第35話

 二人ともハンカチやポケットティッシュを持っていなかったので、二海はパンの袋に入っていたお手拭きで顔をぬぐった。


 踊り場上の階段に並んで腰掛けていると、スカートをとおして床の冷たさがふとももに伝わってくる。頭は少しぼうっとしていた。


「もうだいじょうぶ?」


 桃の声に、二海は小声で「うん」と答えた。落ち着くと、あんなふうにいきなり泣き出したことが恥ずかしくなってくる。


「いきなり……ごめん」


 二海は床を見ながら言った。


「謝ることはないよ。むしろ……」


 桃はそこで少し言葉を止め、それからまた話しだした。「あのさ、私の話してもいい?」

「うん」

「中学の時、私コンピューター部に入ってたのね。最初は他の部に入りたかったんだけど、私の中学って人気の部だと人数制限があって、その抽選に漏れて。最初はぜんぜんパソコンとか興味なかったんだけど、最初にやったのがレゴのロボットを操作するやつで、プログラム書かずに専用の画面でさせたい動きを選べばそのとおりに動いたの、それが楽しくてだんだんハマってって。二年生になったころにはプログラムもちょこちょこ書けるようになってた」


 その時、五限目のチャイムが鳴った。二人は顔を見合わせたが、どちらも立ち上がろうとはしなかった。


「授業だいじょうぶ?」

「うん、次生物だし。Aは?」

「何だっけ。えーと、あ、ライティングだけど別にいいや。えーと、どこまで話したっけ」

「二年生になって……」

「そーだ。で、そのコンピューター部は同学年の子が私含めて四人いたの。で、その中の一人が、いつだっけなあ、正確な日は忘れたけど、CTFのこと聞いて、やろうって。その日はみんなでオンラインの問題やってみて、難しーって。なんだこれって。今考えるとそれほどじゃないんだけど。でも解けないのを解けないままにしときたくなくって、次の日もやって、その次の日もやって。一つの問題に三人も四人もかかってやったりして。一人が画面見て、一人が本見て、もう一人が後ろからなんだかんだ言ったりね」


 桃の口調には、先程までのぞんざいな感じは無くなっていた。しかしいつもの話し方ともちょっと違う。落ち着いているというか、深いところの話をしているという印象を受けた。


「それでCTFは活動内容の定番になって。で、三年になって、今年はAJSEC Juniorに出ようってことになって、それでみんなで準備したの。新入部員もいたからその面倒もみないといけないし、二年だと他のことしたいって子もいたからさ、そんなスムーズにはいかないとこもあって。実力の問題もあったけどね。そんなんで中三のときのは、五十六位だった。まあまあ悔しかったよね」

「そうだったの」

「で、ちょうど夏休み前だったから、中三メンバーはこのリベンジを高校でやろうってことになったの。情報系の部活が強いところ調べて、四谷高校ってとこがよさそうだったから、じゃあみんなでここ受けて、来年こそは行くぜアメリカって」

「四谷高校、って……」


 覚えのある校名に、二海は目を見開いた。


「そー。で、私は入試当日に見事にインフル発症して、一人ぽっちでこの学校に入学しました、とさ。でも何か、中学のころからずっと目指してたしで、別の部活入ったりとかする気になれなくて。それにスルちゃん……あ、あっちの学校の子からちょいちょいメッセージ来たりね、だからこっちでもやりたかったんだよね。それに、AJSEC Junior突破して予選であっちの子と再会とか、すごいドラマっぽくない? そう思ってメンバー集めて、やったんだけど……」


 桃はふうーっと、長い溜息をついた。


「まあ、だめだったけど、なんか……何て言えばいいんだろ……すごく残念だったんだけど、でもどっかでそうかもなーって思ってたのかもしれない」

「え?」

「だって、準備期間短かったし、それに二海ちゃんなんて、結構強引に勧誘したし、モチベーションとかさ、二人は急に巻き込まれてそのまま付き合ってくれてたのかなって。だから、見ないようにしてたのが結果に出て、折れちゃったっていうか。でもこれ、ぜんぶ私が勝手に巻き込んで、勝手に折れたっていう、すごい迷惑な……だから、すごく……ごめん」


 桃は二海に視線をあわせてそう謝った。しかし、二海はそれをそのまま受け入れる気にはなれなかった。


 桃のほうの事情はわかった。どうしてCTFクラブを始めたのかとか、どうしてあんな形で人を誘ったのか、どうして昨日終わってから応答が無かったのか。それはわかった。でも、モチベーションとか、強引にとか、迷惑なとか、それは違う。ぜんぜん違う、と二海は思った。


「あの……あのね。私は、……面白かった。知らないこと知れたし、それに一緒にやったのも、楽しかった。だから、……」


 落ち着いたと思ったのに、また喉の奥が熱くなった。二海は急いで深呼吸し、涙が出ないように注意して早口にしゃべった。


「『付き合ってくれてた』とかじゃなくて。やりたくてやってたし、それに、もっとやりたい。続けたい。だから、一人で終わらせないで。ごめんとか、いい。のかわりに、クラブ続けたい」


 言い終わって、二海ははーと深く息を吐いた。言いたいことが言えた。思っていることをそのまま声に出せた。


 しばらく、どちらもしゃべらなかった。


「……ありがと」


 桃がぽつんと言った。


「ん……」

「ね、何か飲みに行かない? 喉がかわいちゃった」


 そう言って、桃は立ち上がった。二海もそれに続いた。


 購買にある自動販売機で紙パックのジュースを買い、二人は他に誰もいない食堂に行った。教室とは離れているし、照明もついていないので、食堂のなかはしんとしていた。


 桃はpiknikのヨーグルト味を飲み、椅子の背にもたれていた。二海はコーヒー味にした。それと、すっかり忘れていたパンも食べた。


 ジュースを飲みながら、二人はあまり話さなかった。水泳の後のような疲れを感じていて、やたらめたらに話をする気分ではなかった。


「そしたら、今日放課後コンピューター室に来て」

「わかった」


 五限の終わりのチャイムが鳴ったのをしおに、二人は席を立った。教室に戻る途中で、


「そうだ、ゆあんちゃんも呼ばないと」

「そうだね、言っとく」


 桃はそう頷いた。


「さっき言った気がするけど、探してたっていうか、まあちょっと怒ってた」

「あー……まあ、仕方ない、播いた種だから。謝るし、どうにか説明するよ」

「がんばって」

「ありがとー」


 休み時間で教室から出てきた生徒にまぎれ、二人は自分の教室に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る