第24話 お前だったのか
――そうだ。思い出した。
脳裏にはっきりと甦った光景に、俺は額に当てた手の裏で大きく目を見開いていた。
「そうだ……それで、俺は魂だけになって竜の体を捨てたんだ……」
「兄さん……」
隣りにいて、じっと話を聞いていたアーシャルがそっと俺に指を伸ばす。
俺に伸ばされたアーシャルの手は、この暗がりで見てもはっきりとわかるぐらい白い。もちろん、俺を見つめているアーシャルの顔もだ。
「だから、俺は知り合いの魔女に頼んで、魂を人間の体に入れてもらって――」
どうしても、突然思い出した記憶に喉が震えてしまう。
まるで、竜の体で殺されたのが、ついさっきだったかのようだ。
けれど、その時、暗がりの奥から聞こえた音に急いで振り返った。
――忘れていた!
だけど、音の先ではマームが薄く笑って、こちらを見下ろしている。その笑みに、俺の怒りが叫びと共に迸った。
「マーム!」
そして、剣を抜いた。
けれど、俺の激高の前で、マームは平然と腕を組むと、俺を嘲るように見つめている。
「なあに? やっと思い出したの?」
――そうだ! こいつだ!
「貴様、俺をよくも嵌めやがったな!?」
けれど、マームはくすくすと笑っている。
「あら? 私は嘘はついていないわよ? あの後、確かに薬は火竜の元に届くように手配したからね?」
だから今は見えているでしょうと、笑っているが、それでありがとうなどと言えるわけがない。
「貴様! よくも俺を騙しておいて!」
――許せない!
こいつのせいで、俺の竜の体は死んだ!
それだけじゃない!
今までの十七年、俺が記憶を思いだせなかったことで、どれだけアーシャルを悲しませてしまったか――
それなのに、マームは豊かな緑の髪を揺らすと、ふんと笑っている。
「あら? 騙す卑怯がお得意の水竜に批難されるなんて心外だわ。しかも、こんなに悔しそうな顔をさせられるなんて、ぞくぞくする――いっそ、ここで断末魔の顔を晒させて、血だらけの姿に口づけしたいほどね」
「貴様!」
俺は、剣を握るとマームへと切りかかった。
けれど、もう少しで剣が届くというところで、とんと空中に逃げられる。
「お生憎様。お前一人ならともかく、その火竜のいるところで戦うほど馬鹿じゃないわ」
言葉と同時にマームが指を鳴らす。一瞬だった。天井から大きな石が崩れてくるまで。
「なっ――!」
あいつ、自分で迷宮を壊したのか!?
いや、違う。よく見れば、確かに上の三階の床らしき石も落ちてくるが、目の前に刺さっている大岩の大半は、三階にあったゴーレムの体だ。それが解体されて、たくさんの床石と共に落ちてくる。
どんと俺の前に、巨大な岩が立て向きに突き刺さった。
こんなの、いくら前世が竜でもどうしようもないぞ?
舞い上がる砂が苦しくて、目の前がよく見えない。
だけど、目を閉じている暇はない。一瞬でも視界を閉ざせば、上から落ちてくる巨岩で、俺の体は踏まれた蟻同然に平たくなってしまうだろう。
「さようなら、水竜。生きているとは思わなかったから、最後に悔しそうな顔が見れて幸せだったわ。しばらくは、その屈辱にまみれた顔を思い出して、幸せな気持ちでご飯が食べれそうよ?」
「やめてくれ! なんで、俺がお前のおかずにならねばならん!」
――しかも、世間一般の意味より果てしなく薄気味が悪い!
「ああ、不満なら、二十四時間思い出して、あああああと恍惚の表情で叫んであげるけど」
「絶対に今の抗議はそこじゃない!」
くそっ! 剣さえ届けば、今すぐにでも切り殺してやるのに!
それなのに、マームは手の届かない空中に逃げると、下にいる俺を楽しそうに見つめた。
けれど、悔しくて見上げる間にも、上から落ちてきたゴーレムの体が、どんと俺の横に突き刺さる。
「さようなら、水竜。今度こそ二度と会うことはないわね」
――くそっ!
このままあいつを逃がしてしまうのか?
そして、俺は巨岩たちの下敷きになってしまうのか。
――俺の竜の体を罠にかけた奴なのに!
暗い虚空にいる愉悦を含んだ顔に、俺が唇を噛み締めたときだった。
「待て!」
鋭い声がしたと思うと、巨大な赤い翼を閃かせながら、アーシャルが竜の姿で落ちてくる岩の中に羽ばたいたではないか。そして、空中にいるマームへと迫っていく。
「なっ……!」
――お前! 上から落ちてくる岩に当たったらどうするつもりだ!
さすがにこの岩の雨の中を飛んでくるのは、マームも予想外だったらしい。
けれど、アーシャルはその体を真紅に輝かせると、落ちてくる岩さえも翼に触れる前に熱い泥流へと溶かしていく。火竜のもつ超高温の気だ。
それが、落ちてくる巨岩さえ、体に触れる前に空中で赤い液体に変えて、その翼に触れるのと同時に凄まじい霧と共に蒸発させていく。
赤い瞳がマームをとらえて凄まじい金色に輝いた。
「貴様! よくも兄さんを罠にかけたな!」
猛然と竜の爪が襲い掛かった。
「きゃあああああ!」
いくら魔物でも、鉄鋼より固い竜の五つの爪に襲われてはなす術がない。しかも正面からは、赤い瞳を金色の怒りに変えたアーシャルが凄絶な表情で迫っている。
それはこの地上で、最も凶暴と称される火竜の本性そのままの残忍さを湛えていた。
逃げようとマームが動く。けれど、それより早くに、アーシャルの爪がマームの体に届くと、逃げようとした体を容赦なく叩き落したのだ。俺のいる床へと。
「でかした! アーシャル!」
叫ぶのと同時に、俺は抜いた剣を構えた。
空中で俺の剣に気がついたマームが落ちる速度を必死に弱めている。けれど火竜の一撃だ。その速さの打撃は止めようがない。
せめてもと、マームの魔力が空中で一緒に落ちていた細かい岩を自分の身の回りへ集めだした。それで体を岩に包み、俺の剣を防ぐつもりなのだろう。
だけど、それを許すと思うのか。
マームの体は、自分を守るように、岩を纏って落ちてくる。けれど、俺はその体めがけて、剣を振り上げた。
剣の刀身には、アーシャルの真紅の鱗が埋め込まれている。
「来い! アーシャル、俺に力を貸せ!」
叫ぶと、剣が一気に真紅の輝きを纏った。
火竜の鱗だ。それが燃え上がるように、俺の剣に宿り輝いている。
「お前!?」
マームが剣の変化に驚いて叫んだ。だが、わざわざ説明してやるつもりはない。
俺はアーシャルの剣を振り上げると、マームの全身を覆っていた岩を、剣の熱で裂きながら溶かした。
そして、その勢いのまま、岩の奥にあったマームの顔に剣を近づける。次の刹那、一閃でその緑の両眼を容赦なく剣先で切り裂いた。
「ぎゃああああ!」
体が床に落ちるのと同時に、目を押さえて蹲っている。
だけど、感謝して欲しい。本当なら殺してやりたいところを、これだけで我慢してやったんだ!
「マーム! 俺を嵌めたのは許さない!」
まだ血の涙を両目から流す緑の姿に、俺は指をつきつけた。
「ただ、約束通りアーシャルに薬を渡して見えるようにしてくれたことは感謝している! だから暫く十七年前のアーシャルと同じ苦しみを味わうがいい!」
目が見えないのがどれだけ恐ろしいことか!
――どうせ、自分の回復薬で、傷ついた目ぐらいすぐに治せることはわかっているんだ。
「兄さん?」
地上に下りたアーシャルが、人間の姿になるなり、俺の言葉に驚いた顔で駆け寄ってきた。けれど、俺はもうマームに興味をなくしたように、駆け寄ってくるアーシャルに顔を動かす。
「いいの?」
それがマームのことを聞いているのだとわかっている。
けれど、俺はアーシャルの少し心配そうな顔を見つめて笑った。
「ああ」
だって、今お前が俺を心配そうに見つめている。
それに、あんなにたくさん、自分で楽しそうに動き回っていたじゃないか。
「まあ、全部反故にされたわけじゃないからな」
嵌められはしたが、約束は守ってくれた。
――だから、俺は本来やられたら十倍返しだが、特別に同等で今回は見逃してやろう。
だって、こいつがこんなにも幸せそうに笑うようになったのだから――
だから俺は、横でじっと見つめているアーシャルを安心させるように笑いかけた。
「それにまたお前に会えたし」
「兄さん!」
嬉しそうにアーシャルが人型で俺に飛びついてくる。満面の笑顔は、昔と同じだ。
だけど、俺は後ろで落ちてくる岩に、眉をしかめた。
ゴーレムを落とした衝撃で、三階の床石が壊れたのかもしれない。それとも迷宮を支えていたマームの魔力が傷つけられたからなのか――
俺達の側には、今も上から凄まじい音と共に大きな岩が落ちてくる。
茶色い岩が暗い地下に落ちてくる衝撃に、灯されていた明かりさえ転がって、巨大な岩の下敷きになっていく。
「兄さん……」
「大丈夫だ!」
心配そうなアーシャルの手を握ると、俺はすぐに駆け出した。
「アーシャルは、近くにある回復の玉の残りを集めてくれ。少しだが、まだその辺に残っているはずだ!」
「う、うん! 兄さんは――」
けれど、俺はアーシャルの不安そうな声も聞かずに、まさに今岩が落ちてきている部屋の端へと駆け寄った。
「俺は、もう一つ用事がある!」
後ろのアーシャルへ叫ぶと、そのまま重なった岩の側に転がっている人影へと近づく。
そして、倒れているサリフォンの様子を確かめた。
てっきり岩に挟まれて足ぐらい潰されているかと思ったが、ちょうど岩と岩が重なった隙間に転がっていたらしい。
――運のよい奴。
側で倒れているサリフォンのおつきの者も、幸い大ききな怪我は免れているようだ。もっとも、落ちてきたゴーレムのせいで、砕けた床石の破片に、体中の皮膚がかなり当たっているようだが。
「さて」
観察してみたが、とうやらこんな事態になっても、まだサリフォンとその家来の意識は戻っていないようだ。その証拠にサリフォンの周りに、まだ砕けた赤い玉の欠片が、さっき戦ったままばらばらになって飛び散っている。
「アーシャル! こっちにたくさんあった! この玉の欠片を迷宮攻略の証拠にしておいてくれ!」
「わかった! 欠片でも回復の効力はあるから、ちょっと小さくても、学校に証拠として出すのなら、何とかなると思うよ?」
「よし! じゃあ、俺の代わりにちよっと拾っておいてくれ」
「うん。いいけど、兄さんは?」
「俺は――」
持っていた剣を改めて構える。そして剣を持っているのと反対の手で、まだ気を失っているサリフォンの頬を叩いた。
「う……」
微かな呻きと共にサリフォンが気がついて、目をこする。
そして、鮮やかな緑の瞳が開いた瞬間、俺はまだ覚醒しきらないサリフォンの首に剣の刃を当てたのだ。
「ひっ!」
刃の冷たさを感じたのだろう。
鈍い光が開き始めたばかりのサリフォンの瞳に映るのと同時に、見ている体が硬直した。首に当てられた剣の光に引き攣って目を見開く姿に、俺は低い声で囁く。
「いいか! 命が助かりたかったら誓え! 決して俺の母さんの昔の身分を口外しないと――! そして、俺の家族の誰も傷つけないと!」
たとえ、竜の記憶を思い出しても、人間の家族は今でも俺の家族だ。二つの家族とこれからどう関わっていけばいいのかわからなくて、本当は頭の中はかなり混乱している。
だからといって、十六年一緒に暮らしてきた家族への愛情がなくなったわけではない。
本心から殺意をこめて、俺はサリフォンの喉に当てた剣に力をこめた。あと、少し押せば皮膚が裂けて、血が滲み出るだろう。
俺の本気の殺意が伝わったのかもしれない。サリフォンの喉がごくりと鳴ると、微かに頷いた。
何も言わない行動を信用していいのかはわからない。
けれど、ためらう間にも、後ろでは凄まじい音で迷宮の天井が崩れ始めている。岩の砕ける凄まじい砂埃が起こった。
「兄さん! 早く!」
アーシャルの言葉に迷って、けれど俺は剣を引いた。
「兄さん!?」
こいつは気に入らないが、久しぶりに出会えたアーシャルとの記念すべき再会の日に、人殺しなどしたくない。
この俺の感覚は、人間のものなのか、それとも竜なのか――
「行こう」
俺は、急いで剣を腰にしまうと、駆け寄ってきたアーシャルのせかす声に急いでサリフォンに背を向けて走り始めた。
「兄さん! 急いで!」
だが走り抜ける俺達の横で、巨大な迷宮の石がいくつも落ちてくる。
衝撃の凄まじい音が床に響くたびに、壁から砂がばらばらとこぼれ落ちてきた。
――まずい! このままでは、もうあまりもたないだろう!
マームのことだから、迷宮全体が壊れるようなことはしないと思う。
だけど、ゴーレムの解体で、どうせ三階の床板が壊れたのならと、ついでとばかりに俺達をゴキブリよろしく叩き殺そうとしているのは明らかだ。
――特に三階は迷路で岩だらけだったからな!
俺達を殺す岩には困らないだろう!
「アーシャル! 出口はどこだ!?」
「だめだ! こっちの一階に続く階段は、全部岩で塞がれているよ!」
「ちっ――!」
叫んでいる間にも、広くもないこの地下室には、落ちてきた岩があちこちに刺さっている。それがいくつも組み合わさって、今ではかなりの高さにまで重なってしまった。
――落ち着け! 何か方法があるはずだ!
「そうだ! マーム!」
あいつを脅して、出口へ案内させればいいんじゃないか!
それなのに、見回した地下室の床にはどこにも姿が見えない。
――落ちてきた岩に潰されたのか?
いや、変態だがそこまで馬鹿じゃないだろう。だとしたら、俺がアーシャルとサリフォンに気を取られている間に逃げ出して、どこかで俺達が死ぬのを高みの見物をしているのに違いない。
「つくづく性格の悪い……!」
だが、また後ろで巨大な岩が床石を砕く凄まじい音がした。
「兄さん!」
「大丈夫だ!」
――だが、どうする! このままでは、俺達も岩の下敷きになってしまう!
考える間にも、岩が落ちた衝撃で砕けた細かい砂のかけらが俺の頬にふきつけてくる。
――くそっ! あいつ、大事にしていた迷宮じゃないのか!
散々壊した俺が言うのもなんだが、あんなに執着していたくせに、なんで自分で壊せるんだ!?
――いや。
俺は周りを包む風塵に咳き込んで目を眇めながら、辺りを見回した。
違う! 迷宮ごと潰れているのなら、俺たちは今頃もうとっくに、上に積み重なっているたくさんの巨岩で、逃げることすらできずに押しつぶされているはずだ。
それなのに、三階のゴーレムや床石――もしくは、迷路の岩を、三階の狭い穴からこの部屋へと集中して落としているから、 きちんと入らない岩が隙間だらけで上に積みあがっているんじゃないか!
――だとしたら。
はっと目を見開いた。
見上げた先で、岩はもう俺の頭上の遥か上、黒い吹き抜けの半分ぐらいまで届いている。
「アーシャル! あそこの岩の上に登って、壁をお前の熱で溶かせるか?」
「壁を!? やってみるよ!」
――さすが、俺の弟。それだけで何を考えているか、伝わったらしい。
人型のままふわりとアーシャルは空中に浮き上がると、見上げる吹き抜けの真ん中辺りに両手をつき、壁を赤く変化させていく。
――たとえ一階に逃げても、入り口を閉じられたままなら迷宮から逃げ出すことはできない!
だけどと、俺はアーシャルが溶かしていく岩を見つめた。
壁にある巨岩はアーシャルの熱に手の先でどんどんと溶けていくと、やがて赤くどろりと崩れた。そして穴が開く。
「でかした! アーシャル!」
その向こうに見えているのは、さっきまで俺が戦っていた二階の部屋だ。
俺は急いで、落ちて斜めに刺さっている岩を階段代わりに駆け上がった。そして、いくつもの岩を飛び越えて、中空の壁に開いた穴に飛び込む。
壁の向こうに見えているのは、真暗な二階の部屋。
そして、部屋の先に広がるのは、空からの風が吹きぬけていく俺たちが休んでいた三階への階段だ。
「行くぞ! アーシャル!」
俺はアーシャルの手を握ると、溶けた壁の穴から二階へと飛び出した。そして、暗い二階の室内を走り出す。そのまま階段へ向かい、開いていた広い岩の隙間から、二人で青空へと思い切り足を蹴った。
空に飛び出した俺の横で、アーシャルの体が輝くと、広い翼を持った真紅の竜へと変化していく。
赤い翼が、ばさりと大きく青い空に羽ばたく。
そして同時に、落ちていく俺の体を赤い体で受け止められるのに、笑顔がこぼれてしまう。
「ありがとう」
――ああ。二回も素直に礼を言えるなんて、俺にしたらなんて珍しい日だ。
でも、いいか。何しろ生き別れになっていた弟に再会できた、人生でも二度とない日なのだから――
こぼれてくる笑顔を我慢できずに、俺はアーシャルの背中をぽんぽんと叩いてやった。
俺の優しい手の動きに、竜の姿のアーシャルが嬉しそうに笑っている。
それに俺は黒い髪を風に靡かせながら笑った。
――ああ、アーシャルが自分で空を飛んでいる。
広く。自由に羽ばたいている。
――こんな光景をずっと見たかったんだ。
青い空に広がる強い赤い翼を見ながら、俺は笑顔が我慢できなかった。
だからどうしてもこぼれてしまう俺の笑みに気がついたのか、アーシャルが長い首で振り返る。
「僕ね、ずっと、また兄さんとこんな風に一緒に飛ぶのが夢だったんだ」
「そうか。じゃあ、今日は二人ともの夢が叶った日だな」
俺は飛びながら振り向いたアーシャルの竜の顔を優しく撫でた。その俺の手のひらに嬉しそうに竜の鼻を摺り寄せてくる。
青空に輝く弟の笑顔を、俺は世界中で何よりも貴重な宝物を手に入れたように笑いながら、十七年ぶりの想いで優しく撫で続けた。
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