第24話

 六月じゅう、二海は自由に使える時間のほとんどをCTFに費やした。家に帰ってから机に向かうのは教科書ではなくノートパソコンのためだったし、土日も同じようなものだった。宿題は内職のできる授業中にすませてしまう技術を身につけ、家でだらだらと動画を見るのもやめた。


「元井さん、それ何の本なの?」


 昼休み、十分もかからずにサンドイッチを食べ終えてから、二海は『パケット解析の教科書』を読んでいた。いつもはあの屋上の扉の前の場所に行くのだが、今日は五時限目が移動授業なので、いちいち行ったり戻ったりが面倒くさくそのまま席についていたのだった。紙パックのコーヒー牛乳を置き、二海は冴香に答えた。


「これは……ネットワークの本」

「えーと、それは……」

「何ていうか、えーと、インターネットとかの本」


 正確にはちょっと違うのだが、簡単のために二海はそう説明した。そしてそれでもまだ冴香がよくわからないという顔をしていたので、「私、コンピューターの同好会に入ってて、それで使うの」と説明を付け加えた。


「ああ、そうなんだ」と、冴香はやっとわかったというように口角を上げた。「その同好会知らなかったな。すごいねこんな難しそうなの」

「いや、そんな……私も始めたばっかりで、まだよくわかってないんだけど、同じクラブの人がすごく難しいこと知ってるの。私は教わってばっかり」

「へえー。他の人って誰?」

「Aの上原さん……知ってる?」

「えー、知らないなあ」

「あとはBの、えーと、ゆあんっていう」

「あー。知ってる。あの、髪の長い人でしょ? なんかわかるかも」


 話しているうち、冴香は別の生徒の声をかけられ、そちらに寄っていった。二海は残っていたコーヒー牛乳を飲み、それからまた本に戻った。


 放課後は毎日コンピューター室に通った。問題を解き、本を読む。三人それぞれが別々のジャンルの問題に向かっているので、コンピューター室の中はたいてい静かだった。時々「えー」とか「あー」とか「何だこれ」とかのひとりごとがつぶやかれたり、キーボードを叩く音がしたりするくらいだ。


 帰りはたいてい駅まで一緒に歩いた。今年は梅雨なのに雨の降る日が少なく、天気予報では水不足になるかもしれないと言っていたが、二海にはありがたかった。雨だと傘をささなければいけないし、そうなるとどうしても傘のぶんだけ距離があく。すると雨音とあわさって、どうにもしゃべりにくいのだった。そういうとき、二海は前を歩くグループを眺めたりした。部活帰りの、ラケットバッグや体操着入れを肩にかけ、色とりどりの傘をさした同じ制服のグループ。彼女たちは雨の日でもまったく問題なさそうに、傘をななめにして話していた。


 そして、六月の最後の週がやってきた。


「いよいよ週末か」


 ゆあんが言った。桃がまだ来ていないので、コンピューター室は二人だけで、まだノートパソコンを開けてもいなかった。


「そうだね。どうかなあ……なんだか不安」

「まあなるようになる、でしょ。あんまり緊張しなくってもいいよ」

「でも、上位五チームのうちに入らないと」

「だって、それ桃が言ってるだけでしょ。そりゃ上のほうがいいのは決まってるし、私だってSEC CON CTFの出場権はほしいけど、だからってスコアがよくなくても何かあるわけじゃないんだしね」


 AJSEC Juniorのスコア上位五チームには、世界有数のセキュリティコンテストであるSEC CON CTFの予選出場権が与えられる。それが得られれば素晴らしいだろう、というのは二海も思った。ゆあんだって今はどうでもいいような口ぶりだけども、もしほんとうに上位に食い込むことができたらずいぶん大騒ぎするだろう、と二海は思った。難しい問題を解ききった後のように。


 しかしそれでも、桃がその上位五チームに入りたいと言っているのは、SEC CONとは微妙に違うような気が二海はしていた。桃がSEC CON自体の話をすることはほとんど無かったし、たとえばゆあんのようにコンピューター自体が好きというのとも少し違っていた。桃がいちばん焦点をあてているのはCTFそのものだった。それが二海の中で違和感になっていたのだが、うまく言葉にはすることができず、他の誰かに話すこともしていなかった。


「ごめん、遅れたー」


 そう言いながら桃が入ってきたので、二人は話を自然にやめた。桃は席ではなく教壇に向かい、カバンを置いた。


「次の土日がAJSEC Juniorでしょ? 今日は最初に、その日の対策をたてよう」

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