第140話 昔日の記憶が語る答え

 水路から水が溢れ始めて何分が経過しただろう。

 時間を測っているわけではないのでそれは分からないが、床上の水量は既に足首までが浸かるほどの深さにまで達していた。

 魔法の流れ弾が飛んでくる可能性を考慮してアンチ・マジックフィールドは台座と一緒に俺たちのことも完全に包み込める大きさに展開してはいるが、水路から流れてくる水は単なる水なので領域は普通に貫通する。まあただの水など入ってきたところで(現時点では)単に足が濡れる以上のことは起こらないが、水が思ったよりも冷たいため浸かっている足先が冷えてくるのが地味に気になるところだった。

「……何だか寒くなってきたわ」

「足が冷やされてるんだ、無理もないだろ。俺だって冷えてるよ。我慢できそうにないなら背負ってやろうか? まあ、そうしても限度ってものはあるだろうけどな」

「ううん、ハルに辛い思いさせて私だけ逃げるのは嫌。私も一緒に最後まで戦うって決めたの、だからこれくらい何てことない。我慢するわ」

「そうか。まあどうしても耐えられなかったら言えよ。俺も、あんたが辛い顔をしてるのを見るのは嫌なんだ。俺の目の色が黒いうちは、守ってやるから。いいな」

「……うん、ありがとう」

 フォルテは小さな円の中にひとつずつ宝石を置いていく。

 結局考えに考え抜いた末に何も閃かなかった俺たちは、ダンジョンから謎解きの誤回答の『おしおき』が来るのを覚悟で試しに適当に宝石を並べてみたのだが、幸い答えを間違えても何も起こらないことが分かって安堵した。だからこれ幸いと手当たり次第に配置を変えて宝石を設置しまくっているのだが、何も考えずに置いているせいもあってか結果は端にも引っ掛からない。宝石を並べては沈黙し、並べ替えては沈黙し、その繰り返しだ。

「何も起こらないわね」

「並べ方が間違ってるってことだけは分かるんだけどな。でも何がどう違うのかがさっぱりだ。……くそ、ヒントのひとつでも書いてありゃ、そこから答えが閃きそうな気はするんだが」

 俺は溜め息をついてこめかみの辺りの髪を乱暴にぐしゃりと握り潰す。

 じゅわっ!

 それと同時に、俺のすぐ傍でアンチ・マジックフィールドが蒸発音を立てた。

 反射的に振り返ると、ジークリンデがゼファルトたちに向けて放った魔法の一部がこちらにまで飛来している瞬間を丁度目撃した。

 茜色の光弾が、俺たちの頭上にある煉瓦造りの天井に突き刺さる。

 光が弾けて、簡単には砕けないはずの青い煉瓦が幾つもの巨大な石塊と化し、崩落音を立てながら落ちてきた!

 天井から床までそこそこの距離があるとはいえ、物が落ちる速度なんて一瞬のことである。

 アンチ・マジックフィールドを解除して、あれだけの数と大きさの瓦礫を残らず狙撃する魔法を放つだけの余裕は、俺にはなかった。

「……逃げろ、フォルテ!」

 瞬時に閃いたのは、フォルテだけは何としても守らなければという思い、ただひとつだけだった。

 俺は殆ど条件反射的に、フォルテのことを領域の外へと突き飛ばしていた。

 アンチ・マジックフィールドの外に出てしまったら、万が一魔法が飛んできた場合避けなければ最悪全身が吹っ飛ぶ。だが此処に留まっていたら、降ってくる瓦礫の下敷きになる。

 動かなければ瓦礫に潰されるのは確定事項だが、アンチ・マジックフィールドの外に出たからといって魔法が飛んでくるとは限らない。

 俺は僅かでも生存率が高い方に賭けたのだ。

 俺に渾身の力で突き飛ばされたフォルテが、悲鳴を上げながら水で満たされた床の上に倒れた。

 ……こんな乱暴な方法しかなくて、すまん。でもこれしかなかったんだよ、あんたのことを確実に助ける方法が。

「やばっ……ロスト・ユニヴァースッ……おっさん、逃げてっ!」

 ジークリンデたちの猛攻の隙を突いて、シキが咄嗟に放ってくれた能力が瓦礫のひとつを消し去った。

「……アルテマッ!」

 アンチ・マジックフィールドを解除して放った俺の魔法が、別の瓦礫を破壊する。

 だが、残った瓦礫は後ひとつ。最も大きかった塊が、俺の眼前へと迫る。

 がっ!

 脳内を貫くような衝撃が頭に走る。

 視界が赤いもので埋め尽くされながら、回転して闇へと落ちていく。

 全身が冷たいものに包まれる感覚。

 ああ、俺は床に倒れたのだと認識しながら──そのまま、意識を手離したのだった。


 気が付くと、俺は何処かの草原に立っていた。

 空には満天の星と、月が輝いている。

 穏やかな風に乗って運ばれてくるのは、青々とした草の匂い。

 辺りは闇と静寂に満ちていて、時折何処からかリリリ、リリリと虫の声が聞こえてくるのみだ。

 傍にあるのは、小さな焚き火。茜色の輝きから発せられる山吹色の光が、周辺を柔らかく照らしている。

 そしてその傍に──背筋を伸ばした体勢で座し、分厚い本を読んでいる一人の青年の姿があった。

 長くさらりとした髪の間から覗く、長い耳。線が細く整った、女性と見紛うばかりの美しい面持ち。

 彼の姿には、見覚えがあった。

 ──そうか。これは、俺の記憶の中に眠っていた過去の出来事が再生されたもの。

 此処にいるのは、俺と知り合って間もない頃の……魔帝と出会って狂ってしまう前の、ユーリルなのだ。

「……毎日、熱心だな」

 この頃は、あんなことが起きるなんて考えたことすらなかった。

 懐かしさのようなものを感じながら、あの頃のように、俺は何気ない言葉を掛けてみた。

 すると、ユーリルは読んでいた魔道大全集から視線を離して顔を上げ、俺と目を合わせて、微笑んだ。

「もう少ししたら、私も休みますよ。ハルさんこそ、お休みにならないのですか? 私の勉強にハルさんまで付き合うことはないのですよ」

「ああ、寝るよ。まあ……その、何だ。あんたが今どんなことを勉強してるのかって、気になったもんでな」

 魔法の勉強だ、と一言そう答えられてしまえばそれで終わってしまう問答なのだが。

 ユーリルは面倒そうな顔ひとつすることなく、俺の質問に答えてくれた。

「魔法の相性の関係性を学んでいたところです」

「魔法の相性?」

「ええ」

 ユーリルは俺の顔から焚き火の方へと視線を移した。

「一部の精霊魔法には『属性』という概念があります。火、氷、風、土、雷、水、光、闇……これらの精霊魔法は八大属性魔法とも呼ばれ、特定の属性に対しては有利に働き、特定の属性に対しては不利に働く、そういう特性を備えているんです」

 ゆったりと、何かの唄を紡ぐように、彼は続けた。

「『火は氷を溶かし、氷は風を凍らせ、風は土を砕く。土は雷を受け流し、雷は水を貫き、水は火を消す。光は闇を照らし、闇は光を飲む。全ては万物を創りたもうた大いなる存在が定めた絶対の理であり、その流れを覆すことは神とて叶わぬこと。流れに逆らわず、理解して支配せよ。それが真の探求者である』……弱い魔法でも、属性の相性を考慮して使えば莫大な成果を挙げられるものなんですよ。魔道士は、単に闇雲に魔法を使えれば良いというものではありません。相性を見抜いて如何に効果的に力を使うか。それが、基本中の基本であり最も大切なことなのです」

「……へぇ……俺は今までアルテマ以外ろくに使えなかった未熟者だったからな。魔法にも相性があるなんて考えたこともなかった。何でもいいから相手を倒せればそれでいいだろって思ってたよ。……やっぱり、あんたは凄いな。俺が知らないことも、山のようにあんたは知ってる。俺よりもあんたの方が、よっぽど魔法使いらしいって俺は思うよ」

「そんな……私も、未熟者ですよ。幾ら知識だけがあっても、それを力として生かすことができないのですから。でも……」

 ぱたん、と魔道大全集を閉じて。

 ユーリルは再度、俺の顔を見上げた。

「こんな私の知識でも、貴方のお役に立てるのでしたら……それだけでも、私は嬉しいです」

「謙遜するなって。あんたは誰が何と言おうと立派な魔法使いだよ。俺が認めてるんだから、もっと自信持て。自分が何もできないなんて自分をけなすようなことはするな。あんたは……あんたに相応しい魔法使いとしての姿があるんだから、他人の評価なんて気にするなよ」

「はい」

 そう返事して微笑む彼は、あの頃の、純粋に魔法使いとしての才能が花開くことを夢見ていた彼だった。

 あのまま、俺が魔帝に無謀な挑戦をして馬鹿な負け方をしなかったら……あいつは今も変わらぬ姿のまま、俺の隣で、魔法使いになることを夢見て笑っていたのだろうか。

 周囲の景色が、目の前のユーリルの姿が、真っ黒に塗り潰されて消えていく。

 ──ああ、夢が、終わるのか。

 夢を見ることをやめた俺の意識は暗がりの中から引き上げられて、現実へと還っていく。

 徐々に、全身の感覚が戻ってくる。体を濡らす水の冷たさと、重たさと、俺のことを抱いている誰かの腕の温かさを仄かに感じる。

 俺が瞼を開くと──

 空になったポーションの瓶を握り締めながら、両腕で俺の体をしっかりと抱き締めているフォルテと、視線がぶつかった。

「……フォル、テ?」

「……良かった、生きてた……! ハル、どうしてあんな馬鹿なことをしたの……! 私、自分が助かってもハルが代わりに死んじゃったら、生きてることに感謝なんてできないよ……! もう二度と、あんな真似はしないで……!」

 フォルテの目は真っ赤になっていた。

 俺が見ていないところで相当泣いていたのだということを、俺は未だに意識がはっきりとしていない頭で何とか理解した。

 とりあえず心配をかけたことを謝罪して、彼女が握っている空っぽの瓶へと目を向ける。

 フォルテは鼻をぐすっと鳴らしながら、答えた。

「私、怪我を治す魔法なんてできないし……みんな必死に戦ってて近付けなかったから……悪いとは思ったけど、ハルの鞄にポーションが入ってないかと思って、勝手に鞄開けちゃったの。それで、その……」

 微妙に頬を赤らめながら、彼女は俺から視線をそらして、言う。

「ハル、全然意識なかったから自分でポーション飲めなくて……私が、飲ませたんだけど……えっと……ごめん、なさい。他に方法思いつかなかったから、仕方なくて……」

「…………」

 その遣り取りは。

 かつて教会跡で俺がフォルテに対して言った言葉と、形がよく似ていた。

「……その、つまり、何だ。あんたが……口移ししたってことだよな」

「……うん」

「……そうか」

 こんな状況だというのに、何なんだ。この空気は。

「……本当に、ごめんなさい。嫌よね、私なんかに……」

「いや、謝らなくていい。嫌じゃないから。これは本当だ。そもそも、それ以外に方法がなかったんだろ。だからこれは仕方のないことなんだ」

 互いに目を合わせられないまま、俺はぼそっと呟く。

「……むしろ、意識がある時にやってほしかったっていうか……」

「え?」

「……いや、何でもない。独り言だから。もうこの話は終わりにしよう。俺はあんたのお陰で助かって、俺はそれに感謝してる。それで万事めでたし、問題ない。いいな?」

「う、うん」

 俺が備えとして持ち歩いていたポーションは何処でも買えるような一般的なポーションなのだが、俺が頭に食らったダメージはそれほど深刻なものでもなかったのか、現在は痛みも全くなく完治していた。

 気絶する直前、大量に血が飛んだのを見たような気がしたんだけどな……あれは気のせいだったのか。まあ、いいか。

 俺は立ち上がり、台座の方へと目を向けた。

 アンチ・マジックを解いたことによって再び結界に覆われている台座と、その周囲に散乱している瓦礫の山と、その遥か向こうで未だに激戦を繰り広げているゼファルトたちの様子が視界に映る。

 台座は瓦礫に潰されずに済んだか。ひょっとしたら結界が瓦礫を弾いたのかもしれないな。

 石は上手い具合に砕けて散っているし、台座を掘り起こす必要はなさそうだ。手間が増えなくて幸いだった。

 俺はフォルテを連れて台座の元に戻り、再びアンチ・マジックを発動させて台座に施されている結界を消去する。

「……さあ、謎解き再開だ。もう結構な時間を費やしてるからな、いい加減仕掛けを解かないとみんなが危ない」

「うん、でも……宝石の並べ方、未だに分かってないのよ? また順番に一個ずつ並び順を確認していくの?」

「いや、もうその必要はないよ」

 俺は小さくかぶりを振った。


 何のことはない。俺は、最初から謎の答えを知っていたのだ。

 ただ、それに気付かなかっただけだった。周囲の状況に振り回されて、きっとこいつも難解な代物だと、勝手に思い込んでしまっていただけなのだ。

 それを、あいつが気付かせてくれた。

 あの時、ユーリルが俺に聞かせてくれた話……そこに、全ての答えがあったのである。


 俺は六つの宝石を手に取り、ある順番でそれらを円の中に並べていった。

「……さあ、答え合わせだ。早いところ出口への道を繋いで、みんなを助けてやろう。全員生きて、このダンジョンから脱出するんだ」

 最後の宝石が円の中に置かれる。

 台座に描かれていた魔法陣もどきの模様が、外側から中心に向かって水色の光で満たされていく。

 中心の模様に光が行き渡った時──

 足下で、何かが渦を巻くような音が聞こえてきた。

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