閑話 いっぽう、そのころ

 水鏡の間。

 神界に住まう神々が下界の様子を観察するために使う巨大な覗き窓『水鏡』が設置されている場所である。

 一見単なる丸い池のようにしか見えないそれは、下界のありとあらゆる場所を神が望むままに映し出す。下界にあまり干渉しない神々にとってはほぼ無用とも言えるものではあったが、その日は珍しく、何人もの神々がそこに集って揃って水鏡を覗き込んでいた。

 五日に一度、下界にいる異世界人こと六道春と接触しているアルカディアとソルレオン。その二人以外にも、二人。

 オレンジ色の武闘着のようなものを着て、首から巨大な数珠のような黒い首飾りを下げた巨漢の武神、シュナウス。

 そのシュナウスの傍に寄り添うようにして立っているのは、少年の姿をしたソルレオンよりも更に小柄な一人の幼女。

 身長は百センチにも満たないだろう。シュナウスと同じ金茶の髪を耳の上で団子の形に結い、ツウェンドゥスでは『コトリグの花』の名で呼ばれている彼岸花に似た形の花を赤糸で華やかに刺繍した真っ白な衣を身に着けている。前の開いたローブを何枚も重ね着したような──例えるならば日本で言う十二単のような、かなり独特の形をした装束だ。

 彼女の名は、スーウール。神界に住むれっきとした女神の一人であり、シュナウスとは兄妹の関係にある少女神である。

 不気味なくらいに瞳を輝かせて水鏡を覗き込んでいる兄妹神を横目で見つめながら、アルカディアは傍らのソルレオンにぼそりと話しかけた。

「……何で喋っちゃったのよ、おっさん君のこと。この二人に! 大主神様に知られたら叱られるからこのことは秘密だって言ったじゃないの!」

「…………」

 ソルレオンは無言のままそっと視線をそらした。

 シュナウスが此処にいるのは、ソルレオンが彼にうっかりビールの話をしてしまったからだ。自分もビールが欲しいなら異世界人にお願いすればいいと入れ知恵のようなこともしたという自覚もある。

 しかし、スーウールまで此処にいるというのは、ソルレオンにとっては全くもって予想外のことだった。

 スーウールは兄であるシュナウスのことを狂信的と言っても過言ではないレベルで溺愛しているので、大方兄にくっついて一緒に此処に来たのだろうということは予想は付くが……

「これ、アルカディア」

 水鏡を覗き込んでいたスーウールが、アルカディアの方を向く。

「いい加減こやつと対話せぬか。妾は先程からずっと待っておるのじゃぞ」

 小さな人差し指を水鏡へと向ける。そこには、春の横顔が大きく映し出されていた。

 スーウールは、アルカディアたちが春から五日に一度ビールを献上してもらっていることを何故か知っていた──シュナウスたちが此処に来た時にソルレオンに詰め寄ったら彼がシュナウスには春のことを喋ったと白状したので、シュナウスが此処に来たのはソルレオンの責任だということは断定できたのだが……スーウールまでもが事情を知っているという理由までは分からなかった。シュナウスが喋ったのだろうか、そうだとするとシュナウスにビールの話を暴露した時に口止めをしなかったソルレオンにはおしおきしなければなるまい。とアルカディアは独りごちた。

「妾はずっと楽しみにしておるのじゃぞ、こやつから異世界の馳走を献上されるのを! それを甘味のひとつも出さずにただ待たせるとは何事じゃ。妾はこの神界一やんごとなき雅で可愛き女神なのじゃぞ、そちはそれを分かっておるのか!?」

「ああもう、うるさいわね! 少し黙っててちょうだい! おっさん君と話すにも、色々ルールがあるのよ! ちょっとシュナウス、貴方の妹なんだからちゃんと躾けなさいよ!」

「まあまあアルカディアちゃん、いいじゃないの、小さな子の言うことにいちいち目くじら立ててたら、眉間に小皺が増えるわよ」

「余計なお世話よっ!」

 うふふと微笑むシュナウスに吠えて、アルカディアはぷいっとそっぽを向いた。

 知られてしまった以上は、この二人を追い返すわけにはいかない。そんなことをしたら、平和主義者のシュナウスはともかく、我儘の塊のようなスーウールが何をし出すかが分からない。

 スーウールは、見た目こそ幼女だが、神界では『魔法大帝』の異名を持つ神界でトップクラスの実力を誇る魔神として知られており、神格はかなり高い位置にある。神同士で戦うといったことはまずありえないことなのだが、もしもスーウールが本気で向かってきたとしたら、アルカディアのそれなど足下にも及ばないだろう。つまりスーウールが癇癪を起こして暴れたら、アルカディアにはそれを止めることができないのだ。

 それを諌めることができるのは、大主神の他には、一人だけ。

 シュナウスは笑いながら大きな掌でスーウールのお団子頭をぽんぽんと叩いた。

「ウルちゃんも、アルカディアちゃんの言う通りに今は大人しく待っていなきゃ駄目よ。あたしたちはこれから、この異世界人ちゃんに異世界の美味しいものを下さいってお願いをする身なんだから。ちゃんと立場と礼儀を弁えなくちゃ駄目。分かったわね?」

「うぅ……兄上がそう言うのなら、大人しく待ってる……」

「そうそう。いい子ね」

 シュナウスがかいている胡坐の上に、ちょこんと座って身を丸くするスーウール。

 二メートル超の厳つい巨漢の前に百センチにも満たない幼女が座る光景は、まるで奇術師と操り人形を見ているような感覚である。

「異世界人と話すのは夜になってからなんだろ。いつも通り、交渉はお前に任せる形でいいんだな? アルカディア」

 頬杖をつきながらぼんやりと前方を眺めているソルレオンから言葉が投げかけられる。

 アルカディアは胸を張って威張るような仕草をして、答えた。

「もちろんよ。おっさん君に最初にビールを要求する権利があるのは、最初におっさん君に能力を授けた私なんだから!」

「授けたとはいっても、普通の魔力に本人の意思で自由に使えない魔法の知恵、魔法無効化領域を生み出すしかできないアンチ・マジックだけではないか。まあ、ポンコツなそちが授けられるまともな能力といったら、それくらいしかないのも無理はないのじゃろうがの」

 明らかに馬鹿にした様子でふっと笑いながら肩を竦めるスーウールに、アルカディアは怒鳴った。

「ちょっと、ポンコツって失礼ね! ちょっと神界で有名な魔神だからって……そう言う貴女はどうなのよ! そう言うからには、ちゃんとおっさん君が喜ぶような能力を考えているんでしょうね!」

「そちに言われるまでもなかろう。妾が与えるに相応しい、有用な能力を候補として選んでおるぞ。やんごとなき雅な女神である妾は、下界の者への配慮も怠らぬのじゃ」

「……まあ、スーウールの魔法に関する才能は本物だからな。お前と違ってちゃんと考えて行動する奴だし、そう変な能力を与えたりはしないだろ」

「……ソルレオン。ちょっとこっちに来なさい」

 アルカディアがジト目でソルレオンを見つめている。

 怪訝な顔をしてすぐ隣にやって来たソルレオンの頭を──アルカディアは両の拳で挟み込み、それをぐりぐりと捻り込むように動かし始めた。

「あだだだだだだだだだっ!?」

「私が日頃から何も考えてないみたいな言い方するんじゃないわよっ! 後、よくも私との約束を破ってビールの話を口外してくれたわね! 大主神様に知られて叱られたら貴方のせいってことにして貰ったビール全部取り上げてやるからね! 覚悟しときなさいよ!」

「そんなのただの言いがかりじゃないか……って、痛い痛い痛い痛い! 指の尖ったところでぐりぐりすんな! シュナウス、暢気に眺めてないで止めろよ!」

「ほんと、仲がいいわね、アルカディアちゃんとソルレオンちゃん。羨ましいわぁ」

「じゃれ合いじゃないからぁー!」

 こめかみを拳でぐりぐりされて悲鳴を上げるソルレオン。もはやこの状況とは何の関係もないことまで因縁を付け始めるアルカディア。それを微笑ましそうに眺めているシュナウスと、彼の膝の上で欠伸をしているスーウール。

 神界は、今日も平和である。

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