第16話 誤解と思い込みって、殴りたくなるところが似ている
深い。
落ちていく穴の中で、俺は記憶の中に浮かぶ家族と妹の姿を思い出していた。
――ごめん。俺がどうしても剣士になって
無理して高い学費をやりくりしてくれたのに、こんなところでお礼の一つも言えずに死んでいくことになるなんて。
死んだらどうしよう――いや、何もできないだろうけれど、幽霊になってせめて竜の頭を殴りに行こう。だが、万が一にでもここで生き残れたら。
母さん、やっぱり竜の頭を殴りに行かせてくれ!
故郷の街に残した暖かい父と母の笑顔と、いつも後ろについてきた妹の顔を思い出す。そして顔の側を通り過ぎていく風に、次に来る落下の衝撃に備えようと身を丸くした瞬間だった。
突然、どぼんと大きな音がすると、今まで風圧で吸い込めなかった息が、今度は開けた口から押し寄せてくる水のせいでできなくなる。
息が苦しい。
もがいて、やっと気がついた。手は折れていない。
それどころか、足だって普通に動く。
「兄さん! 落ち着いて、息をして!」
だから人間は水の中では息ができないんだよ! お前の思い込みで、俺の肺を水だらけにして止めをさそうとするな!
げほげほと咳き込みながら、顔を水からどうにか持上げると、ひどくひんやりとした空気が、口から喉に入ってきた。
泳ぎが得意で助かった。これでかなづちだったら、間違いなくこの瞬間に天国の光を見ることになっていただろう。
まだひどく息は苦しい。けれど、前髪からしたたる水に目を眇めながら、前を見ると、俺が浮かんでいるのは広大な神殿のような空間に作られた深い泉だった。
暗く、あちこちにぽうっと明かりが灯っている以外に室内に光源はない。見たこともないような奇怪な魔物の像が、いくつか白い石の床に飾られているぐらいだ。
「大丈夫? 兄さん」
やっと息が整ってきて気がつくと、俺の体は水に浮かんだまま竜に支えられていた。
「ああ――」
俺が頷くのに竜がほっと笑う。次の瞬間、俺は思い切り竜の頭を殴りつけた。
「ひどいー! なんで支えてあげたのに、殴りつけるの!?」
「やかましい! なんで出口直前で罠に落とされないといけないんだ! お前俺を殺したいのか!?」
そうなんだな? 違うといっても、もう聞く気はないぞ?
それなのに、竜ときたら、なーんだ怒っているのはそんな理由かと慣れたような反応だ。そして頭のたんこぶをさすりながら俺を見つめている。
「だってあっちが偽者だから」
「は?」
竜の言った意味がわからなくて、俺は水から床へ上がりながら、思わずまばたきをした。
「だから、三階の扉に《?》ったあったでしょう。つまりあの扉がどこに通じているかは謎で、死に通じる迷宮主への扉は髑髏が描かれたこっちってこと。元々この迷宮、三階まで行かないと地下のこの部屋にこれない仕組みにしてあるしね」
「腐ってやがる。この迷宮主の発想!」
本当に一度その面を拝んでみたい。
どうしたら、ここまで陰険な罠や引っ掛けを仕掛ける気になるんだ。絶対に極悪な発想と根性の持ち主に違いない!
「んーじゃあ、あそこに今話した迷宮主がいるけど?」
俺を見ながら竜が指さした。指された先には、長い緑の髪を白い石の床に広げた美しい一人の女が立っている。
あれ? 何か怒っている?
そういえば、水に落ちたせいで俺が立っている辺りの床は水浸しだ。だけど、これはそちらが自分の迷宮をそういう設計にしたんだから、諦めてくれとしかいえないのだが。
「また、あんたなの?」
けれど、迷宮主は俺の隣りにいる竜を見つめると、きっと眉を吊り上げた。
おおっ! 今まで見た中で一番の美人が怒るとすごい迫力だ。だが残念ながらあまり好みのタイプじゃない。
杖を持ち、神話風のひだがたくさん入った白い服を着ているが、そんなに吊り目をきりきりと上げていては折角の女神風のイメージも台無しだ。
「マーム」
けれど、竜は相手の表情をなんとも思っていないように立ちあがると、笑顔で女性に手を振った。
「ひっさしぶりー!」
「二度と来るなって言ったでしょ!? 何回来ても、私はあんたの兄のことなんて知らないし、私の薬はあんたには効かないって言ってるのに!」
おおっ、やっぱり相当怒っていらっしゃる。当たり前か。今回の迷宮の修理の手間と費用を考えても、これで怒らなければ最早完全な神の領域だ。だが、どう見ても、この竜がマームと呼んでいる女性は違う。おそらく、どちらかといえば、対称の魔物の領域の女性だろう。
だけど、竜はマームの言葉ににこっと微笑んだ。
「ああ、それはもういいんだ。僕の目も治ったし、今日は兄さんの付き添いだから」
「え、兄?」
言葉と同時に、マームという女性の鋭い緑の視線が隣りにいる俺に注がれる。
眉がよせられ、怪訝げに吊り上げられた。
「ああ、生きていたの。昔より、術が上達したのね。ぱっと見ると、いたぶりがいのある人間にしか見えない程、うまく正体を隠しているから気づかなかったわ」
「ちょっと待て! 人違いだ! 俺はこいつの兄じゃない!」
俺は誤解を解こうと叫んで立ち上がった。それなのに、ますますマームは眉を顰めている。
「なあに? また兄弟喧嘩したの? こいつとなんて兄弟じゃねえは散々聞き飽きたけど、いい加減そろそろ大人にならない?」
ちょっと待て。なんで真面目に誤解を解こうとした結果が、そんな残念そうに溜息をつかれるんだ。
「まあ、いいわ。で? ここに来たのは一応薬が欲しいの? また単なる迷宮破壊遊びなんて言ったら、今すぐ三階のゴーレムを解体して、お前たちの上に落としてやるけれど?」
「おおっ、完全に殺す気満々だな」
「当たり前でしょ? まったくなんで蟻やゴキブリの殺虫剤はあるのに、竜だけはないのかしら?」
「それは間違いなく竜が虫じゃないからだ」
「じゃあもうトリカブトでいいわ。ヒグマも倒せる毒なら、せめて痺れさせて迷宮の外の燃えないごみの日に出すことってできないかしら?」
――おい。こいつ。
「俺は、竜は生ものだとおもうが?」
「ええっ!? 兄さん、よりによって反論はそこなの!?」
「そうね。確かに間違っていたわ。明日が近くの村の燃えるごみの日だから、おとなしく袋に入ってくれない?」
「その前に、俺にあいつを三十発ほど殴らせてくれたら考えてやろう」
「そんな!?」
竜が後ろでショックを受けているが、さっき俺を予告もなく突き落としてくれたんだ。これぐらいの意地悪はいいだろう。
「いいわよ? ただし、私にも二人とも三十発ほど殴らせてくれたらだけど?」
「それは断る」
なにが悲しゅうて、竜と同じたんこぶを作らねばならん。けれど、答えた瞬間マームの気配が変化した。
緑の髪がゆらりと広がり、まるで値踏みをするようにこちらを見つめてくる。
「ふうん、相変わらずね。水竜のガキ。やっぱり私がその火竜を傷つけるのは嫌なのね?」
「いや、完全な誤解なんだが」
むしろ叩いてこいつの頭の花が治るのなら大歓迎だ。しかし、どう考えても、これ以上ぱっぱらぱーに咲き誇る光景しか想像できない。
けれど、マームはふうんと酷薄な表譲を浮かべると、細くなった瞳で俺を見下ろした。面白そうに膝を腕で抱き、高くはない空中に浮かび上がっている。
「で? 水竜。わざわざ人間に化けてまで、弟とまた私の迷宮を訪ねて来たのは薬が目的なの? それとも、また助言が欲しいの?」
何か勘違いしていないか、こいつ。だが、俺はマームが放つ禍々しいオーラにおされないように、必死に笑っている緑の瞳を見返した。
「薬だ。それが必要なんだ!」
剣士試験に合格するために――
そして、家族を守るために。
すると、ふうんとマームは笑ったまま肩を竦めた。
「いいわ。じゃあ、薬が欲しかったら、選びなさい。私のしもべと戦うか、私の靴を舐めて服従を誓うか、それとも私とじゃんけんをして勝つか――どれでも、あなたの好きな方法でいいわ」
――おい。
耳に聞こえた最後の選択肢を疑った一瞬だった。
間髪をおかず、竜が大真面目に答える。
「じゃあ、一番のしもべと戦うで」
「おい! なんでよりによって一番危険なのにする!?」
「え? だって生死をかけたら、昔のことを思い出すかもしれないし」
「ここに来てもそれか!?」
ぶれてない。だが。
「じゃあ、お前さっきまでの罠で、真っ青になって俺を心配していたのは一体なんだったんだ!?」
逆にものすごく矛盾していないか? それなのに、竜はそれを聞こえないふりをしているのか、俺の方を振り向きもしない。
おい。
だけど、代わりに竜はマームに顔をやると、冷たい瞳で目の前に浮かぶ姿を見つめている。
「あ、でもマーム。兄さんを殺したり怪我をさけたりしたら許さないよ。とことんいたぶる以上のことをしたら、僕が今度こそ、ここを完膚なきまでに破壊するからね?」
「おまえ、止めることはそれだけか!」
どうせならいたぶるのも許可しないでくれ!
けれど、息を荒く叫んだ俺に、やっと竜は顔を近づけると、ひそと囁いた。
「どうせじゃんけんなんて、マームお得意の八百長に決まっているよ。それに靴を舐めた挙句に、ハイヒールで背中と頭を踏まれて兄さんが変な性癖に目覚めても困るだろう?」
「竜――」
――それはそうかもしれんが、とりあえず、俺がそれを快感に感じるという思い込みもなんとかしてくれ!
なんだろう、このやり場のないもやもや感。
「わかったわ。私が殺したり傷つけたりしなければいいのよね?」
マームがぷくっと不満そうに唇を尖らせた。どうやら、竜の脅しの効果はあったみたいだ。
仕方がない。
多少釈然としないものはあるが。俺は立ち上がると、泉の側に落ちていた剣を拾った。
そして構えた。
そのときだった。突然、上から激しい落下音がすると、どほんと泉にいくつもの手足が蠢いたのは。
「あら、また攻略者?」
嫌そうにマームが眉を顰めている。マームの表情に、言葉が指す方角に視線をやって、俺は泉の上に浮かんできた顔に息を飲んだ。
「サリフォン!?」
――まさかもう追いついてくるなんて――
水に浮かぶ見覚えのある白金の頭に、俺は唇を噛み締めた。
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