第82話 二つの顔を持つ男

 窓がないはずのその通路は、壁のあちこちに劣化によって自然とできた穴が空いていて光が差し込んでいるお陰で、足下を見ることができる程度の明るさはあった。

 リュウガと二人で足音を殺しながら歩いていき、遂に突き当たりにある扉の前に到着する。

 微妙に傾いて隙間ができた古めかしい木製の扉。その向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「……や、やめて……触らないで、触らないでよっ」

 その声は、紛れもなくフォルテの声だった。

 良かった、皆は此処にいたのか!

 待ってろ、今助けて──

 扉を開けようと取っ手を掴んだ俺の手首を、横からリュウガが鷲掴みにして引き止める。

 何で止めるんだ、フォルテが危険な目に遭いそうになっているのを見殺しにする気か!

 そう視線で抗議すると、彼は無言のまま持っている剣の先端で頭上を指し示した。

 何だろうと思いつつそちらに目を向けると、天井付近に柄のない鉈のような刃物が幾つもぶら下げられているのが見えた。注意深く見てみると、それらの刃物はひとつひとつが細いロープのようなもので繋がっていて、それらのロープの端は扉の上部に挟み込まれるようにして固定されていることが分かる。

 何だこりゃ、仕掛け罠か……?

 おそらく、この扉を開けたら固定されているロープが緩んで刃物が落ちてきて、扉を開けた人間を切りつけるようになっているのだろう。昔学生時代に教室のドアに黒板消しを挟んで誰かがドアを開けたらそれが落ちてくる悪戯を仕掛けていた奴がいたが、あれと似たような理屈のものだ。

 黒板消しなら当たっても全身粉まみれになる程度で済むが、こちらはそれなりに重さのある刃物だ。当たったら間違いなく怪我をする。

 此処の扉を何事もなく開けるためには、まずこの仕掛け罠を無効化しなければならない。

 くそっ、仕組みは陳腐なのに何て面倒なもんを仕掛けやがるんだ、此処の連中は!

 剣を頭上高く掲げて背伸びをして何度か振った後、溜め息をついてリュウガは呟いた。

「……駄目だ、高くて届かねぇな。おっさん、空を飛ぶ魔法とかそういうのはねぇのか?」

「……生憎、ないな。似たような魔法は一応あるにはあるんだが、この状況じゃ役に立たん」

 俺は眉間に皺を寄せた。

 意外に思われるかもしれないが、空を飛ぶ魔法というのは実のところ存在はしていない。

 限りなく近い効果を持つ魔法として、魔法が掛けられた物体にかかった重力を中和することができる『フロータージュ』という魔法があるのだが、あれはあくまで重力を中和するだけであって物体を浮かせるような力はない。本来は高い場所から飛び降りる際に使用して落下速度を一時的に遅くするための魔法なので、浮いたり飛んだりすることはできないのだ。

 ……いや、待てよ。

 その魔法をあの刃物に掛ければ、ロープが外れてもすぐには落ちてこなくなるはず。そうすれば余裕で避けられるんじゃないか?

 魔法であれば、天井までの距離は余裕で射程範囲内だ。そんなに持続時間がない魔法ではあるが、要は俺たちが扉を開けて部屋の中に入るまでの時間を稼げればいいのだから、十分であると言える。

 俺はリュウガに簡単に魔法の効果を説明して、俺が魔法を掛けたらすぐに扉を開けてくれと言った。

 一度だけ深く息を吐いて、吸って、両手を頭上の刃物に向かって翳す。

「フロータ……」

「嫌っ、そんな風にしないで! 嫌だってばぁ!」

 唱えかけた魔法は、扉の外から響いてきたフォルテの泣き叫ぶ声によって中断させられた。

 思わず扉に目を向ける俺。

 扉の向こうから、落ち着いた男の声が聞こえてくる。

「はは、口ではそんな風に言ってても、体の方は正直なもんだぞ? 今さっきあんたに飲ませたあの薬は、一部の貴族連中が秘密裏に愛用してるって評判の媚薬だ。これを飲ませた性奴隷は途端に従順になって喜んで奉仕するようになるらしい……ほら、あんただって、本当はもう限界なんだろ? 体はさっきからおれのことが欲しいって散々訴えてるじゃないか」

「そんなっ、そんなことなんて、思ってなんか……」

「虚勢を張るなよ。今すぐ望み通りにしてやるから……そうしてたっぷりと男を悦ばせるテクニックを覚えさせてから、裏ルートで貴族連中に売り渡してやる。あんたは顔もスタイルも一級品だからな、きっと高値が付くだろうさ」

「やめてっ、そこを触らないでっ! 嫌よ、嫌だってばぁぁぁ! 助けてっ、ハル──!」

「──!」


 フォルテのその叫び声を聞いた瞬間。

 俺の中で、何かが音を立てて切れた。


 俺は扉をぶち破らん勢いで開け放った。

 扉の上部に引っ掛かっていたロープが外れて、天井にぶら下がっていた刃物が一気に落ちてくる。

「うわっと! おっさん! 何してんだよ!」

 それらはリュウガが振るった剣での一撃で、俺たちに命中する寸前のところで打ち払われた。

 彼が後ろで何か文句を垂れているが、今の俺にはそのような細かいことを気にする余裕はない。

 俺は部屋の中に押し入って、目の前でフォルテの上に覆い被さっている男を睨み付けた。

 二十メートル四方くらいのその部屋には、家具の類は部屋の隅に置かれている小さなテーブルと粗末な椅子しかなく、後は古びた木箱や宝箱のようなものが積み重なって山を形成しているだけで、雑然とした雰囲気があるだけだった。積み重なっている箱の中には何かしら中身があるようで、微妙に蓋が開いている箱からはそこそこ綺麗な色合いをした剣の柄のようなものが頭を覗かせている。

 部屋の角には、アヴネラとヴァイスがいた。アヴネラは手と足を後ろ手の状態で縛られており、口は俺が馬車でされていたように布の猿轡で塞がれている。ヴァイスは縛られていない代わりに、木でできた粗末な檻のようなものに入れられていた。両者共眠っているのか、目を閉じたまま全く動かない。

 そして、フォルテは──

 彼女の姿を見た瞬間、俺は全身の血が怒りで沸騰するのを感じた。

 フォルテは、アヴネラと同じように手足を縄で縛られた上に、服を全て剥ぎ取られている状態だった。縛られる前によほど抵抗したのか、白い肌のあちこちに殴られた跡のような赤い痣がある。

 その彼女の上に覆い被さっているのは、上半身裸の男だった。茶髪で、似合っていない顎鬚を生やした、頬に傷のある男だ。

 嫌と言うほどに、見覚えのある男だった。

「……へぇ、結構頑丈に縛ってやったってのにどうやって縄を解いたんだ? やっぱり寝てる間に殺しとくべきだったかね? 失敗したな」

 ガクは笑いながら、今にもフォルテと密着しそうになっていた体を離して起き上がった。

 履いているズボンの前が寛げられて、そこから見たくもないものが覗いている。

 あれを、間近で見せつけられていたのだ、フォルテは──さぞかし怖かったことだろう。

 安心しろ、今すぐにこいつをぶっとばして、助けてやるからな。

 俺はフォルテにちらりと視線を向けた。

 彼女は、俺の顔を見て目を丸く見開いて震えていた。頬には筋になった涙の跡がある。

 その表情は、恐怖で完全に凍り付いていた。

「…………」

 俺はぎりっと奥歯を噛み締めた。

 必要以上の強い力が入ったせいか、歯が微妙にきりりと痛んだ。

「……最初からそのつもりで俺たちに近付いたのか。あんたは」

「ああ、そうさ。表は貴族連中を相手に奴らが欲しがってるものを売る商人、裏は世界各地からありとあらゆる財宝を盗む盗賊団の頭、この二つの顔を使い分けておれは莫大な財産を築き上げてきた」

 だらしなく見せているものをしまおうともせず。奴はズボンの前を全開にさせたまま、語り始めた。

「ルノラッシュシティ近郊であんたたちを見かけた時、おれは思ったのさ。こいつらはきっと金になるってな。どうにかして男を排除した後で荷物と女を奪ってやろうと考えて、ただの商人のふりをして近付いた。あんたたちが例のコロシアムに出たがってると知った時はラッキーだって思ったよ。力のありそうなあんたを女たちから引き離すいい方法になるからな。……まさか奴隷落ちしても平気で闘技場から逃げ出してくるとは思ってなかったから、それだけは予想外だったけどな」

 奴は両の拳を握って両足を軽く開いて、構えを取った。

 左右に小刻みに体を揺らしながら、唇を舐める。

「こうなった以上は実力行使あるのみだ。力で無理矢理捻じ伏せて、おれに逆らう気が二度と起きないようにしてやろう。……そうだな、身動きできないようにした後に、目の前でおれがその女を食うところを見せつけてやるってのはどうだ? 大事な女が好きでもない男に散々犯されて淫乱な性奴隷に堕ちていく様を見て、悔しがるといいさ」

「……もう喋らなくていいぞ。この下種野郎が」

 下品な笑いを零す奴に冷たい眼差しを向けて、俺は右の掌を翳した。

 その体勢のまま、背後のリュウガに告げる。

「リュウガ、アヴネラたちを頼む。こいつは俺一人で叩きのめす」

「……いつになくやる気だな、おっさん。分かったぜ、そう言うならオレは手を出さねぇよ」

 リュウガは剣を肩に担いだまま部屋の中に入ってきて、そのまま部屋の隅にいるアヴネラたちの元へと向かった。

 ガクは俺の方を警戒しているようで、リュウガの方はちらりと見ただけで彼がアヴネラたちの方に行くのを止めようとはしない。

 俺ははっきりと言った。奴だけではなく、俺自身にも言い聞かせるように。

「あんたは、男としても、人としても許せん。俺と出会ったことを一生後悔することになるように、制裁してやるよ。この手でな!」

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