技術の差
「……見つけた」
リコが呟いた。リコが一直線で俺の方を見ていた。きっととてつもない勢いで走ってきたのだろう。息を切らし、おでこには汗を光らせている。
——何も言うな。何も言っちゃだめだ。
俺は目でリコに合図を送った。
まだ、まだ間に合う。挽回はできる。
リコのすぐ横には小鳥遊雪斗がいる。「どうしたんだろう」という困惑した表情でリコのことを見ている。リコの存在に気付いている。
が、それでもまだ挽回は可能だと俺は信じていた。
このまま何も言わず、波を立てず、去ってしまえば、新歓祭で浮かれた誰が暴れていただけだと流してくれるかもしれない。まだ大丈夫。
——何も言うな。後で話は聞くから。
リコに目でメッセージを送る。
リコとはここまで一緒にやってきた仲だ。きっと伝わる。
きっと——
「見つけたよ! ゆうにゃん!」
リコの声が廊下に響いた。伝わらなかったようだ。
突然、リコがこちらにむかって走り出した。
——あれ、この感じ、
デジャヴを覚えた。女子が俺に向かって走ってくる。
こういったシーンは、何度か経験している。こんなシーンの後、俺は大体ひっくり返っていて、気がついたらなぜかぶつかってきた女性の——というより心優の胸を掴んでいるのだ。
——まさか、あいつ、
ここでラッキースケベでも起こそうってか。
リコは脇目もふらずこちらに走ってくる。頬を赤らめ、鼻息を荒くし、目にはやけくそのような覚悟が
ヤバイ、と思う。
違う。
違う、違う、いまじゃ、いまじゃない!
「ゆうにゃんー!」
「ぐうぅ――」
みぞおちにきた。リコの全体重と助走による運動量とガムシャラな覚悟が全てみぞおちに突き刺さった。
体験したことのない激痛だった。頭の中で火花が散った。
倒れ込む。
普通のラッキースケベなら、ここでリコに馬乗りになっているのだろうが、今は違う。リコが俺の腹の上に乗っている。
「……い、——いま、じゃ……」
もう声にならない。
「だ、大丈夫ですか?」
小鳥遊雪斗の声が聞こえた。
俺は横目で心優たちの方を見た。
——ヤバい。
小鳥遊雪斗と目があった。完全にこちらを認識していて、倒れ込んだ俺を心配して駆け寄ろうとしているところだった。
——雪ちゃんだけには、絶対に勘繰られないでください。おかしいと思われたら、それだけで物語が全て台無しになってしまいますから。
これはまずい。
これはまずい。
このままだと、小鳥遊雪斗が俺たちに話しかけてくる。
話しかけられたら最後、俺は小鳥遊雪斗と会話をしなければならない。会話をすると、俺は小鳥遊雪斗に認知されてしまうわけで、要するにそれは、彼らの物語の登場人物になってしまう。
無視しようか。
いや、それも無理だ。
こんなド派手にこけて、やさしさで声をかけてもらっているのに、それを無視なんてしたらそれはそれで印象に残る。それはつまり、物語において余計な波を立ててしまうことになる。
無視するわけにはいかない。
でも話をするわけにもいかない。
どうしたら——
「——あ、」
気づいた。
こちらを向いている小鳥遊雪斗の後ろで、心優とカスミがすでに行動に移していた。
まるで、スローモーションの映像を見ているかのようだった。
最初に動いたのはカスミだった。
A組の前では看板を白く塗っている学生がいて、その足元に白色のペンキ缶が置いてあった。カスミはとっさにそのペンキの缶を掴んだのだ。
――いくよ。
カスミが心優にアイコンタクトした。
口にはしていないが、そう伝えていることは表情でわかった。
――うん。
心優は小さくうなづくと同時に、小鳥遊雪斗の背中に向かって走り出した。
カスミが小鳥遊雪斗を目掛けて、ペンキ缶を投げた。ペンキ缶は寸分違わず小鳥遊雪斗の足元に向かって飛び、直撃した。小鳥遊雪斗はちょうど俺たちのほうに向かって走り出そうとしていたところで、ペンキ缶に足を取られた。
小鳥遊雪斗がつんのめるようにして、体勢を崩した。
その瞬間を狙って、心優が後ろからグイと小鳥遊雪斗の胴をつかんだ。滑り込むようにして、小鳥遊雪斗と床の間に体を入れる。まるで水泳の飛び込みのように、無駄のない鮮やかな動きだった。
どん、と人が倒れる音と、びしゃ、とペンキがこぼれる音がした。
「きゃあっ」
「いったた、——え?」
小鳥遊雪斗が体を起こす。彼の目の前には心優が倒れている。
心優が白いペンキを顔から垂らして、
「もう。せっかく新しく作ったメイド服なのに、さっそく雪ちゃんに汚されちゃった」
「だから、なんでいつもこんなことになるんだよ!?」
小鳥遊雪斗の視線が心優に向いている。
その隙に、俺はリコを抱え上げて、すぐ横のD組の教室に飛び込んだ。
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