくだから、復活祭の日にやりましょう」と言うオヴェストの目が、

やっぱりフードに隠れて見えなかったので、

「信じてもいないことをどうして言うの?」と言ってやった。

彼女は「ははは」と笑って受け流す。

馬鹿らしくなって「明日やって」と言うと、

「駄目だよ。決行は復活祭の日」と断られた。

気持ちが悪くなってきたので、「もう帰って」と言うと、

彼女はまた「ははは」と笑って、

「君のこと、本当は大嫌いだから、会うのはあと1回だけだね」と、

見下すように言ってきた。

この冷たさは冬のせいじゃない。

命が……蹂躙される音がして、私は叫ぶ。


「帰って! 早く消えて!」


痛みが喉を伝ってこみ上げ、吐血しながら私は泣く。

これまで見てきたものは何だったのだろう。

痛みを持つ全てのものが、オヴェストの足元で生気を失っていく。

痛みよりも寒気がして震え上がりながら、私はこの魂を慰める。

大丈夫、大丈夫……

大丈夫、大丈夫……きっと明日は……痛みが降り積もってくれるから。



  26 目覚め



目を覚ますと、いつもと違う気がした。

窓の外の景色が、わずかに目を開いて覚醒しようとしている。

ゆっくりと立ち昇る意志が、世界中の空気を陽気にする。

人間たちの会話も少しずつ増えてきて、目覚めたというより生き返ったみたいだ。

痛みまで、何かを期待して踊りだそうとしている。

それは決して不快ではない心地よさ。

私にだけ与えらえた、秘密の快楽。


ズュートが飛び跳ねるようにやってきて、窓を開けてくれた。

彼は外の空気を深く深く吸い込んで、ゆっくり吐き出した。


「辛いことも何もかも忘れていけそうな天気だね」

「あなたにも嫌なことがあるの?」

「もちろん、人間だからね。でも今日は本当にいい日だ。

 こんな日に死ぬ人を幸せというんだろうね」


ズュートがあまりにも優しそうな目をするから、

私も表情を緩めて、一緒に窓の外を眺めた。

見えるものも、その感覚も違うけれど、それでも幸せなんだと思えた。


「あの人は花粉症だね。ずっとくしゃみをしている。

 本当にかわいそうだと思うよ。この空気を楽しめないなんて」

「治すのには、どうしたらいいの?」

「もちろん、神様を信じることさ」


ズュートの言葉を、トン・イータやオヴェストにも伝えたい。

でもあの二人は、きっとズュートを拒絶するだろう。

彼らは神様を信じていない。だから、

人間の命というものも、心の底では信じていない。

私は私の個性をかけて、あの二人と戦わなくてはならない。

復活祭の日とオヴェストは言った。

私は、これまで自分自身にしてきたように、これからもあらゆるものを破壊していく。

トン・イータを、破滅させてやる。



  27 分割



「準備はいい?」とわざとらしくオヴェストが訊いてくるから、

「早くして」とあしらった。

久しぶりに会うトン・イータは以前と何も変わらず、

この人は機械でできているのだろうかと疑った。

「ポラリス、どんな気分だい?」と分かったような素振りをするから、

「楽しみにしてるわ、あなたの絶望を」と言ってやった。

彼は困ったような顔をして、オヴェストに助けを求める。

彼女は舌打ちをして、「やれば分かることよ」とだけ言った。


今日は晴れ。

木々や花々や風から、懐かしい意志たちが顔を出して微笑んでいる。

そこに潜んでいる痛みをこの手のなかに感じられて、私も微笑む。

ベッドやシーツが軽い。カーテンも電球も、ドアも、全てが軽い。


私はベッドで上半身を起こした状態。

そのすぐ側にトン・イータがいて、ドアの近くにオヴェストがいる。

「はじめるよ」とオヴェストが言い、

「お願いします」とトン・イータが言う。

彼は、緊張している。でもたぶん、自分が背負う痛みに対してじゃない。

きっと、この後私と一緒に病院の庭を歩くことを夢見ている。

私はため息をひとつ、そしてそれを合図に、分割が始まった。


「ポラリスの痛みをふたつに分割。

 半分はトン・イータに譲渡」


風が変わることはない。

陽の差し方も、意志たちの表情も……。


「終わったよ。痛みは分割された」とオヴェストは言う。

「私は何も変わらないわ」と言うと、彼女は不機嫌そうな顔をした。

トン・イータだけが違った。きっと彼はーー

苦痛を我慢しながらそれでも笑顔を浮かべて、

「これで僕らは繋がったね」なんて恥ずかしい言葉を吐いて手を差し伸べるつもりだったんだ。

でもその思惑はまったくの見当違い。今彼は、トン・イータは、

想像以上の痛みに言葉をなくして、私の顔を見ることもできない。

ベッドの手すりを両手で掴み、屈んでぶつぶつ何か言っている。

それは言葉ではない。目を見開いて、痙攣してくる体を必死に抑えるための、意味のない呪文。


「オヴェスト、勘違いだけはしないで。

 彼を破滅させたのはあなたじゃなくて、私の痛みよ」

「はは、想像以上の痛みを抱えてたんだ、君は」

「言っておくけど、分割は失敗よ。言ったでしょ、数えられる量じゃないって。

 1割る2は、1なの。2分の1になんか、ぜったいならないから」

「君は強がっているだけだ!」

「トン・イータが不必要な痛みを永遠に抱えることになった。ただそれだけよ」

「この気狂い女!」


興奮したオヴェストのフードが取れて、素顔と目が見えた。

灰色の目と、冷たそうな顔。

やっぱりこの人は、神様を信じることができなかった。


「どうでもいいから戻してくれ! こんなの嫌だ!

 こんな痛み耐えられない! オヴェスト! 戻してくれ!」

「元には戻せないって言ったじゃないか!」

「このクソ魔女が!」


トン・イータはオヴェストに掴みかかろうとする。

でも痛みが体の自由を奪ってうまく動けない。

彼は叫び声を出して体中を掻きむしる。

「痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたい」

と奇妙なしゃがれ声を出してオヴェストに呪いの視線を向けている。

彼はまだ破滅していない。こんな痛みで破滅できるほど、人間は脆くない。


「ねえ、トン・イータ。痛みの元である私を殺せば、治るんじゃないの?」

「そ、そうだ! そうだよ、トン・イータ!

 あの女を殺せばいいんだ。生きてていい存在じゃないからね!」


オヴェストも私の煽りに乗ってくる。これでいい。

トン・イータが振り向く。

これまで私に向けてくれていた愛情の全てが消え失せ、ただ、

憎悪と呪いと、少しだけ、罪悪感がそこにあった。


「トン・イータ、あなたと痛みを共有できたこと、少しだけ嬉しかったわ」

「わあああああああああああああ!」


飛びかかるようにしてトン・イータがやってきて、私の首を絞める。

痛みに震える固い手がかわいそうで、私は涙を流した。

でも、私は彼を破滅させると決めた。


「待って!」とオヴェストの声。

誰かの気配がしたと思った瞬間、

トン・イータの手から力が抜けて、彼はそのまま床に転がった。

ズュートが、立っていた。


「僕のポラリスに酷いことをしてくれたね。

 殺してやりたいけど、彼女に免じてこれくらいにしてあげるよ」


本当に死んでいないのか怪しいほどに、トン・イータはまったく動かない。

頭から大量の血が流れていて、

ズュートの手には、金属バットが握られている。


「毒虫の餌にしてもいいんだよ。

 ここはね、君たちクズの入っていい場所じゃないから」


オヴェストにバットを向けるズュート。

彼女はがくがく震えながら、意識のないトン・イータを引きずって部屋を出ていった。


静かになると、「はあ」とズュートはため息を漏らして、

「部屋が汚れてしまったね」と言った。


「どうして来たの?」

「君が否定されるということが、どうしても許せなかったんだよ」

「どう足掻いても、彼らに私を否定なんかできないわ」

「いいや、僕の問題だよ。できるかどうかじゃなくてね」


窓からの風が気持ちよくて、私は「ありがとう」と言った。

しばらく無言の時間が続いて、ふっと、

ズュートも「ありがとう」と言った。


すると突然、洪水のように涙が溢れだして、私は嗚咽を漏らした。

体中が震え始めて、言葉もうまく喋れない。 

痛みじゃない。痛みのせいじゃない。これは純粋な恐怖。

トン・イータの手が、オヴェストの目が、本当に本当に恐かった。

「まだ死にたくない」と咽びながら言って、

やっぱり私は否定されていたのだと気が付く。

ズュートの正しさが嬉しくて、私はさらに泣いた。

痛みを忘れるくらい涙が流れ続けてーーでも急に、

視界が真っ白になって耳鳴りだけが響きはじめ、ズュートの声も聞こえないまま、


私の意識は途切れた。



  28 記憶



思い出すのは真っ白な部屋。

いつもいつも、真っ白な部屋。

本当は色があったのに、記憶のなかではいつも真っ白。


パパの声がした。低くて威圧的な怒声。

ママの声がした。悲鳴のような泣き声。


パパ、それは包丁っていう刃物。

部屋のなかで振り回しちゃいけないもの。

でもきっと、私にだったら使っていいのね。

ママが言ってたーー切り刻んでやりたい。


でも痛いからやめて。やっぱりやめて。

いたいから、いたいから、ほんとうにほんとうにいたいからやめて。

やだやだやめて。もうやめて。もうささないで。もうやめて。


パパ、ママのことをだいじにしてね。

ママ、パパのことをあいしてあげてね。


わたしは、わたしは……もういなくなるから。



  29 思い出



全身に33カ所の刺し傷。

生きていたのが奇跡、と言われたがそうじゃない。

全て急所を外されていた。

後遺症でいつまでも痛みが残ることに。

神経のいたるところが傷付けられ、手足はまともに動かない。


目が覚めた時、死にたいと思った。

それでもパパとママのことが気になって、少しだけ生きていようと思った。

でも二人とも来てはくれず、誰に聞いても答えてくれず、

私は、やっぱり死のうと思った。


不自由な手足で頑張って窓辺まで辿り着き、これから飛び降りるという時、

ズュートがやってきた。

これが彼との出会い。

彼は血相を変えて私を捕まえ、ベッドに戻してくれた。


「どうして助けるの! もう死にたいのに!」と言うと、

「ごめん。君があまりにも可愛いかったから」と言ってくれた。

これが、私たちの初めての会話。


ズュートには、私の痛みが見えていた。

私が世界のあらゆるものに痛みを見るようになると、

ズュートは痩せ細った私の体を抱きしめながら、

「おめでとう」と言ってくれた。

この人は、頭がおかしい。でも、他の人はもっとおかしい。

だから、きっとこの人ならーー私の本当の涙を見つけてくれると、そう思った。



  30 痛みのポラリス



「ねえ、ズュート、私ね、あなたの娘になりたいの」

「僕はとっても酷い父親だよ」


ズュートは窓を開けて、今日も深呼吸をする。

穏やかな風に乗った桜の花びらが、ひらひらと音を立てながら部屋に入ってきた。


「きっとあなたは酷い父親になるわ。

 何度も何度も娘を泣かせて、周りからは気狂い扱いされて、

 そのせいで娘もイジメを受けるの。

 でもね、そんな父親でも、一番娘のことを理解していて、

 一番いてほしい時にはぜったい側にいてくれて、

 ぜったいに……ぜったいに……

 私を裏切ったりしないの。

 私が苦しんでいるのは痛みのせいじゃないことも分かってて、

 私はいつも、あなたが大好きで泣いてしまう。あなたのために泣いてしまうの」


ズュートは何も言ってくれない。

ずっと窓の側で外を見たまま、白衣を風になびかせている。

春の意志たちが小さな声でしゃべっているなか、

私たちは無言だった。

桜の花びらがどんどん部屋に入ってきて、その1枚が、私の頬に触れる。


「ねえ、ポラリス、君はね、

 いつか父親としての僕が嫌いになって、部屋を飛び出していくんだ。

 汚いとか臭いとか、頭がおかしいとか言われて、僕は傷付くだろうね。

 これまで親子ふたりで慎ましくやってきたのに、

 その生活が壊れてしまうんだよ。だってポラリス、君は、

 壊すってことが大好きで、大得意だろ。

 僕はひとりさ。また、ひとりになるんだ」


「ひとりが恐いの?」


ズュートが振り向く。その顔は爽やかに笑っていて、


「まさか。恐いわけないだろ」と言った。


「でも大丈夫。ズュート、私はね、どんなにあなたのことが嫌いになっても、

 ぜったいにあなたが死ぬ時には側にいてあげる。

 それでね、最後の最後までふたりで頭のおかしいことを言い合って、

 最後に……

 ありがとうって言うの」


私は泣いた。涙が止まらなかった。

ズュートが側まで来てくれて、そっと抱きしめてくれた。

体中が痛い。抱きしめられるととても痛い。でも、でも、気持ちいい。


「ポラリス、看取られるのは君のほうだ。

 最後の最後まで君は痛みを抱えたまま、それを否定しないだろうね。

 僕はそんな君が、やっぱり好きなんだ。

 どんなに酷い言葉を言われたとしてもね」


「馬鹿みたい」

「それが親子ってものさ」


柔らかくて温かいズュートの体。

そこにも痛みがあるのを感じて、私はそうかと気が付くーー


私は、ズュートの娘になる。

そして彼の手を引いて連れていってあげたい。きっとそれが私の役目。

彼が年老いた時、その手を引いて連れていってあげる。

どうしようもない絶望すら肯定される世界ーー痛みが星のように煌めく、この世界に。

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痛みのポラリス 武田章利 @saibizarre

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