第11話 ちょっと待て! 前提がおかしい!


 ゾンビが、俺の鼻にかかるほどの距離で死臭に満ちた口を、おぞましい匂いと共に開いた瞬間だった。


 ――だめだ! やられた!


「兄さん!」


 俺の首を狙うゾンビの手に押されて、床に尻をしたたかに打った瞬間、どんと遠くで激しい音がした。次の瞬間、死を覚悟した俺の周囲を凄まじい火炎が取り巻いていく。渦を巻く激しい火炎に俺を喰らおうとしていたゾンビが、一瞬で炎に飲み込まれた。


「大丈夫!?」


「竜……」


 後ろからした声に振り向くと、竜が凄まじい火炎の旋風で、ゾンビの群れから俺の周りを防ぎながら駆け寄ってくるではないか。色をなくした顔は、見た俺の方が驚いてしまうぐらい真っ白だ。


「兄さん、怪我は!? 体は大丈夫!?」


「ああ、どうにか」


 大丈夫じゃないのはおまえの方だろう。そんなに青を通り越すほどの顔色で、泣きそうになって駆け寄ってくる。


 ――おいおい。ついさっきまで、隙あらば俺に生死の境をさ迷わせようとしていたのは、お前じゃなかったのか。


 軽口で悪態をつこうかと思ったが、やめた。


 だって俺へと近づいて来る竜の足は、ここから見てもわかるぐらい、がたがたと震えている。そんなに怖いのに、必死に炎の壁の向こうを見ないようにして、床に尻をついた俺の側に駆け寄ると手を握りしめてきた。


 俺の手を持つ指まで震えているぐらい怖いのだろうに。それなのに、赤い瞳に涙を浮かべながら、必死で飛び込んできてくれた。


 それになんだか嬉しくなるのと同時に、情けなくなる。


 ――俺はたった百体程度のゾンビからさえ、お前を守ってやれないんだな。


「すまん。ちょっと体がうまく動かなくなって――」


 だがこんなに怖がっているこいつを、ゾンビたちの前に晒すわけにはいかない。最低でもここだけはなんとかしてやらないと。竜の様子に自分を奮い立たせると、俺は立ち上がろうとした。


「体って――兄さん、どこか悪いの?」


 心配そうに訊く竜の声に、不安を増やさないように悪態で返してやる。


「ばーか。俺より頑丈な男なんているわけないだろう? その証拠に虫歯もゼロだ」


「いやあ、虫歯だけじゃあ、せいぜい石頭の言い訳が関の山だと思うよ」


 虫さえも食い破れないってねと言いながら、竜の瞳は誤魔化されるもんかと半眼になっている。


 うっとその視線にたじろいだ。けれど、諦めて、小さな息をつきながら立ち上がった。


「本当にたいしたことはないんだ。ただ、何故か最近、剣を長時間握っていると体が動かなくなって――」


 本当になんでこんな症状が出るのだろう。体がうまく動かなくなるこの症状のせいで、それまで一番得意だった剣技が、学年最下位の奴にも負けるようになってしまった。なにしろ、持久戦に持ち込まれれば間違いなく自滅するのだ。気がついた学校の奴らが、これまでのお返しとばかりに実技の時間中逃げ回り、あっという間に俺の成績は学年の一番下になってしまった。


 どこも悪くはないのに――それとも、何か俺の気がつかない病魔でも体に潜んでいるのだろうか。


 ふうと、もう一度小さく息をこぼした時だった。


「それって、この剣?」


 俺の言葉に竜が白い手を伸ばすと、床に落ちていた剣を拾う。


「ふうん」


 そして刀身を両手で抱えると、一瞥してくすっと笑った。


「当たり前じゃない。兄さんは水竜なんだから。だだでさえ鉄と相性が悪いのに、こんなに鉄の純度の高い剣を使っていれば、あっという間に体内に鉄の気が沈みこんで、兄さんの力の流れをせき止めるのに決まっている」


「え!?」


 剣を持って笑っている言葉に驚いて、俺は竜を凝視した。


 ――ちょっと待て。その剣が原因!?


 だが、そう言われてみれば確かに謎の不調が来たのは、長年使っていた剣が一度折れて、新しい刀身にしてもらってからだった。サービスで強固なものに変えてくれた分、安物だった前より鉄の比率は上がっているのかもしれない。


 思い当たる節はある。だがそれよりも――


「ちょっと待て! なんで火竜のお前の双子の兄が水竜なんだよ!?」


 普通は火竜の双子なら火竜なものだろう!? 第一それはあくまで、俺が兄の水竜だという推測の上にしか成り立たない!


「そりゃあ僕たちの父さんと母さんが水竜と火竜だから」


「納得できる説明をありがとう!」


 くそっ! どこにも論破する糸口がない。


 いや、だが、それだと俺がやっぱりこいつの兄だということになってしまう。そんな馬鹿なことがあるのか。人間の俺がこいつの兄だなんて――


 思わず抱えてしまった頭の横で、竜は突然自分の指をかりっと噛むと、その皮膚の一部を引っかいて破いた。


 それをぷっと口から吐き出す。すると、竜の手の中で、それはルビー色のまるで宝石のように美しい大きな一枚の鱗に変わった。


「竜?」


 お前何をしているんだ?


「だから、ちょっと材質を変えてやれば、兄さんの気に沈み込まないはずだよ」


 言うのと同時に、剥がした鱗を俺の剣の刀身に当てている。ルビー色に透き通る鱗と重なった剣の金属が赤い光を放ち、ぽうっと竜の手の中で輝き出す。


「僕は火竜だから、本来水竜の兄さんとは正反対の相性だけど、同じ血を持つ兄弟だからね。僕の鱗を加えれば、兄さんの気を邪魔したりはしなくなるはずだ」


 竜の手が輝いた瞬間、真紅の光が眩しく剣を包んだ。次の瞬間、それまで黒に近かった剣の刀身が、鮮烈な赤い光を帯びる。あまりに眩しくて、眼を開け続けていることもできない。


 けれど、やっと瞼を薄く開けられた時、竜の手から溢れていた閃光はおさまり、代わりにその手の中の剣は、ぽうっと淡く赤く輝いていた。竜に持たれた刀身は、剣の表面を水晶で覆ったように不思議な透明感を帯びている。


「はい、これでいいと思うよ」


「お前、これ――」


 はいと渡された剣を自分の前に掲げ、刀身が帯びた圧倒的な美しさに息を飲む。とても鉄とは思えない。いや、竜の鱗が加わったことで、何か別な物質になったようだ。


「どう、兄さん?」


 にっこりと笑う竜の前で俺は受け取った剣を振ってみた。


 恐ろしく軽い。


 まるで生まれた時から自分の皮膚の一部だったように手に馴染む。持っているという感覚さえ忘れてしまいそうなほどだ。


「うん。動きやすい――」


「そう、よかった」


 素直に礼を言うのが恥ずかしくて、笑いながら竜を見つめると、次の瞬間俺の目の前から竜が階段まで飛んだ。


 そして階段の陰でがたがたと震えながら、こちらを見つめてくる。


「じゃあ、お願い! 兄さん、そのわらわらいるのを何とかして!」


 まるで台所で出たゴキブリ退治の依頼だ。お前はどこの乙女だと竜の行動に言いたくなるが、そんなに怖いのに、俺のためだけに目を半分閉じながら飛びだしてきてくれたのか。


 それなら、やらないわけにはいかないだろう?


「ああ、まかせろ!」


 竜を安心させるように俺は大きく頷くと、ゾンビの群れへと向かって走り出した。



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