第38話
思いついたのはよかったものの、その相手に声をかけるのはものすごく難しかった。何しろ今まで一度もしゃべったことがない。名前も少し怪しかった。教室の教壇の上に置いてある座席表を見て確認したくらいだ。
席は窓際。軽く染めた髪を、今日はゆるくまとめている。たぶんメイクもしているのだろう。名前は佐々岡優。出席番号は十四番。
二海が優のことを思いついたのは、前の試験のことを覚えていたからだった。情報の試験で、優は早くに答案を埋め終わり、暇そうにしていた。なら、興味があるかどうかは別にして、素質はあるのではないか。
そう思い、二海は放課後までずっと優に話しかけるタイミングを伺った。朝の授業が始まる前。授業と授業の合間。移動教室で廊下を歩いているとき。昼休み。放課後。
しかしその日、二海は声をかけることができなかった。まず、優はたいてい誰かしらと話している。その間に割り込んで、『ごめん、ちょっといいかな』と言うことは二海にはできそうになかった。誰かと話していないときは、優はスマートフォンをいじっていた。そのときに話しかけることも難しかった。スマートフォンの中でやっている何かの邪魔をして、印象を悪くしてしまうのではないかと怖かったのだ。だからほんとうのチャンスは、移動教室のときや放課後になった瞬間など、数えるくらいしかなかったのだが、そのチャンスも二海はふいにしてしまった。一度もしゃべったことのない、しかもおしゃれな相手に話しかけるのは、ひどく気後れすることだった。
翌日も二海は機会をさぐったが、やはり話しかけることができなかった。この日は優が昼休みの後半ずっと一人だったのだが、話しかける最初の言葉を考えているうちに優は教室を出ていってしまった。落ち込んだ気持ちで放課後コンピューター室に行った二海は、扉を開けて中に知らない生徒がいたのに驚いた。
「あれ」
桃と、その知らない生徒がこちらを向いた。
「あ、ちょっと来て」
呼ばれるがままに中に入った二海は、その知らない生徒に引き合わされた。
「こっちがさっき話した、1-Cの二海ちゃんです。で、二海ちゃん、こっちは2-Bの福浦さん」
「里々でいいよー。えっと、二海ちゃんが罠にひっかかったって子? だっけ?」
「えーと。そうです」
「あーそうかあ」と、里々はころころ笑った。「ごめんね、その話聞いて面白くて。えーと、私は2-Bの福浦里々。さっき桃ちゃんに勧誘されてここまでのこのこやってきたの」
「のこのこ……」
「のこのこ」
里々は、ちょっと独特な雰囲気を持っていた。毛先だけ巻いた髪がふわりとしていて、この暑さでも白いカーディガンを羽織っている。目尻がつねに下がっていて、唇が薄く瞳の色素も薄い。全体的にやわらかな空気を醸し出していた。
「桃ちゃんが勧誘したの?」
里々から視線を外し、二海は桃に尋ねた。
「そう。同クラの友達に聞いてみたけどやっぱりダメで、でも話してる中で里々さんの噂を聞いたんだ」
「噂?」
「数学がすごい得意で、模試でも全国の成績上位者に入る人が二年にいるって」
「え!」
二海はもう一度里々を見つめた。そのふわふわとした外見からは想像がつかない。
「まー、あれはまぐれだからあんまり気にしないで。あ、違うかな。気にしないでじゃなくて、えーと……構わないで、じゃなくて……」
悩み始めた里々に、二海はおそるおそる「……買いかぶる?」と聞いてみた。
「それそれ! よかったー、すっきりした。ありがとー」
その後ゆあんが来た時、もう一度桃は里々を紹介した。
「数学できるってすごいですね。好きなんですか?」
「好き……かな? わからないのをほっとくのがいやだから、わかるようにしようとしてるってかんじ」
「あ……そうですか」
噛み合っているようないないような会話の後、「もし里々さんが入ってくれるなら、CTFの中でもCryptoっていう分野をやってもらおうかと思って」と桃が里々に話しかけた。
「くりぷと?」
「暗号を解読するんです」
「えー、面白そう。どんなの?」
桃は『CTF攻略ガイド』を持ち出し、中の一ページを里々に示した。
「えー、なんだろこれ……数字?」
「これがある文章を表してるんです。他にも……」
桃はページをめくろうとした。が、
「ちょっと待って!」
里々はその手をおさえ、めくるのをやめさせた。
「考えるからちょっと待って。えっと……」
そう言って、里々はじっとページを見つめだした。説明の手順が狂った桃は、しばらくしてつつつと二海とゆあんのところに寄ってきた。
「……っていう……」
「どうかな」二海はこそこそと話した。「入ってくれそうかな」
「どうだろう……」
三人は里々のほうを見た。その里々は本に集中していて、三人の視線にはまったく気づかない。
「終わったらもうちょい説明してみる」
「そうして。あと、他に声かけた人っている? 私はいないからな」
ゆあんは何故か最後を切り口上で述べた。
「私はほかはいない。二海ちゃんは?」
「あ、えーと、一人……」
「ほんと? どんな?」
「あ、まだちょっと、ちゃんと確認してなくて……明日ちゃんと確認する」
焦った二海は、自分でもよくわからないことを口走ってしまった。微妙な表情を浮かべた桃が、何かを言おうとした時、
「あ、わかった!」
と里々が声を上げた。
「11がAで12がBでしょ? 面白いねー、これ。借りてってもいい?」
「いいですけど、えっと、クラブのことなんですけど」
「クラブ? 入る入るー」
「え」
「楽しそうだし、私部活やってないし。それで、この本借りてもいい?」
「あ、はい、どうぞどうぞ」
面食らったような桃を尻目に、里々は楽しそうに本のページをめくった。
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