逃げろ!!


 高級外車が高層ビルに突っ込んだとき、ものすごい音がした。

 なんとかタクシーを急停車させる。下車し、ビルに突っ込んだ高級外車に駆け寄ろうとしたら、藍見さんを誘拐した奴らが車から出てきた。


「あいつら、」


 戦おうかと思った。

 戦おうかと思ったが、奴らはこちらを見ることもなくさっさとその場を走り去ってしまった。怒りが湧く。藍見さんがいないということは、ほったらかして逃げたということだ。


「藍見さん!」


 高級外車に駆け寄る。近づくとその衝撃の大きさに言葉を失う。車の前半分はもう原型を留めておらず、かろうじて残った後ろ半分は傷まみれだ。


 後ろのドアを開ける。


 後部座席に藍見さんが横たわっていた。気を失っているようだ。


「藍見さん! 藍見さん! 大丈夫か」

「……ん」


 藍見さんが目を開けた。そばにいるのが俺だと気づくと、彼女は悲しそうに顔を歪め、


「あの! ごめんなさい。また私、あなたに迷惑かけてしまって」

「今はいいから! 体にケガはないか?」

「大丈夫です。——あっ」


 彼女が身をよじった瞬間、痛そうに表情を歪めた。

 

「足が——、足が何かに引っかかってます」


 見る。割れた窓ガラスからビルの破片が入り込んでおり、ガレキが彼女の足を挟んでいる。


 俺は後部座席に乗り込み、そのガレキを取り除こうとした――が、重たい。生半可な力では動かない。破壊されたビルの壁なんて初めて触るわけで、下手に掴んだらその重さと鋭利な断面で手の平が切れてしまいそうになる。


「い、……痛い」


 体の力を使ってガレキを動かそうとすると、下敷きになっている藍見さんが歯を食いしばった。下手に動かそうとすると、断面が足にめり込むようだ。


「俺が持ち上げている間に、足を抜けないか?」


 彼女は涙目で首を横に振った。どうにもならないその状況に俺は怒りがこみ上げる。もう無理かもしれない、と思う。


「ゆうにゃん、これ!」


 リコが鉄のパイプを持ってきてくれた。おそらくビルの支柱だったものだろう。


「急いで、ゆうにゃん! ビルが燃えてる!」

「え?」


 顔を上げる。高層ビルの中。車の衝突の衝撃のせいか、ビルから火が出ている。あの火が、この車に燃え移ってしまったら——

 

「ゆうにゃん、急がなきゃ!」


 リコが声を荒げる。パイプを握り直し、藍見さんの足を挟んでいるガレキの下に潜り込ませ、テコの原理で持ち上げる。


「おらああっ」


 さっきまでビクとも動かなかったガレキが、ぐるりと回転して、藍見さんの足が解放された。彼女の膝には、血が滲んでいる。


「肩につかまって」

「は、はい!」


 顔をしかめながら、藍見さんが健気に立とうとする。リコと協力して彼女を高級外車から出し、俺たちが乗っていたタクシーに移動しようと思って、


 爆音、


 高層ビルの奥で何かが爆発した。給湯室のガスボンベに引火したのかもしれない。先ほどまで見えていた火が、さらに増大し、まるで蛇のように地面を伝い、周囲に広がっていく。


「やばい——」


 腹の底がぞくりと冷える。ビルごと炎に飲み込まれてしまう。膝が震える。早く、早くタクシーに戻らなきゃ、


 再度、ビルの中で爆発。

 熱風と振動。ガラスの割れる音。バカみたいに地面が揺れ、それでなくても恐怖で震える俺の体はバランスを崩し、その場に倒れ込む。


 ガレキが降ってくる。


 俺はその様子を、地面に座り込んだまま惚けたように見ていた。


 まるでスローモーションの映像を見ている感覚。空からゆっくりとガレキが落ちてきて、その距離が迫ってきている。逃げろ、逃げろと頭でどれだけ思っても、腰が抜けて体が言うことを聞かない。あと数秒で、――いや、1秒にも満たない時間で、ガレキが俺の脳天を踏みつぶす。焦り狂う心の中の片隅で、ちょっとだけ冷静な自分が「ああ、俺は死ぬんだ」と他人事のように思う。


「ゆうにゃんっ!」


 ぐい、と襟を引かれた。驚くほど強い力で、俺は道路を転がった。


 ドカン、と耳をつんざくほど大きな音がして、ついさっきまで俺がいた場所にガレキがめり込んだ。その音で、俺は我に返る。


「車に戻って、――早くっ!」


 リコに腕を引かれ、俺は何とか立ち上がった。よろよろと千鳥足で運転席に転がり込む。藍見さんとリコは後部座席に乗った。


 ガレキが落ちてくる。右のサイドミラーが壊れ、フロントガラスの隅にヒビが入る。


「——ゆうにゃん、タクシーを出して! 車がもえちゃう!」


 リコが叫ぶ。頭ではわかっている。わかっているが、後方でビルが燃える音で頭が真っ白になる。


 ――あ、あれ、


 どうすれば車は発進するんだっけ。さっきまで運転していたのに、なにをどうやったら良いのか分からない。アクセルを踏んでバカみたいにエンジンが回転し、それからシフトをローに入れてふたたびアクセルを踏むものの、それでも車は発進しない。


「サイドブレーキ!」リコが叫んだ。


 下げた。すんでの所で堪えていたエンジンの動力が解き放たれ、きゅきゅきゅとタイヤが悲鳴をあげて車が急発進する。むち打ちになるほどのGがかかり、シートに押しつぶされそうになる。が、俺はなんとかハンドルを握り続ける。「捕まってろ!」と後部座席の二人に叫び、アクセルペダルに乗せた右足に体重をのせる。


 ——急げ、急げ急げ、


 右へ左へ、尻を振りながら車は進んでいく。


 一メートルでも、一ミリでも遠く、あの場所から距離を取らなきゃ――


 爆音。


 後方で、高級外車が爆発した。ついさっきまで横にあった高層ビルが飛び跳ね、真っ赤に光ってから崩れ落ちるのがミラー越しに見えた。


 大通りを一直線に突っ走る。なんだか運転しながら変な気持ち悪さがあると思ったら、先ほどの衝撃で車体がゆがみ、自然と左に傾くからだった。意味をなさない赤信号を無視し、「飛び出し注意坊や」をなぎ倒し、違法駐車に車体をこすりながら車を走らせる。もう大丈夫だとリコが後ろから言っても、俺はスピードを緩めることができない。


 どこまでも続く大通りを、焼き付きそうになるほどエンジンを回して、ボロボロの車で突き進んでいく。

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